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2023年03月02日
平成「消えた年金」のそれから
平成「消えた年金」のそれから

旧大蔵省資金運用部(現財務省財政融資資金)
年金積立金は、平成12年度まで旧大蔵省資金運用部(現財務省財政融資資金)へ預託することが義務付けられていましたが、平成13年4月の財政投融資制度改革により預託義務は廃止されました。7年満期であるため、預託金は平成20年度までに順次償還されます。
(参考)
平成16年度末の預託金残高 75.7兆円(簿価)
年金積立金管理運用独立行政法人――――
昭和36年11月25日 年金福祉事業団設立。数々の事業破綻から
年金積立金の管理・運用業務を担う機関として、平成18年4月1日 “年金積立金管理運用独立行政法人”の設立。
年金積立金管理運用独立行政法人は、厚生年金保険法(昭和29年法律第115号)及び国民年金法(昭和34年法律第141号)の規定に基づき、厚生労働大臣から寄託された積立金の管理及び運用を行うとともに、その収益を国庫に納付することにより、厚生年金保険事業及び国民年金事業の運営の安定に資することを目的とする。
厚生労働省が自主運用する34兆円については、約6兆円の累積損失が発生しています。
“年金積立金管理運用独立行政法人”の「資金運用事業」では、112兆円。しかしその事業実態は貸出し先“特殊法人”では既にその多くが“破綻”そして“不良債権化”とか。
また、「大規模年金保養基地事業」では――――
特殊法人「年金資金運用基金」がグリーンピア(全国13カ所)の建設・運営に約3700億円を投入してきました。
ずさんな計画・運営だったため'05年度までにすべて売却・廃止が決定。
病院や会館、スポーツセンターなどの福祉施設の建設も265ヵ所、累計で1兆5000億円にも上るが、ほとんどは赤字運営。
さらに問題なのは、施設の運営が厚生労働省関連の特殊法人や5つの公益法人を中心に委託され、
そこが厚労省、社保庁官僚天下り先となり、赤字、破綻にも誰一人責任をとることなく、それどころか、高額給与、退職金を掠め取ってきた。
さらに、政府は'98年度以降、“一般会計”の歳出を減らすため、“一般会計(税金)”から支出していた「年金事務費を年金保険料で賄うように付け替え」を行なうと言った愚行を実施。
それらは、“事務費”という名目のもとに国会が及ばないことをいいことに勝手に拡大解釈し、社会保険庁の職員用宿舎の建設や公用車の購入、職員の健康診断費用や海外出張旅費、長官の交際費など等々、'98年度~'03年度までに年金保険料から“4000億円”以上が年金給付以外に流用されてきた。現在も・・・・・
'08年度末までに“財政融資資金”に預託している110兆円を超える年金積立金が全額厚生労働省に返還される。
その場合、積立金を事業損失、株式等運用損失させてきた本体、厚生労働省に“150兆円”もの巨額の運用を任せるべきか・・・・・・
しかしはたしてその年金積立金“150兆円”が元の形で厚労省に戻ってくるのだろうか。
今回の“社保庁解体民営化”はそうした見るも無残となった年金積立金“150兆円”を隠蔽するトリックではないのか。
自主運用を言いつつ、厚生労働省が野村證券等に運用委託する34兆円――――
その運用手数料が年額約“300億円超”もちろん損失と言うリスクを抱えて。
郵貯簡保の民営化で2010年度までに株式上場。おのずと“150兆円”簿価、「あるだろう」とされている“年金積立金”も民営化。長銀、新生銀行のようにその民営化に際し、国(税金)が“瑕疵担保条項”で投資家(外資)に公的資金(税金)を補填。
はたして日本国民は、郵貯簡保、さらには年金積立金の“株式会社化”を想定していただろうか。
その配当が、“利息”そして“年金給付”へと将来約束されるのだろうか。
残念ながら、それらの決定権は政治に委ねられている現実に今回の“消えた年金”にそれを見る。

旧大蔵省資金運用部(現財務省財政融資資金)
