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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2016年12月28日

川に落ちた天才

川に落ちた天才

石原慎太郎も肝心なところを書いてない。
一人称で書いた。なんだそれ?


戦後、昭和時代の高崎のパチンコ店は全て在日韓国、朝鮮人。
焼き肉店、キャバレー、クラブは半分がソレと博徒系組織が経営・・・・・
もちろん戦後のことですから行政(警察)、議会議員も唐栗紋々を背負った先生も。
まあ、国会議員にも入れ墨代議士もいたりして、K、H元とか。

で、高崎競馬、前橋競輪、桐生競艇の馬券、車券、船券売り場も利権でしたね。
予想屋も取締りは博徒組織。そして場内の食堂利権、お店を開けるのはテキヤ組織と満州引揚者組織。
その時代の、映画館、劇場はみんなその筋でしたね。
そしてキャバレー、劇場公演の芸能人斡旋は興行師、博徒です。
もちろん用心棒も、ガードマンとして存在しそうした世界のもめごとは警察の手に負えるものではなかった。

まあ、戦後です、朝鮮戦争特需でしたしその後の高度経済成長という時代・・・・・
大手新聞の新聞広告に「眠気知らず、いつもスッキリ❝ヒロポン❞」て、普通に薬局で売ってましたし(笑)。
そうそう、噂だけど真実、高速道路、新幹線建設のダンプ一台当たり「?円」が地元のヤクザと国会議員に。
田中角栄先生が出る杭だった時代です。
その田中先生は横田、厚木の空港、米軍住宅施設建設の請負で莫大な資産を。
ご案内の刎頚之友、国際興業の小佐野賢治社長も米軍関係のバス輸送、韓国からベトナムまで。
まあ、20代、30代でしたから頭の古いヤクザなんて相手にしなかった。

田中先生、小佐野会長は代金受け取りは全て「米ドル」(360円)。まあ、日本政府が債務者だけど。
当然、国税の入る余地はない「占領軍」お墨付きの事業。
今ではすっかり姿を潜めた「西武(国土)」も「東急」も政商でしたね。

まあ、豪い時代だったわけです。日本経済、超インフレ、預金封鎖、新円切り替えのご時世に「米ドル」ガッポ。
田中先生も道なき道に道を造り、トンネルを造り橋を架けタダ同然の山、河川を金山に。
なんたって目白通りの角栄御殿からひたすら目白通りを、当然田中先生は信号オール青ですし・・・・・
南長崎を右折、そっから関越道西山インタ降りて左折、右折で、田中角栄元内閣総理大臣生家へ。

そんなわけでお金は湯水のごとく湧いてくるわけですから、まあ、自分で予算つけて自分で使う。
それが数倍になって懐に入ってきます、高度経済成長バブル。まあ、戦後日本の象徴、それが田中角栄先生。
しかし、刎頚之友とかの小佐野賢治についてはかなりの事情、成功物語が流布されているのだが・・・・・
田中角栄についてはわからないところが一つだけある、それがコレ↓
1945年11月に戦争中より田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金をおこなったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で
つまり、敗戦で朝鮮半島の資産をすべて失って、日本に帰ったところで「田中土建」、戦禍を逃れたとはいえ・・・・・・
どうして大麻の依頼で当時の金で300万円、今の金にしたら3億円だろう、そんな資金を若干27歳の田中角栄が持っていたかだ。
そこのところが石原慎太郎の「天才」にも書かれていないし、どこにもその300万円を証左する資料がない。

そこで勝手な推測だが、敗戦下の日本経済、無一文なはずだ、その300万円を献金した時には預金封鎖され、新円切り替えも実施。
もちろん、公になっている戦時中の軍部と、戦後の小佐野賢治のGHQとの関係・・・・・
田中角栄について残されている資料は理研をバックにした莫大な資金だが、普通に考えれば敗戦でその全てを失っていたはずだ。
そして、その昭和21年4月に300万円が用意できたとしてもその2月には「預金封鎖」「新円切り替え」が実施されてる。
つまり、その田中角栄が献金したとされる300万円とはいったい何だったのかということだ。

上記にあるように戦後いち早くGHQの御用商人となった刎頚之友、小佐野賢治の計らいで占領ビジネスで手にしたのではないかと。
まあ、今となってはどうでもいいことなんだが、そこに今日の「自民党政権」の秘密もある。

戦後71年だが、我々一般市民には知らされないまま歴史の闇に埋もれる事実。

現代、国民は貧困にあえいでる。しかし、まだその実感はないが現実はこの国の指導層、支配層というべきだろうか棄民に走っている。
失業率が改善しているというが、団塊世代以上の2000万人からの労働人口が消滅しているからだろう。
当然、人手不足なわけで、有効求人倍率は上昇傾向にある。しかし、賃金は「254」、戦後のそれ・・・・・・

「食べられるだけでも幸せ?」

川に落ちた天才

  


Posted by 昭和24歳  at 19:39Comments(0)

