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2016年12月22日
青春のモノローグ LAX
青春のモノローグ LAX

6月のLAX は久しぶりだった。
1988年、LAX のイミグレーションを抜けると・・・・・・
アメリカ合衆国第40代大統領「ロナルド・レーガン」が笑顔で迎えてくれた。
梅雨空の夕暮れに成田を発った時とは比べ物にならないくらい「カラッ」としていてこの時差から来る独特の躁鬱感さえなければきっと心地よいに違いない。だからと言って到着ロビーでボーッとしているわけにもいかないので、「ヨイショッ」と日本から持ってきた数千個のボビン(JB用)を担いでレンタカーのカウンターに急いだ。
円形のカウンターにはレンタカー会社が数社デスクを置いていた。特別に細かいオーダーをするわけではないのだが僕は日系のお姉さんのいるカウンターで申し込みすることにしていた。
僕は一番小型のフォードにした。もちろんそのリーズナブルさからだが。
早速とランクに荷物を押し込むと戸惑いつつも「あっ、そうか」と左側の運転席に腰を落とした。キーを回すと自然にシートベルトが。自由の国アメリカでも不自由なことがあるものだと変な感心の仕方をする。日本にはこのシステムというか、サービスは無い。これがあれば反則切符の心配はいらないのに。
さて、いつもの事だ、一路、10番のフリーウェイにのる。何故ならそれはドジャーズスタジアムの裏手にあるチャイナタウンの外れ「ゴールデンシティ」という広東料理屋へ「ワンタンヌードル・エキストラ」と「チャイニーズブロッコリー・オイスターソース」を僕の胃袋が「早くしろ、早くしろ」、と急かせるからだ。5ヵ月前に通った時のウエイターがまだいた。
香港から留学している学生だという。彼は僕の胃袋の気持を察してくれたかのように、僕を見つけると聞覚えのある広東語訛りの英語で厨房に向って「XXXXXX~っ」と大声で叫ぶとお茶を手に余り清潔そうでない箸と茶碗を「ガッチャッ」とおいた。
特に愛想はない。「ハイ」と言って厨房に消えた。厨房ではまるで言い争っているかのように広東語が飛び交っていた。
数ヶ月ぶりの満足感で10番に戻るとそのまま、あの観光パンフレットでお馴染「Hollywood」のサインを正面にサンセットブルバードを西に降りた。以前シェクターのスタッフだった「ジンボ」のいる「ブギ・ショップ」にパーツの注文をしておくために寄ったが、ジンボは留守だった。
ところで、アメリカは実に面白い習慣がある。というより、アメリカ人に言わせるとその逆になるのだが。
それは楽器屋であろうがなんであろが、ローカルなショップは日曜日は休み、土曜日は半日、ウィークデーでも昼休みはしっかり2時間はちゃんととる。そんな訳だから、何か注文しておいてもそのこと忘れているととんでもないことになってしまうのだ。
亀岡君とシェクター
ジンボとはシカゴ最後の「ナムショー」に行った。行ったとは言っても一緒に行ったわけではない。ジンボたちはLAからヨレヨレのダッジで出発寸前までかけてやっと調整の終えた50数本のシェクターを積み込みルート66をまるで歌の文句のようにシカゴへ。
因みにあの「ルート66」は今はないが、やはりアメリカに憧れた青春時代を持つ僕らの世代はテレビドラマそのものの「ルート66」をひたすら走ることを夢見てしまうのである。
その時は僕は日本の優秀な技術スタッフ亀岡君と成田からシカゴ・オヘア国際空港へと向っていた。
ところで亀岡君はものすごく優秀な技術を持っているが、ものすごく変わり者。そのシカゴへの出で立ちはTシャツにボロボロのGパン、そして極めつけは履き旧しのビーチサンダル。会社へもよく雪駄だの下駄などで来ていたからそうでなかったのがせめてものすくい。
しかし亀岡君にビルドアップされたシェクターに感動した多くのプレイヤーがいたことを僕は忘れない。 そんな亀岡君も大好きだった内田勘太郎さんの試作モデルを最後にシェクターを去った。どうやら僕の経営姿勢に問題があったようで、この仕事に嫌気が点したらしい。
