2008年04月23日
裁判員制度
裁判員制度
ひとつの“徴兵制”のようなものではないか(笑)。
一般大衆、そう、“民草”に絶対機密(秘密)を科せる“裁判員制度”
つまり国家の“イヌ”なれということなのだろうか。
国家のイヌなら、警察官、検察官、裁判官、公安で十分ではないか。
国民、一般大衆を裁判員にして民草同士で“裁かせる”、つまり人民裁判。
アメリカのようにそもそもこの国では国民自身が国民自身で自分を守ると言うような、
そしてそれの正当性を主張するような、つまり“主権在民”を徹底して主張するようこの国の国民は教育されてきてはいない。
個人では“判断”できない、集団で生きるしか術のない、しかも都合よく権力にくくられて“塊”で生きるしかない、
生きることしかできないように国家によって、公教育によって躾けられてきているのが日本国民・・・・・
国家よ!!
日本国民という悲しい存在ではなかったか。
だから、仰る“戦争犯罪人”、もちろん戦争に負けたからそう呼ばれてしまったのだが、
しかし、はなから負けるとわかっていた戦争を、国民を騙してまで推し進めたのだから、その時点ですでに犯罪者であったとも言えるが。
その親兄弟、夫、妻、恋人をも平然とその唯一、人間として生きる当然の感情をまるで虫けらでも殺すかのように・・・・・
「一億国民、全てが玉砕してでも天皇はお守りしなければならない」
とかほざいた時の大本営、軍官僚。
「国軍は尚余力を有し志気も旺盛なれば、なおも抗戦してアメリカ軍を断乎撃攘すべき」と徹底抗戦を奏上は阿南惟幾陸軍大臣。
もっとも新聞と言う新聞が「一億総特攻」とか「一億総玉砕」とかだったのだから・・・・・
そして敗戦したら自らの妄言妄動ぶりをよそに「一億総懺悔」でGHQに尻尾を振る。
つまり、今でも国民全体が“戦犯”ということになっている。
そして、その戦犯(国民)の担ぐ戦犯の子、孫らの一族がのうのうとこの国に、象徴天皇制に胡座し為政する。
日本国民、民草は被害者なのか、加害者なのか、そして国家と同罪なのか・・・・・
大日本帝国と今日の日本国の体制はなんら変わってはいない。
そしていつになったら変わるのだろうか、戦前に構造改革される中で。
“裁判員制度”
これは、国家に加担する、させるものではないのか。
なぜ、今、一般国民が“裁判員”にならなければならないのか、そしてそれを有無を言わせず特別の理由がない限り避けることのできない強制を、
“国家がするのか”
そしてその裁判過程は全て秘密、職業裁判官だって、警察官だって、検察官だって漏洩はあるだろう。
よしんば、一般国民の裁判員がその秘密を漏洩したらどのような処罰があるのか・・・・・・
国民が、国民を裁く。
そんな制度がこの国にあっていいのだろうか。
このことが市民が市民同士秘密裏に監視しあう“監視社会”。
そんな社会への助走ではないのか。
光市母子殺人事件差戻し審判決“死刑”
当然だろう!!
「二人を殺して死刑は前例にない・・・・・・
少年(事件当時18歳と数ヶ月)は真実を話してくれた。
こんな極刑を許してはならない。このままではより極刑化が進む」
白髪の弁護団長が言う・・・・・
少年が前述を覆して話した“真実”とはなんだったのか。
「復活の儀式、生き返ってほしいと“死姦”した」
そのことが真実なのか???
「殺害後押入れの天井裏に・・・・・・
ドラえもんがナントカしてくれるだろう」
それが真実なのか。
それを最高裁で供述させたその弁護団は常軌を逸している。
生後数ヶ月の愛娘を殺され、幸せの絶頂にあった家族、その愛妻を死姦された夫の心境。
しかし、年月が経つとともにその犯人への憎悪の極みにありながらも崇高な悟りともいえる心境になってゆく・・・・・
それを、“復活の儀式”とか“ドラえもん”では鬼にもなろう!
