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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2018年03月04日

電気ブランと萩原朔太郎

電気ブランと萩原朔太郎

その「電気ブラン」なんだが「神谷バー」です。
なんか雷門辺りからスカイツリーなんだが景観条例違反です(笑)。


一人にて酒をのみ居れる憐(あは)れなる となりの男になにを思ふらん
(神谷バァにて) 萩原朔太郎

これは大正初期、朔太郎が二十代の時に詠んだ歌です。

店内のざわめきをよそに一人静かにグラスを傾ける朔太郎、さぞやデンキブラン(当時は電気ブランデー)が胸深くしみたことでしょう。

「神谷バー」

先日、昔の仕事仲間、仙台から出てくるというので上野、松坂屋近くで待ち合わせ・・・・・
待ち合わせまで時間があったので歩いて浅草まで合羽橋を抜けるとじき浅草浅草寺です。

ところで浅草寺と仲見世の家賃を巡る騒動は決着付いたんでしょうか(笑)。
まあ、世知辛いといえあ世知辛いんだけど、坊主はどこまでセコイんっていう話です。
確かに仲見世の家賃は破格らしいんだが、そういう問題じゃあない、つまり浅草寺自体が「仲見世」で持っているわけです。
つまり浅草寺と仲見世は一心同体ってぇことじゃあないんだろうか。
ま、歴史から言ったら、分け合って浅草寺に門前市を開いた、江戸時代なんだろうが・・・・・

そう言えば高崎の少林山「だるま市」でもお寺と露天商と出店料でもめて、露天が締め出し。

ま、露天商だって生業ですから、これまで少林山とは持ちつ持たれつだったんじゃあないの?
その意味では昔は棲み分けていたわけです。坊主だって言ったら仕事は人様の不幸で食いつないでるようなもんだ。
だからけして偉そうなこと言える立場じゃあないんだ。

そもそもが、お寺ってなんなんだってぇ話です。
釈迦に説法じゃあないが、世の中の困っている人を救うのが宗教なんで、金がかかるから家賃を上げるとか出店料を増額しろって。
そら大きな勘違いですね。宗教法人の民業圧迫です(笑)。

で、人が死んだらお経代がいくらだの、院号代がいくらだのて言われた日には世の中困ってる人は死ぬこともできない。

まあ、風情も人情もあったもんじゃあない、ほんと世知辛い世の中です。

でだ、最近消えた年金の問題はどこかへ行っちゃったようなんだが、高崎も前橋も人口減少を危惧とかだが。

人口減少なんてとっくの昔に分かっていることなんで、行政、今がよけりゃで後のことは考えてない。

そら、人口流入を促進とかなんだが、そんなもん他所から持ってきたら他所が減るだけです(笑)。

しかしアレです。高崎市も人口が正味21万人位の時の方が賑やかだった・・・・・
30万、40万だって言い始めて街中さっぱりになっちゃって、これって一体どういうことなのか、考える必要が有るね。
つまり、20万人そこそこの時代の方が、20万人が金を使った。

今は37万人とかなんだが、10万人くらいしか金使わない。
そらそうです37万人のうち11万人が高齢者で、生産人口が20万人、しかもほとんどが非正規。
これじゃあ、行政、笛吹けど踊らずです。

そんなことは統計上分かりきってることなのに、まあ、それだもの日本は戦争に負けるわけです。

つうことはこれからの時代、戦前、戦中とおんなじで「欲しがりません勝つまでは」だろうか。

つくづく、「電気ブラン」の時代が懐かしいですね。

萩原朔太郎、20代の頃に詠んだ歌って、そういえば吉田拓郎も井上陽水も20代で終わってますね。

電気ブランと萩原朔太郎

  


Posted by 昭和24歳  at 22:21Comments(0)

2018年03月04日

懐古する絶滅危惧種「団塊世代」

懐古する絶滅危惧種「団塊世代」


食いもんそのものではなくどちらかと言えばそれは食堂の類なのだ。

僕はどちらかというとそんな風なのが好きかなと。

どうでもいいことだけど・・・僕ら世代はその必然性に育ってきた。
「終戦」と云う言葉を急いで忘れようとしている大人たちの生活文化の中。
文化と言うほどのものではないが(笑)。

「駄菓子屋」に「お好み焼屋」は、僕ら戦後っ子にとって、それは日常そのものであった。

着色料、添加物たっぷりの駄菓子、「ソースイカ」。
衛生も糸瓜もないサッカリンたっぷりの「舐め紙」。
そして極めつけの芸術作品でありながらも、小学校の門前で小汚いガキ連中を相手に屋台で商っていた「お新粉」屋。
新粉を色とりどりに捏ねて、鶏だの兎だのとそれでこしらえてくれる。
戦前は何処かの和菓子職人だったのだろうかものの見事な芸術作品が瞬く間に仕上がる。