亀岡君とは入社以来ほとんど話しらしい話はしたことが無かった。しかし亀岡君の一途な仕事ぶりに、アメリカのシェクターから一人技術者を送れというので亀岡君を送り込んだ。
実は亀岡君は僕ばっかりでなく他のスタッフともそんな調子だからどうも「ウマ」というか「ソリ」というかが合わない。内緒の話だか僕もちょう
亀岡君にいらいらしていた所だったので「丁度いい」っ、てなもんで亀岡君に行ってもらう事にした。
亀岡君も素っ気無いが、僕も亀岡君には素っ気無かった。「亀っ、ロスに行ってくれ」。と言う僕の注文に「アッ、あ~っ」。と言う返事。その一週間後亀岡君は成田から機上の人となっていた。
さて、亀岡君が機上の人となって一週間が過ぎた頃、USAシェクターの社長「ジョー」から電話・・・・・
いやっ、まずい。「なんだナベ、変な奴送り込んで」、なんて文句言って来たのかと嫌々電話に出ると、あの特徴のある甲高い声で。
「ナベっ、ヤツ最高だぜ」
そのジョーの一声に一瞬耳を疑ったが。確かに腕はあるけどと思いつつもこっちでのこともあるし、〈ほんとうかよ〉とおもいながらも・・・・・
「なかなかいい腕だろ」 と、言うと・・・・・・
「最高だぜ、ナベ。あんなに一生懸命仕事する奴はこっちにはいないぜ」
と、弾んだ例の調子の声でジョーは言った。
そりゃそうだろうこっちにいる時だって亀岡君の仕事振りは半端ではなく、おかげで他のスタッフ、定時には帰れないは、朝は早く来なければと、いつも僕にこぼしていたその仕事ぶりは凄まじかったのだから。
それにしても僕はほっとした。もしかしたら亀岡君はいつも自然体なのかもしれない。 ピュアで、夢中で、自分の世界を持っていて。そう言えば亀岡君はロッケンローラーだった。 アナーキーの藤沼さんの大ファンで、亀岡君は自分の作ったギターを藤沼さんに使ってもらっていることを密かに大喜びしていたのだ。
ロスでは恋もしたらしい。焼き肉屋の韓国人の女の子で「ツ・ユンジュ」と言う名前。よく通っていたと聞いていた。しかしそれは亀岡君流の恋で、きっとあの仕事ぶりに負けずとも劣らない恋心だったに違いない。ついに告白することもなかったとも聞いた。そして、彼女が亀岡君が自分に恋をしているなんてことも知る由も無かったようだ。
いやっ、じつに亀岡君らしい。今何処でなにをしているか。もしギターを作っていないならもったいないな。
亀岡君と僕の唯一のエピソード
そう言えば亀岡君は大のプロレスファンで、「猪木命」と言うほどアントニオ猪木のファンでもあった。作業場の壁という壁には「アントニオ猪木」のポスターや切り抜きが貼ってあった。
僕が出張帰りのある日たまたま新幹線の中で後ろの席にその「アントニオ猪木」さんがずいぶんと酩酊した様子でいた。するとアントニオ猪木さんがトイレに立ったので、〈ヨシッ、今だっ〉と思い立ち、実は恐る恐るであるがアントニオ猪木さんがトイレから出てくるのを待伏せた。
「すみませ~ん。あのーっ、サインをお願いします」
と、僕が声をかけるとアントニオ猪木さん。
「ウッ、ウ~ン。ウィッ」
と、少し屈むようにして壁によりかかり・・・・・
「サインッ」
と、ギロッと僕を上目遣いに睨むではないか。
「アッ、いやっ、もしできましたら・・・・」
と、僕。猪木さんは「フーッ」と言いながら、「ああっ、いいよ」と二つ返事。
「有り難うございます。実は僕の息子が猪木さんの大ファンなもので、きっと大喜びします。有り難うございます」。
と、僕が言うと、猪木さんは面倒くせぇなあと言う風に、ドテっと新幹線の洗面所の壁に寄りかかると・・・・・
「名前はっ、名前」
「ハイッ。直樹といいます」
猪木さんは「これでいいかな。直樹君へ」と僕の差し出したノートに書いてくれた。
亀岡君にその経緯の一部始終を話すと・・・
「エッ、おれ社長の息子にされちゃったんすか。エ~ッ」
と、本気でいやな顔をしている。
「なんだっ、じゃあいらねえのかっ」
と、僕がむっとした風に言うと・・・
「えぇっ」
と、言いながら、ぺたっ、と壁に貼りながら、
「どうも」
