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2015年04月01日
戦後「昭和の高崎」風物史①
戦後「昭和の高崎」風物史①

通町の「三富士食堂」
平成の今日「コンパクトシティ」を提唱するが・・・・・
昭和、それも戦後の高崎は見事なコンパクトシティだった。
街中、本町通りから田町通り、連雀町、あら町から駅前通と所狭しと公共交通機関が忙しくしていた。
昭和28年に廃線された「チンチン電車」はなぜ廃線となったのかは今にして思うと合点の行かないところだが。
たしか、戦前からあった。いや、戦前というよりは物の本によれば大正3年頃の営業開始だったとか・・・・・
僕は仕事で富山、豊橋、福井、広島等々でその「チンチン電車」をよく利用した。
その意味では、高崎の「チンチン電車」の廃線も、言われるモータリゼーションとは関係ないようだ。
もっとも、本格的「モータリゼーション社会」を迎えたのは昭和40年代以降からだし、その「廃線」からは干支一回りの時間差があった。
そもそも、現状、高崎市と同規模の豊橋、福井、富山市ではその自動車社会の中を共存している。
で、廃線の理由が設備の老朽化と累積赤字とかだが、今日そこにあるべき公共交通機関の乏しさに百年の計は見えない。
その意味での条件ならば、豊橋、福井、富山市も同じことではなかっただろうか。
まあ、ないものねだりをしても仕方のないことだが・・・・・・
もし、「高崎=伊香保」間にその「チンチン電車」が走っていたらと想像すると思わず楽しくなる。
さて・・・・・
そこで、高崎の街中を考察すれば、なんと「喫茶店」らしきものが全て姿を消している(喫茶コンパルは営業してるが)。
まあ、喫茶店だけにあらず、食堂、ラーメン屋等も、それらしきもの中銀の「田島食堂」と通町の「三富士」の昔ながらだけである。
と、とやかく言っても仕方がない。戦後70年だ。その70年を言えば、敗戦時の昭和20年から70年を遡れば・・・・・
「幕末」だったわけだから、団塊世代も「思えば遠くへ来たもんだ」といったところだろうか(笑)。
で、その昭和40年代の始まりの頃の高崎だが、街中「喫茶店」だらけでした。
そこで、僕のファースト珈琲は何時のことだろう(実はコーヒーを窘めない僕)。
多分、それはエレキバンドの仲間と行ったオシャレデパートのとこの「ナポリ」か。否そうではない。昭和四〇年も明けたばかりの頃恐る恐る、胸を高鳴らせ始めて入ったのが本町三丁目の「あすなろ」ではなかったろうか(間違っていたら乞う連絡)。
たしか、やはりエレキバンドの先輩に連れて行ってもらったような記憶がある。
その「あすなろ」はもうひとつ、鞘町の学陽書房の隣あたりに映画館と並んであったように憶えている。何でもその「あすなろ」はクラシックを専門に聴かせる「音楽喫茶」で、リスニングルームも確かあったのではなかっただろうか。本町三丁目のそれとは大分趣を異にしていた。
時にはそこ「あすなろ」では群響の楽団員の人たちがコンサートをやっていた。もとも僕の場合はクラシック、交響楽と言った高尚な芸術はチンプンカンプン。なにせ、その頃は「エレキ」に夢中で誰と行ったのか、いや、誰に連れて行ってもらったのかさえ全く憶えていない。ただ、一、二度、入ったような気がするだけだ。
僕はもっぱらその手前、うなぎの「銀直」の隣辺りの、床屋の二階の喫茶「コンパル」だった。エレキバンドで出演していたダンスホール「みゆき」の休憩時間にはいつもメンバーとそのコンパルへはよく通った。
そうだ、連雀町だったかの噴水のある「喫茶ローマ」。
そこには早い時期、昭和40年頃から高経のハワイアンやらウエスタン、フォークソングをやるバンド演奏をやっていた。うなぎの寝床のような間口2軒ほどの細長い店だったが、その一番奥まったところにステージのようなものがあったように憶えてる。
そうした意味では古きよき時代だったのかもしれない。
あの頃の喫茶店
駅前の「喫茶うえの」・・・カウンターだけの小さな喫茶店。その隣には「キングバー」なんていうのもあった
ロータリーの所には、「喫茶ブリッジ」。
ジャズを専門に聴かせる「モーニン」なんて言うのも・・・・・