「腹壊すからそんなもん食うんじゃあねえ」

と、親たちは呆れていたが、下校時ともなるとそのガキ連中(僕等)が、テカテカのお下がりの「詰襟」と下駄に足袋で、
「5円玉」握り締めて目を輝かせてお新粉屋のオジサンの屋台に列をなした。

丁度、配給も終わって、そろそろ米穀台帳なしに米が買える時代・・・・・

それは昭和33年頃だっただろうか。

そのお新粉屋の屋台と入替わり立ち代りに、焼きそば屋、飴細工屋、針金細工屋が店を張った。
そう、それこそが僕ら団塊世代の原点だったのはないかと思う今日この頃。

終戦、まだ干支がひと回りした頃の時代。
「夜泣きラーメン、食堂」なんて云ったら、盆暮れあるかないかの「御馳走」。今ではとても想像はつかないが。
朝飯を炊くにしたって「竃」炭を熾して薪をくべる。電気釜なんて言うのはそれからしばらくしてからの話だ。

秋刀魚、煮もの、味噌汁は「七輪」。昔は良かった。
家族団欒の、食事とか何とか言ったってあの頃はそれこそ家中で喧嘩騒ぎで飯を食う騒ぎ。
兄弟姉妹の四、五人もいようもんならわずかなオカズを取りっこで親父の怒鳴り声とオフクロの小言が耐えることがなかった。

しかし、あの時代を懐かしがるなんて言うのはずいぶんと勝手な話で・・・・・

まあ、僕ら子どもで世間の様子には頓着はなかったが、朝鮮動乱も片付いたか片付かないかの頃。
下手をすれば、また「戦争」かなんて言う物騒な時代だったらしい。
内風呂なんてある家は当然向こう三軒両隣あるはずもない・・・・・
銭湯も老若男女、大衆の社交場。
貧乏比べを笑い飛ばしていた「愉快」な時代だった。

便所は、汲み取り式・・・・・肥溜め屋が野菜の肥料集めに一軒一軒回ってく。
梅雨近くになると、役所の消毒車(自動車ではない、リアカー)に消毒液噴霧ポンプを積んで、
これまた一軒一軒消毒して周る。

蝿帳に蝿取紙、蚊帳に蚊取り線香・・・・・
「停電」なんて日常茶飯事。

コンメ喰って、腹痛起こして死んじまったり、イボ、ハタケ、タムシ、ハゲ・・・
鼻水はたらたら、シモヤケ、アカギレ・・・・・
今の親が見たら卒倒してしまいそうな健康状態の僕等。
もちろん、よっぽどでなければ「医者」なんて行かない・・・と云うより、当時は殆どが「往診」。

ベーごま、めんこは子ども達の経済養成所。

如何にして勝つか、如何にして身上を残すか・・・・・
「ベーごま」では、持ち駒で一番強いのを「身上丸」と云って財産にしていた。
そんな連中、戦後っ子が、勝負強かったはずなのに今では・・・その「経済」も、落ち目。

恐らく、今、閣僚席、永田町に生息する「霊長類」にはそうした体験、そうした時代的経験は無かったのでは。
田名部、元農水大臣」がいつか国会で云っていたとおり、商売、勝負に経験が無い。
貧乏人とは、庶民大衆とは遊ぶことはまかりならん。
子どものうちから、金勘定するなんて品が悪いとか・・・・・
もっとも、大人になってから「労働」もせずに「金勘定」ばっかしているのだから、何おか況やだが。

このところ高崎も「絶メシ」とかピーチクパーチク五月蝿いんだが。

ホントの「絶メシ」は「絶メシ」になっちゃっている。

焼きとりで言えば「万作」なんってぇのもそうだろう、唯一昭和の名残を感じさせるのが「ささき」。
ラーメンで言えば「ジンギスカン」、最近はハイカラな名前になっちゃってるけど(笑)。

未だ、その名残は僕を「癒す」のに十分な「風情」がある。

東京では、目白の「丸長」。ラーメン屋だが・・・その手の「雑誌」に載ることはない。

最近載ってしまったようだが、新築して「丸長ビル」?

後は、恵比寿の「酒蔵」・・・行ったものでしかわからない風情がある。
しかしもう閉めてからかれこれ20年にはなるだろうが、その恵比寿マーケットの飲み屋街が最近TVで話題になっていた。

高崎のは東一条通り商店会が「昭和横丁」と銘打って週末イヴェントとして露店を開くらしい。
今のところは試験的にやってるようだが、それでも夕暮れ、三々五々物珍しさか、街中横丁がニギヤカだ。

まあ、昭和を演出するには昭和人でなければ・・・・・


  


Posted by 昭和24歳  at 09:21Comments(0)

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