と、ペコッ、と頭を下げるともう仕事にかかっていた。そんな亀岡君だった。
青春のモノローグ LAX

6月のLAX は久しぶりだった。
1988年、LAX のイミグレーションを抜けると・・・・・・
アメリカ合衆国第40代大統領「ロナルド・レーガン」が笑顔で迎えてくれた。
梅雨空の夕暮れに成田を発った時とは比べ物にならないくらい「カラッ」としていてこの時差から来る独特の躁鬱感さえなければきっと心地よいに違いない。だからと言って到着ロビーでボーッとしているわけにもいかないので、「ヨイショッ」と日本から持ってきた数千個のボビン(JB用)を担いでレンタカーのカウンターに急いだ。
円形のカウンターにはレンタカー会社が数社デスクを置いていた。特別に細かいオーダーをするわけではないのだが僕は日系のお姉さんのいるカウンターで申し込みすることにしていた。
僕は一番小型のフォードにした。もちろんそのリーズナブルさからだが。
早速とランクに荷物を押し込むと戸惑いつつも「あっ、そうか」と左側の運転席に腰を落とした。キーを回すと自然にシートベルトが。自由の国アメリカでも不自由なことがあるものだと変な感心の仕方をする。日本にはこのシステムというか、サービスは無い。これがあれば反則切符の心配はいらないのに。
さて、いつもの事だ、一路、10番のフリーウェイにのる。何故ならそれはドジャーズスタジアムの裏手にあるチャイナタウンの外れ「ゴールデンシティ」という広東料理屋へ「ワンタンヌードル・エキストラ」と「チャイニーズブロッコリー・オイスターソース」を僕の胃袋が「早くしろ、早くしろ」、と急かせるからだ。5ヵ月前に通った時のウエイターがまだいた。
香港から留学している学生だという。彼は僕の胃袋の気持を察してくれたかのように、僕を見つけると聞覚えのある広東語訛りの英語で厨房に向って「XXXXXX~っ」と大声で叫ぶとお茶を手に余り清潔そうでない箸と茶碗を「ガッチャッ」とおいた。
特に愛想はない。「ハイ」と言って厨房に消えた。厨房ではまるで言い争っているかのように広東語が飛び交っていた。
数ヶ月ぶりの満足感で10番に戻るとそのまま、あの観光パンフレットでお馴染「Hollywood」のサインを正面にサンセットブルバードを西に降りた。以前シェクターのスタッフだった「ジンボ」のいる「ブギ・ショップ」にパーツの注文をしておくために寄ったが、ジンボは留守だった。
ところで、アメリカは実に面白い習慣がある。というより、アメリカ人に言わせるとその逆になるのだが。
それは楽器屋であろうがなんであろが、ローカルなショップは日曜日は休み、土曜日は半日、ウィークデーでも昼休みはしっかり2時間はちゃんととる。そんな訳だから、何か注文しておいてもそのこと忘れているととんでもないことになってしまうのだ。
亀岡君とシェクター
ジンボとはシカゴ最後の「ナムショー」に行った。行ったとは言っても一緒に行ったわけではない。ジンボたちはLAからヨレヨレのダッジで出発寸前までかけてやっと調整の終えた50数本のシェクターを積み込みルート66をまるで歌の文句のようにシカゴへ。
因みにあの「ルート66」は今はないが、やはりアメリカに憧れた青春時代を持つ僕らの世代はテレビドラマそのものの「ルート66」をひたすら走ることを夢見てしまうのである。
その時は僕は日本の優秀な技術スタッフ亀岡君と成田からシカゴ・オヘア国際空港へと向っていた。
ところで亀岡君はものすごく優秀な技術を持っているが、ものすごく変わり者。そのシカゴへの出で立ちはTシャツにボロボロのGパン、そして極めつけは履き旧しのビーチサンダル。会社へもよく雪駄だの下駄などで来ていたからそうでなかったのがせめてものすくい。
しかし亀岡君にビルドアップされたシェクターに感動した多くのプレイヤーがいたことを僕は忘れない。 そんな亀岡君も大好きだった内田勘太郎さんの試作モデルを最後にシェクターを去った。どうやら僕の経営姿勢に問題があったようで、この仕事に嫌気が点したらしい。