「真実を話してくれた」
いいかげんにしてほしい。人権派がその“人権”に恍惚とする・・・・・
実に気味の悪い姿をさらす弁護団。
本村さんは、
「もし彼がもっと前に、自分の罪を認識したり、いろいろな人との出会いの中で反省する機会があれば、このような結果は出なかったのではないか」。
と、言っていた。
ひとつの“徴兵制”のようなものではないか(笑)。
一般大衆、そう、“民草”に絶対機密(秘密)を科せる“裁判員制度”
つまり国家の“イヌ”なれということなのだろうか。
国家のイヌなら、警察官、検察官、裁判官、公安で十分ではないか。
国民、一般大衆を裁判員にして民草同士で“裁かせる”、つまり人民裁判。
アメリカのようにそもそもこの国では国民自身が国民自身で自分を守ると言うような、
そしてそれの正当性を主張するような、つまり“主権在民”を徹底して主張するようこの国の国民は教育されてきてはいない。
個人では“判断”できない、集団で生きるしか術のない、しかも都合よく権力にくくられて“塊”で生きるしかない、
生きることしかできないように国家によって、公教育によって躾けられてきているのが日本国民・・・・・
国家よ!!
日本国民という悲しい存在ではなかったか。
だから、仰る“戦争犯罪人”、もちろん戦争に負けたからそう呼ばれてしまったのだが、
しかし、はなから負けるとわかっていた戦争を、国民を騙してまで推し進めたのだから、その時点ですでに犯罪者であったとも言えるが。
その親兄弟、夫、妻、恋人をも平然とその唯一、人間として生きる当然の感情をまるで虫けらでも殺すかのように・・・・・
「一億国民、全てが玉砕してでも天皇はお守りしなければならない」
とかほざいた時の大本営、軍官僚。
「国軍は尚余力を有し志気も旺盛なれば、なおも抗戦してアメリカ軍を断乎撃攘すべき」と徹底抗戦を奏上は阿南惟幾陸軍大臣。
もっとも新聞と言う新聞が「一億総特攻」とか「一億総玉砕」とかだったのだから・・・・・
そして敗戦したら自らの妄言妄動ぶりをよそに「一億総懺悔」でGHQに尻尾を振る。
つまり、今でも国民全体が“戦犯”ということになっている。
そして、その戦犯(国民)の担ぐ戦犯の子、孫らの一族がのうのうとこの国に、象徴天皇制に胡座し為政する。
日本国民、民草は被害者なのか、加害者なのか、そして国家と同罪なのか・・・・・
大日本帝国と今日の日本国の体制はなんら変わってはいない。
そしていつになったら変わるのだろうか、戦前に構造改革される中で。
“裁判員制度”
これは、国家に加担する、させるものではないのか。
なぜ、今、一般国民が“裁判員”にならなければならないのか、そしてそれを有無を言わせず特別の理由がない限り避けることのできない強制を、
“国家がするのか”
そしてその裁判過程は全て秘密、職業裁判官だって、警察官だって、検察官だって漏洩はあるだろう。
よしんば、一般国民の裁判員がその秘密を漏洩したらどのような処罰があるのか・・・・・・
国民が、国民を裁く。
そんな制度がこの国にあっていいのだろうか。
このことが市民が市民同士秘密裏に監視しあう“監視社会”。
そんな社会への助走ではないのか。
光市母子殺人事件差戻し審判決“死刑”
当然だろう!!
「二人を殺して死刑は前例にない・・・・・・
少年(事件当時18歳と数ヶ月)は真実を話してくれた。
こんな極刑を許してはならない。このままではより極刑化が進む」
白髪の弁護団長が言う・・・・・
少年が前述を覆して話した“真実”とはなんだったのか。
「復活の儀式、生き返ってほしいと“死姦”した」
そのことが真実なのか???
「殺害後押入れの天井裏に・・・・・・
ドラえもんがナントカしてくれるだろう」
それが真実なのか。
それを最高裁で供述させたその弁護団は常軌を逸している。
生後数ヶ月の愛娘を殺され、幸せの絶頂にあった家族、その愛妻を死姦された夫の心境。
しかし、年月が経つとともにその犯人への憎悪の極みにありながらも崇高な悟りともいえる心境になってゆく・・・・・
それを、“復活の儀式”とか“ドラえもん”では鬼にもなろう!
「真実を話してくれた」
いいかげんにしてほしい。人権派がその“人権”に恍惚とする・・・・・
実に気味の悪い姿をさらす弁護団。
本村さんは、
「もし彼がもっと前に、自分の罪を認識したり、いろいろな人との出会いの中で反省する機会があれば、このような結果は出なかったのではないか」。
と、言っていた。
Posted by 昭和24歳
at 07:47
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