年金積立金は、平成12年度まで旧大蔵省資金運用部(現財務省財政融資資金)へ預託することが義務付けられていましたが、平成13年4月の財政投融資制度改革により預託義務は廃止されました。7年満期であるため、預託金は平成20年度までに順次償還されます。
(参考)
平成16年度末の預託金残高 75.7兆円(簿価)
年金積立金管理運用独立行政法人――――
昭和36年11月25日 年金福祉事業団設立。数々の事業破綻から
年金積立金の管理・運用業務を担う機関として、平成18年4月1日 “年金積立金管理運用独立行政法人”の設立。
年金積立金管理運用独立行政法人は、厚生年金保険法(昭和29年法律第115号)及び国民年金法(昭和34年法律第141号)の規定に基づき、厚生労働大臣から寄託された積立金の管理及び運用を行うとともに、その収益を国庫に納付することにより、厚生年金保険事業及び国民年金事業の運営の安定に資することを目的とする。
厚生労働省が自主運用する34兆円については、約6兆円の累積損失が発生しています。
“年金積立金管理運用独立行政法人”の「資金運用事業」では、112兆円。しかしその事業実態は貸出し先“特殊法人”では既にその多くが“破綻”そして“不良債権化”とか。
また、「大規模年金保養基地事業」では――――
特殊法人「年金資金運用基金」がグリーンピア(全国13カ所)の建設・運営に約3700億円を投入してきました。
ずさんな計画・運営だったため'05年度までにすべて売却・廃止が決定。
病院や会館、スポーツセンターなどの福祉施設の建設も265ヵ所、累計で1兆5000億円にも上るが、ほとんどは赤字運営。
さらに問題なのは、施設の運営が厚生労働省関連の特殊法人や5つの公益法人を中心に委託され、
そこが厚労省、社保庁官僚天下り先となり、赤字、破綻にも誰一人責任をとることなく、それどころか、高額給与、退職金を掠め取ってきた。
さらに、政府は'98年度以降、“一般会計”の歳出を減らすため、“一般会計(税金)”から支出していた「年金事務費を年金保険料で賄うように付け替え」を行なうと言った愚行を実施。
それらは、“事務費”という名目のもとに国会が及ばないことをいいことに勝手に拡大解釈し、社会保険庁の職員用宿舎の建設や公用車の購入、職員の健康診断費用や海外出張旅費、長官の交際費など等々、'98年度~'03年度までに年金保険料から“4000億円”以上が年金給付以外に流用されてきた。現在も・・・・・
'08年度末までに“財政融資資金”に預託している110兆円を超える年金積立金が全額厚生労働省に返還される。
その場合、積立金を事業損失、株式等運用損失させてきた本体、厚生労働省に“150兆円”もの巨額の運用を任せるべきか・・・・・・
しかしはたしてその年金積立金“150兆円”が元の形で厚労省に戻ってくるのだろうか。
今回の“社保庁解体民営化”はそうした見るも無残となった年金積立金“150兆円”を隠蔽するトリックではないのか。
自主運用を言いつつ、厚生労働省が野村證券等に運用委託する34兆円――――
その運用手数料が年額約“300億円超”もちろん損失と言うリスクを抱えて。
郵貯簡保の民営化で2010年度までに株式上場。おのずと“150兆円”簿価、「あるだろう」とされている“年金積立金”も民営化。長銀、新生銀行のようにその民営化に際し、国(税金)が“瑕疵担保条項”で投資家(外資)に公的資金(税金)を補填。
はたして日本国民は、郵貯簡保、さらには年金積立金の“株式会社化”を想定していただろうか。
その配当が、“利息”そして“年金給付”へと将来約束されるのだろうか。
残念ながら、それらの決定権は政治に委ねられている現実に今回の“消えた年金”にそれを見る。
2023年03月02日
平成”失われた未来”
平成”失われた未来”
夕日が泣いている
僕らには「平成」という時代は用はない。
ここの選挙区、その昔は群馬三区「福中戦争」といわれた地にあって、
谷間のラーメン屋と揶揄された「平成オジサン」。
あの記者会見で新元号を発した“小渕恵三”のそれが「平成」だったとしても、
その平成にはなかなかなじまない。年のせいなのだろうか。
また昭和も軍国主義高らかだった戦中戦前のそれも用はない。
と言うよりは全く知らない。
「知らぬが仏」というところの戦後のもやしっ子なのかも知れないが―――