亀岡君とは入社以来ほとんど話しらしい話はしたことが無かった。しかし亀岡君の一途な仕事ぶりに、アメリカのシェクターから一人技術者を送れというので亀岡君を送り込んだ。
実は亀岡君は僕ばっかりでなく他のスタッフともそんな調子だからどうも「ウマ」というか「ソリ」というかが合わない。内緒の話だか僕もちょう
亀岡君にいらいらしていた所だったので「丁度いい」っ、てなもんで亀岡君に行ってもらう事にした。
亀岡君も素っ気無いが、僕も亀岡君には素っ気無かった。「亀っ、ロスに行ってくれ」。と言う僕の注文に「アッ、あ~っ」。と言う返事。その一週間後亀岡君は成田から機上の人となっていた。
さて、亀岡君が機上の人となって一週間が過ぎた頃、USAシェクターの社長「ジョー」から電話・・・・・
いやっ、まずい。「なんだナベ、変な奴送り込んで」、なんて文句言って来たのかと嫌々電話に出ると、あの特徴のある甲高い声で。
「ナベっ、ヤツ最高だぜ」
そのジョーの一声に一瞬耳を疑ったが。確かに腕はあるけどと思いつつもこっちでのこともあるし、〈ほんとうかよ〉とおもいながらも・・・・・
「なかなかいい腕だろ」 と、言うと・・・・・・
「最高だぜ、ナベ。あんなに一生懸命仕事する奴はこっちにはいないぜ」
と、弾んだ例の調子の声でジョーは言った。
そりゃそうだろうこっちにいる時だって亀岡君の仕事振りは半端ではなく、おかげで他のスタッフ、定時には帰れないは、朝は早く来なければと、いつも僕にこぼしていたその仕事ぶりは凄まじかったのだから。
それにしても僕はほっとした。もしかしたら亀岡君はいつも自然体なのかもしれない。 ピュアで、夢中で、自分の世界を持っていて。そう言えば亀岡君はロッケンローラーだった。 アナーキーの藤沼さんの大ファンで、亀岡君は自分の作ったギターを藤沼さんに使ってもらっていることを密かに大喜びしていたのだ。
ロスでは恋もしたらしい。焼き肉屋の韓国人の女の子で「ツ・ユンジュ」と言う名前。よく通っていたと聞いていた。しかしそれは亀岡君流の恋で、きっとあの仕事ぶりに負けずとも劣らない恋心だったに違いない。ついに告白することもなかったとも聞いた。そして、彼女が亀岡君が自分に恋をしているなんてことも知る由も無かったようだ。
いやっ、じつに亀岡君らしい。今何処でなにをしているか。もしギターを作っていないならもったいないな。
亀岡君と僕の唯一のエピソード
そう言えば亀岡君は大のプロレスファンで、「猪木命」と言うほどアントニオ猪木のファンでもあった。作業場の壁という壁には「アントニオ猪木」のポスターや切り抜きが貼ってあった。
僕が出張帰りのある日たまたま新幹線の中で後ろの席にその「アントニオ猪木」さんがずいぶんと酩酊した様子でいた。するとアントニオ猪木さんがトイレに立ったので、〈ヨシッ、今だっ〉と思い立ち、実は恐る恐るであるがアントニオ猪木さんがトイレから出てくるのを待伏せた。
「すみませ~ん。あのーっ、サインをお願いします」
と、僕が声をかけるとアントニオ猪木さん。
「ウッ、ウ~ン。ウィッ」
と、少し屈むようにして壁によりかかり・・・・・
「サインッ」
と、ギロッと僕を上目遣いに睨むではないか。
「アッ、いやっ、もしできましたら・・・・」
と、僕。猪木さんは「フーッ」と言いながら、「ああっ、いいよ」と二つ返事。
「有り難うございます。実は僕の息子が猪木さんの大ファンなもので、きっと大喜びします。有り難うございます」。
と、僕が言うと、猪木さんは面倒くせぇなあと言う風に、ドテっと新幹線の洗面所の壁に寄りかかると・・・・・
「名前はっ、名前」
「ハイッ。直樹といいます」
猪木さんは「これでいいかな。直樹君へ」と僕の差し出したノートに書いてくれた。
亀岡君にその経緯の一部始終を話すと・・・
「エッ、おれ社長の息子にされちゃったんすか。エ~ッ」
と、本気でいやな顔をしている。
「なんだっ、じゃあいらねえのかっ」
と、僕がむっとした風に言うと・・・
「えぇっ」
と、言いながら、ぺたっ、と壁に貼りながら、
「どうも」
と、ペコッ、と頭を下げるともう仕事にかかっていた。そんな亀岡君だった。
青春のモノローグ LAX