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2008年05月28日
そして“男と女”。
そして“男と女”。
♪ダーーーバ~ヤ、ダバダバダ、ダバダバダ・・・・・
ダ~バ~ダ、ダバダバダ♪
そして人生・・・・・・
それはアッという間だ。
それにしても、願うところは“恙無く”なのだろうが、人の一生?
どっこい、“ツツガ”だらけの僕の人生。
僕の場合、まるで“恙”が看板を背負って歩いているようなもんだ。
僕は妻のことを「マーちゃん」と呼んでいる。
公でも・・・・・
公というほど大袈裟ではないが、もちろん子どもたちの前でも妻を呼ぶときは、
「マーちゃん」と呼んでいる。
ひょんなきっかけでその“マーちゃん”と一緒に暮らすことになる。
その“恙”だらけの僕の一事が万事。
それを他人は“駆け落ち”とでも言うのだろう・・・・・・
もちろん僕にはそうした気持ち、意識は全くないのだが、
世間一般ではどうやらそう呼ぶらしい。
馴初めのときは、僕が25で、“マーちゃん”が18になったばかり・・・・・・
そう、女子高生の“危険な夏休み”が丁度終わった頃だった。
僕はバンドマンの生活と、当時流行の“ヒッピー稼業”とでも言うのだろうか、
まだ日本で学生をやりながらヒッピーを気取っていたアメリカ人の友人と、
そのバンドの傍ら、軽井沢で“革小物”の店を商っていた。
それは昭和49年の“夏の日の出来事”であった・・・・・
8月末、すでに軽井沢はシーズンオフ。
僕は地方のデパートの催事で革小物を商うことにした・・・・・
そして夜は“ライブ”を仕切った。
そんな時、就職も決まった“マーちゃん”が僕の前に現れたのだった。
現れたといっても女子高生のグループとして、
僕らのライブを聴きに来たり、革小物を買ってくれたりといった・・・・・
その中の一人の、僕らのグループのファンとして。
それが始まりだった・・・・・
もちろん“マーちゃん”の両親は僕とのことは大反対。
“マーちゃん”の両親はこの辺では珍しい専業農家で、
有体に言えば典型的な“農家”・・・・・・
初めて言って驚いたのだが、今時こんなスタイルの家族があるのかというほど。
もっとも今でもそれは変わっていないから可笑しい。
僕との付き合いが両親の知れるところとなり、
なにが何でも“交際は許さん”と、それはえらい剣幕であったのだ。
とにかく学校へも行くな、外出も相成らん・・・・・・
そんな時、親切というかお節介というか、“マーちゃん”の親友が、
「とにかく家に行ってあげて」
と、段取りをとってくれたつもりだったのが、
まさに、火に油とはこのこと。
僕と、マーちゃんの親父さんとそこで喧嘩、罵り合うことになってしまった。
とうとう卒業式の日・・・・・・
僕らは一緒に暮らし始めてしまった。
町外れの小さな“アパート”で。
それから34年の歳月・・・・・・
“男と女”が、“父親と母親”になり、
僕が59、マーちゃんがこの7月26日で52歳になる。
長女が32歳・・・・・・
そうですね。“ムーニーちゃん”も“パンパース”もなかった。
マーちゃんは自分で“オムツ”を縫った。
長女は夜鳴きがすごかった・・・・・
僕が仕事から帰るのは深夜。
抱っこすると泣き止む・・・・・・
オッパイは飲まない、ミルクは飲まない。
それで“ボンラクト”という豆乳にしたのだが、
煮沸消毒を一晩に何度も何度も・・・・・・
3月生まれだから、そろそろ陽気もいい。
僕は真夜中泣き喚く長女を抱っこして近くの公園に・・・・・
とにかく赤ん坊は最初の半年くらいが戦争だった。
長女も次女も三女もそうだった・・・・・(笑)。
僕とマーちゃんが暮らし始めた、町外れのその“アパート”。
それが未だ、当時のままの姿でそこにある。
もちろん誰かが住んでいるわけではないが・・・・・
ときどきそこを訪ねる。
「あった・・・・・
扉も、陽の当たらない窓も、手すりも・・・・・・
あの時のままにある」
父親と母親・・・・・・
そして“男と女”。
人生って面白い。
実に面白い・・・・・・
♪ダーーーバ~ヤ、ダバダバダ、ダバダバダ・・・・・
ダ~バ~ダ、ダバダバダ♪
そして人生・・・・・・
それはアッという間だ。
それにしても、願うところは“恙無く”なのだろうが、人の一生?