とはいうもの、「平成」には用ないなどと強がりを言ったところで、
本当のところはその「平成」にしてみれば僕ら世代は用済みなのかも知れない。
なにせ古希も半ば、昨年は脳梗塞とやら三途の川をもう少し渡るところだった。
しかし「平成」と言うのは実にいやらしい時代のような気がしてならない。
その日常は殺伐としていて新聞、テレビが伝えるのは、陰惨な犯罪、陰湿な事件のニュースばかりでなんとも時代が酸っぱい。
「酸っぱい」のはよろしくない。それは梅雨時のものの饐えたような臭いで、
僕らの子ども時代のような「塩っパイ」、「塩っ辛い」はまるで感じられない。
テレビで見かける政治家もなんか酸っぱい臭いがしてならない。
「門前の小僧の手習い」のような詰めのないもの言い。
それにひと目で「嘘」と顔に書いてあるような言い訳と、取ってつけたような自信のなさそうな討論議論。
バカヤローと叱られそうだが、あんなんなら俺にも出来る・・・・・
といったような手合いの二世、三世の「地盤、看板、鞄」におんぶに抱っこのようなのが“わが国は”、ではそうも言いたくなる。
あれは昭和四〇年代だっただろうか。井上陽水の歌った「傘がない」という題名のフォークソング。
“都会では・・・自殺する若者が増えている・・・”と、歌ったやつだ。
僕のように感性に乏しい人間はあの当時昭和四〇年代、そ「傘がない」を聴きながら、
“ほんと?”と、疑ってみたりもしたが―――
それが世相の実態だったのかも知れない。
二十歳そこそこではその実ベトナム戦争だの平和だの、オイルショックだのよりは、
都会での“孤独死”確かに自殺する若者は多かったかも知れない。
井上陽水は歌う。
せっかく彼女と会う約束をしたのに、雨が降ってきちまって出かけようにも「傘がない」と。
ならば「冷たい雨に濡れてでも彼女に会うために行かなくちゃ」と―――
〈待てよ、でもそんな軟弱なことを言っていて良いのだろうか〉
君のこと以外は考えられなくなる、君のこと以外はまるで見えなくなる」―――
〈待てよ、そんなことで僕は良いのだろうか?〉
と、自問自答する。
そんなピュアな時代が僕らの、僕等だけの時代だったような気がしてならない。
ある意味ロックにしろフォークにしろ、その時代時代の若者、青春の叫び声であるのではないだろうか。
今のそれが、“それ”だとは信じがたいが。
それは一二歳くらいから二十歳そこそこ辺りまでの、非現実と現実との間を春秋する戸惑いと揺れ。
今は全くそれがないような気がする。
というのも僕等、戦後生まれの膨大な塊が何もかもし尽くしてきてしまったからなのか。
歌を聴いても、演奏を聴いてもそれはそれは暗闇にうめく夜行性動物のそれ。
けしてそれは嘶きではなく、雄叫びでもないそれにしか聴こえない、僕等世代の後ろめたさ。
その後ろめたさが今日の傘のない状態を――-―
状況を生んでしまったのではないだろうかと思わずにはいられない。
「都会では・・・自殺する、中高年が増えている」
皮肉だろうか。
あの昭和四〇年代に歌われた「自殺する若者」。
そして、その傘のない若者達が、ぼっとかしたら、あの時代に“自殺しそびれた”出遅れの、平成の自殺する「中高年」なのかも知れないと思えるのは・・・・・
「自分のことしか考えられない、自分のことしか見えない」―――
〈待てよ、そんなことで良いのだろうか〉
とは、もう思えなくなってしまったほど疲れきってしまったのかも知れない。
少し休むだけで良いのに、ほんの少し自分を見つめなおすだけで良いのに―――
なにも終わってしまうこともないのに。
そんなに急いで逝かなくても。
いずれにしても、それは僕らが過してきたあの「昭和」という時代は、目を閉じればあの時代の風景が、音とともに僕の心に「パー」っと広がる。
それはその時代この目で見た、連合赤軍「浅間山荘事件」の、また大久保清「連続婦女暴行殺人事件」のそれを伝える取材ヘリコプターのけたたましさ、それを「音」が映し出す風景。
そして、白黒テレビで見た東大安田講堂の放水、新宿西口のフォークゲリラの狂騒を伝える「音」も―――
