2023年02月22日
30年かけて仕組まれたデフレの末路が「日本版カースト」
30年かけて仕組まれたデフレの末路が「日本版カースト」
30年と言えば後期高齢者のこの俺が44歳、変容する時代の証言者であることは間違いのない事実だ。
日本の働き手の賃金格差は解消されるどころか、拡大傾向が続いている。それくらい、働き手の賃金を上げる経営判断は難しいということだ。
今の日本を「格差社会」などという生易しい言葉で表現するのは実態を表していない。格差社会よりもはるかにシビアな「超・階級社会」へと変容しつつあるのだ。
それは、働き手個人の自助努力ではなく、出自や教育環境、就職時期の経済環境といったにより階級が定まる「日本版カースト」ともいえる理不尽な世界である。親から子へ、子から孫へ。階級格差は世代を超えて連鎖し、加速度的に広がってゆく。
アメリカで映画で「ホッファ」というのがあったが、労働運動に身を投じた一人の男の実話をもとにしたストーリ・・・・・
ジャック・ニコルソンの主演のそれは1993年のハリウッド映画だった。
まあ、言われる「銃社会」の米国とこの日本社会とでは比較するすべもないが、いわゆる移動を常とする「狩猟社会」のDNAからなる欧米社会と「農耕社会」のその民族性からは、そこに生まれる「労働運動」も大きく質が異なる。
それは「政治」においてもそうだろう。その意味では欧米がこれまでのキリスト教文明のもとでの歴史的経緯から提唱する「民主主義」と日本のそれではおそらくその「風土」の上に置いても相容れない。
つまり、「欧米社会」と「異質」であることが、この極東の島国に生息する「人間」のアイデンティティなんではないか。
つまりだ、言われる「グローバル化」とはこの日本列島に居する日本民族の壮大な歴史におけるDNAの否定につながるということだろう。
本来なら、国際社会において、それらの「異なり」を主張し、バリアを施すのが外交という政治の役割ではないのか。
当然、そこにある宗教も「キリスト文明」とは異なった「キリスト教」だろうし、国教であろう「仏教」にしたところで、そこの政治力で「和風」にアレンジされたものとなっている。
つまり、原キリスト教、原仏教とはその習わしも大きく異なったものになっているし・・・・・・
ましてや「ユダヤ文明」「イスラム文明」「ヒンズー文明」はこの国の風土に到底馴染むものでもないし、強いて言えば、その「必要性」が認められない。
つまり、文明開化、近代化と国そのものが、そそ生活習慣、経済的習慣までが欧米化(国際化)するということがこの日本列島に生きる民族に適しているとは到底思うに至らない。
同じく、この日本文明文化を欧米、あるいは中近東の民族が受け入れることができるということもありえない。
この国の戦国時代もそうだったが、国境線を引いて、領地を奪い合う。つまり、侵略したり、侵略されたり。
その意味では、この四季という気候風土のこの日本列島でなぜそのようなことが現実に300年前後に渡り続いたのか全く理解の外だが、今日の歴史ではそのことしか残されていないから・・・・・
その実相は全く闇の中、わからないというのが実態ではないかと。
いわゆる、「第2次世界大戦」以降、そこには「戦のない社会」、「世界」がもう70年余続いている。
そこいら、ところどころに勃発する「戦争もどき」は、一つには軍需産業、経済の生存をかけたもので、その被害は限定的だが、いわゆる「グローバル化」の中の犠牲なんだろう。
そこで、今日のこの日本における「政権」のいう「グローバル化」は果たして彼ら自身その中に生きることができるのだろうか。
生まれたところも違えば、育ったところも違う、全ての環境が異なる中で「同期」しなければならない。
そうなれば、自ずから強烈な「ストレス」がそこに生じるはずだ。
それは当然ながら「勝者」、そして「敗者」という弱肉強食社会のルールにおいて。
30年と言えば後期高齢者のこの俺が44歳、変容する時代の証言者であることは間違いのない事実だ。
日本の働き手の賃金格差は解消されるどころか、拡大傾向が続いている。それくらい、働き手の賃金を上げる経営判断は難しいということだ。
今の日本を「格差社会」などという生易しい言葉で表現するのは実態を表していない。格差社会よりもはるかにシビアな「超・階級社会」へと変容しつつあるのだ。
それは、働き手個人の自助努力ではなく、出自や教育環境、就職時期の経済環境といったにより階級が定まる「日本版カースト」ともいえる理不尽な世界である。親から子へ、子から孫へ。階級格差は世代を超えて連鎖し、加速度的に広がってゆく。
アメリカで映画で「ホッファ」というのがあったが、労働運動に身を投じた一人の男の実話をもとにしたストーリ・・・・・
ジャック・ニコルソンの主演のそれは1993年のハリウッド映画だった。
まあ、言われる「銃社会」の米国とこの日本社会とでは比較するすべもないが、いわゆる移動を常とする「狩猟社会」のDNAからなる欧米社会と「農耕社会」のその民族性からは、そこに生まれる「労働運動」も大きく質が異なる。
それは「政治」においてもそうだろう。その意味では欧米がこれまでのキリスト教文明のもとでの歴史的経緯から提唱する「民主主義」と日本のそれではおそらくその「風土」の上に置いても相容れない。
つまり、「欧米社会」と「異質」であることが、この極東の島国に生息する「人間」のアイデンティティなんではないか。
つまりだ、言われる「グローバル化」とはこの日本列島に居する日本民族の壮大な歴史におけるDNAの否定につながるということだろう。
本来なら、国際社会において、それらの「異なり」を主張し、バリアを施すのが外交という政治の役割ではないのか。
当然、そこにある宗教も「キリスト文明」とは異なった「キリスト教」だろうし、国教であろう「仏教」にしたところで、そこの政治力で「和風」にアレンジされたものとなっている。
つまり、原キリスト教、原仏教とはその習わしも大きく異なったものになっているし・・・・・・
ましてや「ユダヤ文明」「イスラム文明」「ヒンズー文明」はこの国の風土に到底馴染むものでもないし、強いて言えば、その「必要性」が認められない。
つまり、文明開化、近代化と国そのものが、そそ生活習慣、経済的習慣までが欧米化(国際化)するということがこの日本列島に生きる民族に適しているとは到底思うに至らない。
同じく、この日本文明文化を欧米、あるいは中近東の民族が受け入れることができるということもありえない。
この国の戦国時代もそうだったが、国境線を引いて、領地を奪い合う。つまり、侵略したり、侵略されたり。
その意味では、この四季という気候風土のこの日本列島でなぜそのようなことが現実に300年前後に渡り続いたのか全く理解の外だが、今日の歴史ではそのことしか残されていないから・・・・・
その実相は全く闇の中、わからないというのが実態ではないかと。
いわゆる、「第2次世界大戦」以降、そこには「戦のない社会」、「世界」がもう70年余続いている。
そこいら、ところどころに勃発する「戦争もどき」は、一つには軍需産業、経済の生存をかけたもので、その被害は限定的だが、いわゆる「グローバル化」の中の犠牲なんだろう。
そこで、今日のこの日本における「政権」のいう「グローバル化」は果たして彼ら自身その中に生きることができるのだろうか。
生まれたところも違えば、育ったところも違う、全ての環境が異なる中で「同期」しなければならない。
そうなれば、自ずから強烈な「ストレス」がそこに生じるはずだ。
それは当然ながら「勝者」、そして「敗者」という弱肉強食社会のルールにおいて。
Posted by 昭和24歳
at 06:14
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