八間道路の「喫茶モリエ」・・・ここは僕が小学校の時から在った。同級生のお母さんがやっていて・・・どう言う訳か「アベック」と言う徒名でそいつを囃した覚えがある。
兎に角、「喫茶店」と言うと、「アベック」を連想させた。
あの頃は「同伴喫茶」なるものも流行った。まだ町には車などそうは走ってはいない時代だったし、流行かどうかは知らないが僕らが色気づいた頃は「連込み」。いわゆる「さかさくらげ」と言うやつだったが、まだ僕らはその「連込み」に入る歳ではなかった。ませた同級生や先輩から話を聞くのが精々で。
もっぱら僕らは「キャンドル」、「キャメル」、「マーセル」など等と、若い男女の秘め事に重宝させてもらっていたようだ・・・・・チョイト気恥ずかしいが(笑)。
話は変るが、実は僕は「珈琲」とやらが全く駄目。今まで正直な所そのコーヒーとやらを「飲んだ」と言う記憶はない。今まで一切口につけない・・・なぜか判らない。
あの「珈琲」の香は嫌いではないのだが(好きではない)、仕方なしに飲まされると胸焼けが酷いのには閉口する。
ついでに、「タバコ」も生れてこの方吸ったことがない。もちろん、未成年の時は特訓をしたがその成果はなかった。
アルコールはその限りではないが・・・・・
「喫茶店」と言えば・・・もう昔からのそれはあまり見られない。あまりと言うかほとんどなくなっているのではないか。
一時隆盛を極めた、喫茶「いわと」、さきの名曲喫茶「あすなろ」・・・・・
今も昔をしのばせるのは柳通りの「ゲレンデ」くらいだろうか。ここは古い・・・・・とは言っても昭和40年代の中頃からだろうか・・・・・
マスターが中々の男前で「お水」のお姉さん達の憩いの場であったようだ。
僕がニュージャパンでドラムを叩いていた頃はもっぱらお堀端の喫茶「プリンス」か、その同伴喫茶の「キャンドル」。その「キャンドル」、二階席が同伴専用席になっていた。
昭和47年頃はモータリゼーションか、既に「同伴喫茶」の趣も薄れ、店によってはスナック喫茶風に趣を変えていった。
柳川町のど真ん中には「スクール」なんて言う喫茶、田町通りの喫茶「アラスカ」、新町の「くらくら」、今のさやモールの「コンパル」など等・・・・・・
移ろいの風物「たかさき」と言ったところだろうか。
戦後「昭和の高崎」風物史①

通町の「三富士食堂」
平成の今日「コンパクトシティ」を提唱するが・・・・・
昭和、それも戦後の高崎は見事なコンパクトシティだった。
街中、本町通りから田町通り、連雀町、あら町から駅前通と所狭しと公共交通機関が忙しくしていた。
昭和28年に廃線された「チンチン電車」はなぜ廃線となったのかは今にして思うと合点の行かないところだが。
たしか、戦前からあった。いや、戦前というよりは物の本によれば大正3年頃の営業開始だったとか・・・・・
僕は仕事で富山、豊橋、福井、広島等々でその「チンチン電車」をよく利用した。
その意味では、高崎の「チンチン電車」の廃線も、言われるモータリゼーションとは関係ないようだ。
もっとも、本格的「モータリゼーション社会」を迎えたのは昭和40年代以降からだし、その「廃線」からは干支一回りの時間差があった。
そもそも、現状、高崎市と同規模の豊橋、福井、富山市ではその自動車社会の中を共存している。
で、廃線の理由が設備の老朽化と累積赤字とかだが、今日そこにあるべき公共交通機関の乏しさに百年の計は見えない。
その意味での条件ならば、豊橋、福井、富山市も同じことではなかっただろうか。
まあ、ないものねだりをしても仕方のないことだが・・・・・・
もし、「高崎=伊香保」間にその「チンチン電車」が走っていたらと想像すると思わず楽しくなる。
さて・・・・・
そこで、高崎の街中を考察すれば、なんと「喫茶店」らしきものが全て姿を消している(喫茶コンパルは営業してるが)。
まあ、喫茶店だけにあらず、食堂、ラーメン屋等も、それらしきもの中銀の「田島食堂」と通町の「三富士」の昔ながらだけである。
と、とやかく言っても仕方がない。戦後70年だ。その70年を言えば、敗戦時の昭和20年から70年を遡れば・・・・・
「幕末」だったわけだから、団塊世代も「思えば遠くへ来たもんだ」といったところだろうか(笑)。
で、その昭和40年代の始まりの頃の高崎だが、街中「喫茶店」だらけでした。