それらの「音」はけして作り物ではなく、それが遠い、遠い、過去のことであったとしても、思想などと言う高邁なものを持ち合わせているはずもない僕らノンポリのミュージシャンくずれだったが、その時の社会の形はそ、れのひとつひとつが僕等の「これから」を諭すように見せつけてくれていた。
それは夫々に今、老人と呼ばれる僕らに、あの時代の青春の残像を今日までの、それなりの生き方の中に――――
その「音の風景」が時として心に映す。
そしてそこにはあった。
その時々の「音」はいろんなことを僕等に教えてくれていた。
僕らは、僕ら以前のそれも、そしてこれからのそれたちも―――――
けして経験する事の出来ないとてつもない時代を、素晴らしい時代を生きたきたのかも知れない。
夕日が泣いている
僕らには「平成」という時代は用はない。
ここの選挙区、その昔は群馬三区「福中戦争」といわれた地にあって、
谷間のラーメン屋と揶揄された「平成オジサン」。
あの記者会見で新元号を発した“小渕恵三”のそれが「平成」だったとしても、
その平成にはなかなかなじまない。年のせいなのだろうか。
また昭和も軍国主義高らかだった戦中戦前のそれも用はない。
と言うよりは全く知らない。
「知らぬが仏」というところの戦後のもやしっ子なのかも知れないが―――
とはいうもの、「平成」には用ないなどと強がりを言ったところで、
本当のところはその「平成」にしてみれば僕ら世代は用済みなのかも知れない。
なにせ古希も半ば、昨年は脳梗塞とやら三途の川をもう少し渡るところだった。
しかし「平成」と言うのは実にいやらしい時代のような気がしてならない。
その日常は殺伐としていて新聞、テレビが伝えるのは、陰惨な犯罪、陰湿な事件のニュースばかりでなんとも時代が酸っぱい。
「酸っぱい」のはよろしくない。それは梅雨時のものの饐えたような臭いで、
僕らの子ども時代のような「塩っパイ」、「塩っ辛い」はまるで感じられない。
テレビで見かける政治家もなんか酸っぱい臭いがしてならない。
「門前の小僧の手習い」のような詰めのないもの言い。
それにひと目で「嘘」と顔に書いてあるような言い訳と、取ってつけたような自信のなさそうな討論議論。
バカヤローと叱られそうだが、あんなんなら俺にも出来る・・・・・
といったような手合いの二世、三世の「地盤、看板、鞄」におんぶに抱っこのようなのが“わが国は”、ではそうも言いたくなる。
あれは昭和四〇年代だっただろうか。井上陽水の歌った「傘がない」という題名のフォークソング。
“都会では・・・自殺する若者が増えている・・・”と、歌ったやつだ。
僕のように感性に乏しい人間はあの当時昭和四〇年代、そ「傘がない」を聴きながら、
“ほんと?”と、疑ってみたりもしたが―――
それが世相の実態だったのかも知れない。
二十歳そこそこではその実ベトナム戦争だの平和だの、オイルショックだのよりは、
都会での“孤独死”確かに自殺する若者は多かったかも知れない。
井上陽水は歌う。
せっかく彼女と会う約束をしたのに、雨が降ってきちまって出かけようにも「傘がない」と。
ならば「冷たい雨に濡れてでも彼女に会うために行かなくちゃ」と―――
〈待てよ、でもそんな軟弱なことを言っていて良いのだろうか〉
君のこと以外は考えられなくなる、君のこと以外はまるで見えなくなる」―――
〈待てよ、そんなことで僕は良いのだろうか?〉
と、自問自答する。
そんなピュアな時代が僕らの、僕等だけの時代だったような気がしてならない。
ある意味ロックにしろフォークにしろ、その時代時代の若者、青春の叫び声であるのではないだろうか。
今のそれが、“それ”だとは信じがたいが。
それは一二歳くらいから二十歳そこそこ辺りまでの、非現実と現実との間を春秋する戸惑いと揺れ。
今は全くそれがないような気がする。
というのも僕等、戦後生まれの膨大な塊が何もかもし尽くしてきてしまったからなのか。
歌を聴いても、演奏を聴いてもそれはそれは暗闇にうめく夜行性動物のそれ。
けしてそれは嘶きではなく、雄叫びでもないそれにしか聴こえない、僕等世代の後ろめたさ。
その後ろめたさが今日の傘のない状態を――-―
状況を生んでしまったのではないだろうかと思わずにはいられない。
「都会では・・・自殺する、中高年が増えている」
皮肉だろうか。
あの昭和四〇年代に歌われた「自殺する若者」。