2016年12月28日

団塊世代の高崎市

塊世代の高崎市

<出典:高崎市広報平成16年5月1日号>

社会そのものが老化している。

行政はその街を無理やり外科手術で「若作り」しているから、その光景は陳腐。

やはり漢方薬療法か、自然治癒敵対策を講じるしかないのではないだろうか・・・・・・

この町の街中は目線の外れた高層建築物の住宅と朽ちた商店街に「コインパーキング」の入れ歯。

40年ほど昔とは、その街を賑やかす若者の数は半分ほどに減少。

その昔は「コンパクトシティ」そのものだったこの街。

駅前には「駅前旅館」「食堂」「土産物屋」が立ち並び小洒落た喫茶店が乗降客に一服を誘っていた。
それは、ディスカウントストアの走りだろうか、駅前通りには「イシヅカ」なるショップがあって当時の若者は結構重宝していたと聞く。
さらに「割賦販売」の「緑屋」なんていうのもデパートの趣の店構えであった。

「あら町」、「信濃屋旅館」のとっつきを右に曲がると、「VAN高崎」とか「リーガルショップ」があって、その斜向かいには「赤羽楽器」が唯一の楽器店として繁盛していた。
そしてその並びには「八木橋デパート」「赤かんばん」、しばらく行くと連雀町の交差点には「バラエティショップ西脇」がその四角に、そのトイ面が昭和、戦前からあった「高島屋ストア」。
その「高島屋ストア」は、聞く所によれば「10銭ショップ」、今の「百円ショップ」だろうか、結構盛っていたらしい。
そして、その連雀町交差点を通町方面に行けば、右に「十字屋デパート」、その前はたしか「銀星座」という映画館だったが、その左に「藤五デパート」そして「さくらや」が。

言われている「レンガ通り」はたしか「古着屋街」であったように記憶する。後に「ビギ」「メルローズ」とかの「ブティック」が立ち並ぶ高崎の「原宿」に。
そうだ、その一角に「メモリー」という、当時では走りの喫茶店でもない、今で言うスナックでもない「パブ」のようなお店は頻繁に寄らせてもらっていた。
まあ、その一角には「ピカデリー」なる映画館もあり、砂賀町には「三明」なるラーメン屋が忙しくしていた。

その連雀町の交差点を西に向かうと、「田原屋」があり、今では「さやモール」とかになっているがその四角には、その先が官庁街ということなんだろうか、「アサヒ商会」と「小板橋」といった文房具店両雄がその商いを競っていた。
もちろん、その「さやモール」だが、「喫茶あすなろ」があり、「東映映画館」があり、たしか「マギー画廊」なるものもあり、そして「文開堂書店」、「学陽書房」とがあり、その界隈はアーティカルなストリートの趣であった。
そう、その四角だが、「中央スカイビル」の屋上展望レストランは当時は高崎一の高層で「回転式レストラン」として、その時代の名所だった。
そのお隣が、「いわと」という、喫茶店で当時はかなり盛っていて、その先にある「スズラン百貨店」の行き帰りに立ち寄ったと記憶する。

今ではすっかり閑散としているが東電のところからの「桜橋通り」。そこには僕が二十歳前後の頃から通い始めたラーメンの「成吉思汗」があった、いや、「ある」・・・・・
そこから、中央銀座通り、アーケードを入ると「みゆきダンスホール」。今風に言うなら「ライブハウス」だろうか、まさに「団塊世代」のたまり場で昭和40年前後から空前のブームとなった「エレキ」「グループサウンズ」に沸き立ち連日超満員のその中で演奏したことが懐かしい。
そうだ、その並びには「松原楽器」、当時はピアノ専門ではなかったかそんな高尚な楽器店もあった。
紳士服の「マツヤ」、和菓子の「観音堂」、昼間から酔客で賑やかだった「田島食堂」、そして「八百為」という大規模な八百屋に「天華堂」という大型書店、蕎麦の「すかや」、高崎一地価の高かった「関口メガネ店」。
そしてご婦人専門の「おしゃれデパート」にその界隈には「衣料品店」の数々が・・・・・
そんな中に映画館「オリオン座」「松竹」、「東宝」と封切り館が華やいでいた。そうだ、歌声喫茶「風」なども忘れられない存在だろう。あっ、大映の封切り館の「電気館」も忘れてはならないだろう。そしてその地下が、当時流行たての「コンパ」が。
まあ、昭和40年前後、高崎の街中には「喫茶店」がその時代を飾っていた。

団塊世代には、懐かしくもこそばゆい「同伴喫茶」なるものもあって善良健全な若き男女の密会の場所でもあった。
それは、嘉多町の「キャメル」、お濠端の「キャンドル」「マーセル」は甘酸っぱい思い出だ。

今言われる「コンパクトシティ」は東西駅前のみを中心とした人工的なものでしかない。
ただ、朽ちてゆくのを待つだけなのだろうか、旧街中、市街地。申し訳程度の予算で「活性化」の号令だが。

本来の「コンパクトシティ」とはそんなものではないはずだ。

それは「再生」か、もっと言えば街の「蘇生」か・・・・・

先日、僕の友人の兄(独居団塊世代)がひっそりと息を引き取った。  

塊世代の高崎市  


Posted by 昭和24歳  at 15:35Comments(0)

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