そこで、僕のファースト珈琲は何時のことだろう(実はコーヒーを窘めない僕)。
多分、それはエレキバンドの仲間と行ったオシャレデパートのとこの「ナポリ」か。否そうではない。昭和四〇年も明けたばかりの頃恐る恐る、胸を高鳴らせ始めて入ったのが本町三丁目の「あすなろ」ではなかったろうか(間違っていたら乞う連絡)。
たしか、やはりエレキバンドの先輩に連れて行ってもらったような記憶がある。
その「あすなろ」はもうひとつ、鞘町の学陽書房の隣あたりに映画館と並んであったように憶えている。何でもその「あすなろ」はクラシックを専門に聴かせる「音楽喫茶」で、リスニングルームも確かあったのではなかっただろうか。本町三丁目のそれとは大分趣を異にしていた。
時にはそこ「あすなろ」では群響の楽団員の人たちがコンサートをやっていた。もとも僕の場合はクラシック、交響楽と言った高尚な芸術はチンプンカンプン。なにせ、その頃は「エレキ」に夢中で誰と行ったのか、いや、誰に連れて行ってもらったのかさえ全く憶えていない。ただ、一、二度、入ったような気がするだけだ。
僕はもっぱらその手前、うなぎの「銀直」の隣辺りの、床屋の二階の喫茶「コンパル」だった。エレキバンドで出演していたダンスホール「みゆき」の休憩時間にはいつもメンバーとそのコンパルへはよく通った。
そうだ、連雀町だったかの噴水のある「喫茶ローマ」。
そこには早い時期、昭和40年頃から高経のハワイアンやらウエスタン、フォークソングをやるバンド演奏をやっていた。うなぎの寝床のような間口2軒ほどの細長い店だったが、その一番奥まったところにステージのようなものがあったように憶えてる。
そうした意味では古きよき時代だったのかもしれない。
あの頃の喫茶店
駅前の「喫茶うえの」・・・カウンターだけの小さな喫茶店。その隣には「キングバー」なんていうのもあった
ロータリーの所には、「喫茶ブリッジ」。
ジャズを専門に聴かせる「モーニン」なんて言うのも・・・・・
八間道路の「喫茶モリエ」・・・ここは僕が小学校の時から在った。同級生のお母さんがやっていて・・・どう言う訳か「アベック」と言う徒名でそいつを囃した覚えがある。
兎に角、「喫茶店」と言うと、「アベック」を連想させた。
あの頃は「同伴喫茶」なるものも流行った。まだ町には車などそうは走ってはいない時代だったし、流行かどうかは知らないが僕らが色気づいた頃は「連込み」。いわゆる「さかさくらげ」と言うやつだったが、まだ僕らはその「連込み」に入る歳ではなかった。ませた同級生や先輩から話を聞くのが精々で。
もっぱら僕らは「キャンドル」、「キャメル」、「マーセル」など等と、若い男女の秘め事に重宝させてもらっていたようだ・・・・・チョイト気恥ずかしいが(笑)。
話は変るが、実は僕は「珈琲」とやらが全く駄目。今まで正直な所そのコーヒーとやらを「飲んだ」と言う記憶はない。今まで一切口につけない・・・なぜか判らない。
あの「珈琲」の香は嫌いではないのだが(好きではない)、仕方なしに飲まされると胸焼けが酷いのには閉口する。
ついでに、「タバコ」も生れてこの方吸ったことがない。もちろん、未成年の時は特訓をしたがその成果はなかった。
アルコールはその限りではないが・・・・・
「喫茶店」と言えば・・・もう昔からのそれはあまり見られない。あまりと言うかほとんどなくなっているのではないか。
一時隆盛を極めた、喫茶「いわと」、さきの名曲喫茶「あすなろ」・・・・・
今も昔をしのばせるのは柳通りの「ゲレンデ」くらいだろうか。ここは古い・・・・・とは言っても昭和40年代の中頃からだろうか・・・・・
マスターが中々の男前で「お水」のお姉さん達の憩いの場であったようだ。
僕がニュージャパンでドラムを叩いていた頃はもっぱらお堀端の喫茶「プリンス」か、その同伴喫茶の「キャンドル」。その「キャンドル」、二階席が同伴専用席になっていた。
昭和47年頃はモータリゼーションか、既に「同伴喫茶」の趣も薄れ、店によってはスナック喫茶風に趣を変えていった。
柳川町のど真ん中には「スクール」なんて言う喫茶、田町通りの喫茶「アラスカ」、新町の「くらくら」、今のさやモールの「コンパル」など等・・・・・・
移ろいの風物「たかさき」と言ったところだろうか。
戦後「昭和の高崎」風物史①