そして、その傘のない若者達が、ぼっとかしたら、あの時代に“自殺しそびれた”出遅れの、平成の自殺する「中高年」なのかも知れないと思えるのは・・・・・
「自分のことしか考えられない、自分のことしか見えない」―――
〈待てよ、そんなことで良いのだろうか〉
とは、もう思えなくなってしまったほど疲れきってしまったのかも知れない。
少し休むだけで良いのに、ほんの少し自分を見つめなおすだけで良いのに―――
なにも終わってしまうこともないのに。
そんなに急いで逝かなくても。
いずれにしても、それは僕らが過してきたあの「昭和」という時代は、目を閉じればあの時代の風景が、音とともに僕の心に「パー」っと広がる。
それはその時代この目で見た、連合赤軍「浅間山荘事件」の、また大久保清「連続婦女暴行殺人事件」のそれを伝える取材ヘリコプターのけたたましさ、それを「音」が映し出す風景。
そして、白黒テレビで見た東大安田講堂の放水、新宿西口のフォークゲリラの狂騒を伝える「音」も―――
それらの「音」はけして作り物ではなく、それが遠い、遠い、過去のことであったとしても、思想などと言う高邁なものを持ち合わせているはずもない僕らノンポリのミュージシャンくずれだったが、その時の社会の形はそ、れのひとつひとつが僕等の「これから」を諭すように見せつけてくれていた。
それは夫々に今、老人と呼ばれる僕らに、あの時代の青春の残像を今日までの、それなりの生き方の中に――――
その「音の風景」が時として心に映す。
そしてそこにはあった。
その時々の「音」はいろんなことを僕等に教えてくれていた。
僕らは、僕ら以前のそれも、そしてこれからのそれたちも―――――
けして経験する事の出来ないとてつもない時代を、素晴らしい時代を生きたきたのかも知れない。
2023年03月02日
平成”失われた未来”
平成”失われた未来”
夕日が泣いている
僕らには「平成」という時代は用はない。
ここの選挙区、その昔は群馬三区「福中戦争」といわれた地にあって、谷間のラーメン屋と揶揄された「平成オジサン」。
あの記者会見で新元号を発した“小渕恵三”のそれが「平成」だったとしても、その平成にはなかなかなじまない。年のせいなのだろうか。
また昭和も軍国主義高らかだった戦中戦前のそれも用はない。
と言うよりは全く知らない。
「知らぬが仏」というところの戦後のもやしっ子なのかも知れないが―――
とはいうもの、「平成」には用ないなどと強がりを言ったところで、
本当のところはその「平成」にしてみれば僕ら世代は用済みなのかも知れない。
なにせ古希も半ば、昨年は脳梗塞とやら三途の川をもう少し渡るところだった。
しかし「平成」と言うのは実にいやらしい時代のような気がしてならない。
その日常は殺伐としていて新聞、テレビが伝えるのは、陰惨な犯罪、陰湿な事件のニュースばかりでなんとも時代が酸っぱい。
「酸っぱい」のはよろしくない。それは梅雨時のものの饐えたような臭いで、
僕らの子ども時代のような「塩っパイ」、「塩っ辛い」はまるで感じられない。
テレビで見かける政治家もなんか酸っぱい臭いがしてならない。
「門前の小僧の手習い」のような詰めのないもの言い。
それにひと目で「嘘」と顔に書いてあるような言い訳と、取ってつけたような自信のなさそうな討論議論。
バカヤローと叱られそうだが、あんなんなら俺にも出来る・・・・・
といったような手合いの二世、三世の「地盤、看板、鞄」におんぶに抱っこのようなのが“わが国は”、ではそうも言いたくなる。
あれは昭和四〇年代だっただろうか。井上陽水の歌った「傘がない」という題名のフォークソング。
“都会では・・・自殺する若者が増えている・・・”と、歌ったやつだ。
僕のように感性に乏しい人間はあの当時昭和四〇年代、その「傘がない」を聴きながら、“ほんと?”と、疑ってみたりもしたが―――
それが世相の実態だったのかも知れない。
二十歳そこそこではその実ベトナム戦争だの平和だの、オイルショックだのよりは、
都会での“孤独死”確かに自殺する若者は多かったかも知れない。
井上陽水は歌う。
せっかく彼女と会う約束をしたのに、雨が降ってきちまって出かけようにも「傘がない」と。