どっこい、“ツツガ”だらけの僕の人生。
僕の場合、まるで“恙”が看板を背負って歩いているようなもんだ。
僕は妻のことを「マーちゃん」と呼んでいる。
公でも・・・・・
公というほど大袈裟ではないが、もちろん子どもたちの前でも妻を呼ぶときは、
「マーちゃん」と呼んでいる。
ひょんなきっかけでその“マーちゃん”と一緒に暮らすことになる。
その“恙”だらけの僕の一事が万事。
それを他人は“駆け落ち”とでも言うのだろう・・・・・・
もちろん僕にはそうした気持ち、意識は全くないのだが、
世間一般ではどうやらそう呼ぶらしい。
馴初めのときは、僕が25で、“マーちゃん”が18になったばかり・・・・・・
そう、女子高生の“危険な夏休み”が丁度終わった頃だった。
僕はバンドマンの生活と、当時流行の“ヒッピー稼業”とでも言うのだろうか、
まだ日本で学生をやりながらヒッピーを気取っていたアメリカ人の友人と、
そのバンドの傍ら、軽井沢で“革小物”の店を商っていた。
それは昭和49年の“夏の日の出来事”であった・・・・・
8月末、すでに軽井沢はシーズンオフ。
僕は地方のデパートの催事で革小物を商うことにした・・・・・
そして夜は“ライブ”を仕切った。
そんな時、就職も決まった“マーちゃん”が僕の前に現れたのだった。
現れたといっても女子高生のグループとして、
僕らのライブを聴きに来たり、革小物を買ってくれたりといった・・・・・
その中の一人の、僕らのグループのファンとして。
それが始まりだった・・・・・
もちろん“マーちゃん”の両親は僕とのことは大反対。
“マーちゃん”の両親はこの辺では珍しい専業農家で、
有体に言えば典型的な“農家”・・・・・・
初めて言って驚いたのだが、今時こんなスタイルの家族があるのかというほど。
もっとも今でもそれは変わっていないから可笑しい。
僕との付き合いが両親の知れるところとなり、
なにが何でも“交際は許さん”と、それはえらい剣幕であったのだ。
とにかく学校へも行くな、外出も相成らん・・・・・・
そんな時、親切というかお節介というか、“マーちゃん”の親友が、
「とにかく家に行ってあげて」
と、段取りをとってくれたつもりだったのが、
まさに、火に油とはこのこと。
僕と、マーちゃんの親父さんとそこで喧嘩、罵り合うことになってしまった。
とうとう卒業式の日・・・・・・
僕らは一緒に暮らし始めてしまった。
町外れの小さな“アパート”で。
それから34年の歳月・・・・・・
“男と女”が、“父親と母親”になり、
僕が59、マーちゃんがこの7月26日で52歳になる。
長女が32歳・・・・・・
そうですね。“ムーニーちゃん”も“パンパース”もなかった。
マーちゃんは自分で“オムツ”を縫った。
長女は夜鳴きがすごかった・・・・・
僕が仕事から帰るのは深夜。
抱っこすると泣き止む・・・・・・
オッパイは飲まない、ミルクは飲まない。
それで“ボンラクト”という豆乳にしたのだが、
煮沸消毒を一晩に何度も何度も・・・・・・
3月生まれだから、そろそろ陽気もいい。
僕は真夜中泣き喚く長女を抱っこして近くの公園に・・・・・
とにかく赤ん坊は最初の半年くらいが戦争だった。
長女も次女も三女もそうだった・・・・・(笑)。
僕とマーちゃんが暮らし始めた、町外れのその“アパート”。
それが未だ、当時のままの姿でそこにある。
もちろん誰かが住んでいるわけではないが・・・・・
ときどきそこを訪ねる。
「あった・・・・・
扉も、陽の当たらない窓も、手すりも・・・・・・
あの時のままにある」
父親と母親・・・・・・
そして“男と女”。
人生って面白い。
実に面白い・・・・・・