ならば「冷たい雨に濡れてでも彼女に会うために行かなくちゃ」と―――
〈待てよ、でもそんな軟弱なことを言っていて良いのだろうか〉
君のこと以外は考えられなくなる、君のこと以外はまるで見えなくなる」―――
〈待てよ、そんなことで僕は良いのだろうか?〉
と、自問自答する。
そんなピュアな時代が僕らの、僕等だけの時代だったような気がしてならない。
ある意味ロックにしろフォークにしろ、その時代時代の若者、青春の叫び声であるのではないだろうか。
今のそれが、“それ”だとは信じがたいが。
それは一二歳くらいから二十歳そこそこ辺りまでの、非現実と現実との間を春秋する戸惑いと揺れ。
今は全くそれがないような気がする。
というのも僕等、戦後生まれの膨大な塊が何もかもし尽くしてきてしまったからなのか。
歌を聴いても、演奏を聴いてもそれはそれは暗闇にうめく夜行性動物のそれ。
けしてそれは嘶きではなく、雄叫びでもないそれにしか聴こえない、僕等世代の後ろめたさ。
その後ろめたさが今日の傘のない状態を――-―
状況を生んでしまったのではないだろうかと思わずにはいられない。
「都会では・・・自殺する、中高年が増えている」
皮肉だろうか。
あの昭和四〇年代に歌われた「自殺する若者」。
そして、その傘のない若者達が、ぼっとかしたら、あの時代に“自殺しそびれた”出遅れの、平成の自殺する「中高年」なのかも知れないと思えるのは・・・・・
「自分のことしか考えられない、自分のことしか見えない」―――
〈待てよ、そんなことで良いのだろうか〉
とは、もう思えなくなってしまったほど疲れきってしまったのかも知れない。
少し休むだけで良いのに、ほんの少し自分を見つめなおすだけで良いのに―――
なにも終わってしまうこともないのに,そんなに急いで逝かなくても。
いずれにしても、それは僕らが過してきたあの「昭和」という時代は、目を閉じればあの時代の風景が、音とともに僕の心に「パー」っと広がる。
それはその時代この目で見た、連合赤軍「浅間山荘事件」の、また大久保清「連続婦女暴行殺人事件」のそれを伝える取材ヘリコプターのけたたましさ、それを「音」が映し出す風景。
そして、白黒テレビで見た東大安田講堂の放水、新宿西口のフォークゲリラの狂騒を伝える「音」も―――
それらの「音」はけして作り物ではなく、それが遠い、遠い、過去のことであったとしても、思想などと言う高邁なものを持ち合わせているはずもない僕らノンポリのミュージシャンくずれだったが、その時の社会の形はそ、れのひとつひとつが僕等の「これから」を諭すように見せつけてくれていた。
それは夫々に今、老人と呼ばれる僕らに、あの時代の青春の残像を今日までの、それなりの生き方の中に――――
その「音の風景」が時として心に映す。
そしてそこにはあった。
その時々の「音」はいろんなことを僕等に教えてくれていた。
僕らは、僕ら以前のそれも、そしてこれからのそれたちも―――――
けして経験する事の出来ないとてつもない時代を、素晴らしい時代を生きたきたのかも知れない。
夕日が泣いている
僕らには「平成」という時代は用はない。
ここの選挙区、その昔は群馬三区「福中戦争」といわれた地にあって、谷間のラーメン屋と揶揄された「平成オジサン」。
あの記者会見で新元号を発した“小渕恵三”のそれが「平成」だったとしても、その平成にはなかなかなじまない。年のせいなのだろうか。
また昭和も軍国主義高らかだった戦中戦前のそれも用はない。
と言うよりは全く知らない。
「知らぬが仏」というところの戦後のもやしっ子なのかも知れないが―――
とはいうもの、「平成」には用ないなどと強がりを言ったところで、
本当のところはその「平成」にしてみれば僕ら世代は用済みなのかも知れない。
なにせ古希も半ば、昨年は脳梗塞とやら三途の川をもう少し渡るところだった。
しかし「平成」と言うのは実にいやらしい時代のような気がしてならない。
その日常は殺伐としていて新聞、テレビが伝えるのは、陰惨な犯罪、陰湿な事件のニュースばかりでなんとも時代が酸っぱい。
「酸っぱい」のはよろしくない。それは梅雨時のものの饐えたような臭いで、
僕らの子ども時代のような「塩っパイ」、「塩っ辛い」はまるで感じられない。
テレビで見かける政治家もなんか酸っぱい臭いがしてならない。
「門前の小僧の手習い」のような詰めのないもの言い。
それにひと目で「嘘」と顔に書いてあるような言い訳と、取ってつけたような自信のなさそうな討論議論。
バカヤローと叱られそうだが、あんなんなら俺にも出来る・・・・・
といったような手合いの二世、三世の「地盤、看板、鞄」におんぶに抱っこのようなのが“わが国は”、ではそうも言いたくなる。
あれは昭和四〇年代だっただろうか。井上陽水の歌った「傘がない」という題名のフォークソング。
“都会では・・・自殺する若者が増えている・・・”と、歌ったやつだ。
僕のように感性に乏しい人間はあの当時昭和四〇年代、その「傘がない」を聴きながら、“ほんと?”と、疑ってみたりもしたが―――
それが世相の実態だったのかも知れない。
二十歳そこそこではその実ベトナム戦争だの平和だの、オイルショックだのよりは、
都会での“孤独死”確かに自殺する若者は多かったかも知れない。
井上陽水は歌う。
せっかく彼女と会う約束をしたのに、雨が降ってきちまって出かけようにも「傘がない」と。
ならば「冷たい雨に濡れてでも彼女に会うために行かなくちゃ」と―――
〈待てよ、でもそんな軟弱なことを言っていて良いのだろうか〉
君のこと以外は考えられなくなる、君のこと以外はまるで見えなくなる」―――
〈待てよ、そんなことで僕は良いのだろうか?〉
と、自問自答する。
そんなピュアな時代が僕らの、僕等だけの時代だったような気がしてならない。
ある意味ロックにしろフォークにしろ、その時代時代の若者、青春の叫び声であるのではないだろうか。
今のそれが、“それ”だとは信じがたいが。
それは一二歳くらいから二十歳そこそこ辺りまでの、非現実と現実との間を春秋する戸惑いと揺れ。
今は全くそれがないような気がする。
というのも僕等、戦後生まれの膨大な塊が何もかもし尽くしてきてしまったからなのか。
歌を聴いても、演奏を聴いてもそれはそれは暗闇にうめく夜行性動物のそれ。
けしてそれは嘶きではなく、雄叫びでもないそれにしか聴こえない、僕等世代の後ろめたさ。
その後ろめたさが今日の傘のない状態を――-―
状況を生んでしまったのではないだろうかと思わずにはいられない。
「都会では・・・自殺する、中高年が増えている」
皮肉だろうか。
あの昭和四〇年代に歌われた「自殺する若者」。
そして、その傘のない若者達が、ぼっとかしたら、あの時代に“自殺しそびれた”出遅れの、平成の自殺する「中高年」なのかも知れないと思えるのは・・・・・
「自分のことしか考えられない、自分のことしか見えない」―――
〈待てよ、そんなことで良いのだろうか〉
とは、もう思えなくなってしまったほど疲れきってしまったのかも知れない。
少し休むだけで良いのに、ほんの少し自分を見つめなおすだけで良いのに―――
なにも終わってしまうこともないのに,そんなに急いで逝かなくても。
いずれにしても、それは僕らが過してきたあの「昭和」という時代は、目を閉じればあの時代の風景が、音とともに僕の心に「パー」っと広がる。
それはその時代この目で見た、連合赤軍「浅間山荘事件」の、また大久保清「連続婦女暴行殺人事件」のそれを伝える取材ヘリコプターのけたたましさ、それを「音」が映し出す風景。
そして、白黒テレビで見た東大安田講堂の放水、新宿西口のフォークゲリラの狂騒を伝える「音」も―――
それらの「音」はけして作り物ではなく、それが遠い、遠い、過去のことであったとしても、思想などと言う高邁なものを持ち合わせているはずもない僕らノンポリのミュージシャンくずれだったが、その時の社会の形はそ、れのひとつひとつが僕等の「これから」を諭すように見せつけてくれていた。
それは夫々に今、老人と呼ばれる僕らに、あの時代の青春の残像を今日までの、それなりの生き方の中に――――
その「音の風景」が時として心に映す。
そしてそこにはあった。
その時々の「音」はいろんなことを僕等に教えてくれていた。
僕らは、僕ら以前のそれも、そしてこれからのそれたちも―――――
けして経験する事の出来ないとてつもない時代を、素晴らしい時代を生きたきたのかも知れない。