2019年07月24日

高崎“あるイタメシの物語”

ある恋の物語”ではなく・・・・・・・

“あるイタメシの物語”
HISTORIA DE UN ITAMESHI”

高崎“あるイタメシの物語”

以前「初めての喫茶店」を書いた・・・・・・

どうも、その喫茶店には「イタリア系」のネーミングが多かったような気がするのは僕だけだろうか。

なんとなくだが・・・・・

高崎のそれも「ナポリ」とか「ローマ」とか、古典的というか戦後のそれには、

まさか“日・独・伊”の三国同盟ということはないのだろうけど(笑)。

もっとも、高崎メインストリートにある老舗のパン屋さんの「日英堂」はどうやら明治時代のあの、

“日英同盟”

からのネーミングだとか。

なんでもその「日英堂」の創業者、その“日英同盟”に沸いた時代に・・・・・・・

横浜あたりで「製パン修業」に励んでのことからだと、どこかで読んだ憶えがある。

イタメシである。

高崎の“イタメシ”といえば、本格的イタメシ屋は・・・・・・

1にも2にも、3、4がなくてそれは、なんと言っても「シャンゴ」ではないだろうか。

僕が初めて「シャンゴ」に行ったのは昭和44年、

たしか仲通、フランス座入り口のレストラン“ピナン”でコックの見習をしていた友達に連れられて行ったのが最初だった。

それまでの“イタメシ”・・・・・・

もっとも「イタメシ」などと言う言葉、言い回しはなかったが、それは「ナポリタン」しかなかったのではなかったか。
“駅前ナポリ”でも、“ブリッジ”でも、藤五デパートの“森永レストラン”でも出来たての和田橋のたもとの“ファンタジー”でも、
「スパゲッティ」と言えば、

「ナポリタン」

決まって、ウィンナーにタマネギとピーマンにたっぷりのケッチャップで炒めたやつ・・・・・・

僕は「シャンゴ」に連れて行ってもらったが“ナポリタン”しか知らなかった。

コック見習の友だちは、「ボンゴレも美味いぞ」とか、「ミートソースも、ぺペロンチーノも」とか、しまいには「ピッツァ」もとか・・・・・
とにかく聞くもの、見るもの、「ナポリタン」以外は初めてで、僕はその初めてのシャンゴで「ナポリタン」を注文した。

ところが、出てきた「ナポリタン」は・・・・・・

それは、今までの「ナポリタン」とは一味も、二味も違ったなんとも言えない“美味い”「ナポリタン」だった。

シャンゴのナポリタンにはウィンナーもピーマンも入ってないしケチャップもほんの隠し鯵程度で、
それにはスライスされた“マッシュルーム”と、ぷりぷりの“剥きエビ”、それも大きめの。
それ以来、3年間くらいは「シャンゴ」と言えば僕は“ナポリタン”だった。
それに、やはり初めての食べ物だったのが「野菜サラダ」。
それまでの“サラダ”と言えば連想したのは精々が「ポテトサラダ」でしかなかった。

千切った大き目のレタス、ベビーコーン、セロリに輪切りのピーマン、タマネギ、トマト・・・・・・
それにマヨネーズではなく“ドレッシング”とか言う酸味の効いたなんとも言えない味のスープのようなやつ。
なんと洒落た食いモンだろうと思わず感心してしまった。

ところでその初めての「シャンゴ」だが、広さは20坪弱。

請地町、四つ角、丁度ファミレス“ココス”対面にあった・・・・・・・
立て看板、ブームスタンドには今ではお馴染みのあのコックのマークにお世辞にもお洒落とは言えない「シャンゴ」のロゴ。
店の構えは漆くいの白壁で、いかにもマカロニウエスタンに出てくるような趣。
店の中は薄暗く、カウンターに5、6席とテーブル席がやはり五つか六つ・・・・・・
カウンターの中ではマスターが、いかにも「コックです!」と威張ったような出で立ちでフライパンを音を立てて振っている。
あの頃は僕が21、2の頃だったから、マスターも精々三十路を超えたか超えないか・・・・・・

それにしても、いかにも「シャンゴ」と言った、色黒で、ジャガイモのような顔をした、
その分、コックの白衣が際立ってその白さが目立ったマスター。
その脇で、ママさん、奥さん、小柄で色白で可愛らしい女性。
時々、その調理場の向こうでは赤ちゃんの鳴き声が・・・・・・

そんな「シャンゴ」に通って何年目だろうか。

僕がキャバレーニュージャパンでバンドマンをやっているころのことだから・・・・・・・・
昭和47年くらいじゃあなかっただろうか ?

「今度、問屋町に移転するんだけど」

と、マスターがボソッと言った。

「問屋町ですかぁ?何にもないじゃあないですかあの辺。遠くなっちゃうな」

「ここ、駐車場もないしね。それに道路拡張とかでいずれ動かなくちゃあならんそうだからね」

実は、縁というか、その問屋町本店の店舗のタイル工事は僕の義兄がすることになった。

そんなこんなで、問屋町に移転してからも頻繁に「シャンゴ通い」が続いたわけだが、
請地の店でも僕の同級生がアルバイトをしたりしていて、僕のそのイタメシにも次第次第に箔がかかってきて・・・・・・
移転する頃にはスパゲッティと言えば僕は「マーレートマトソース」か、「ペスカトーレ」。
それに、イタリアンドレッシングたっぷりの「コンビネーションサラダ」とすっかりイタメシが日常になっていた。

最初の問屋町の店が改装する頃には・・・・・・・・

そのオープンカウンター、厨房にはマスターの姿は時々にしか見えなくなっていた。

群馬町店、前橋店、伊勢崎店と出店していくうちに「シャンゴ」が「シャンゴ」ではなくなっていった。
丁度僕もしばらく高崎を離れ、それでも高崎にけると・・・・・・・・
「シャンゴ」の味が懐かしく「シャンゴ」でない「シャンゴ」を食いに行く。

いつのことだったか小用でシャンゴのマスター、
いや、シャンゴ株式会社の社長を本店に訪ねた・・・・・・

僕がバンドマンであることを良く知るマスター、いや、社長はギターを弾く真似をして、
あの、色黒の、ごつい顔をニコッとくしゃくしゃにして、

「相変わらずやってるの?」

と、言った。

高崎の“イタメシ”、いや、群馬の“イタメシ”の多くが「シャンゴスクール」の卒業生。

シャンゴカラーを前面に出してやっている店、相当にアレンジしてやっている店と夫々だが・・・・・・
いずれも、僕の初めての「シャンゴ」には適わない。それは僕の勝手な思い込みかも知れないけれど。

でも、その「シャンゴ」自体が、すでに「シャンゴ」でなくなっている・・・・・・

昔の“それ”ではなくなっているのだから仕方がないのだろう。

そうだ、あの時の「赤ちゃん」が今は頑張っているとか・・・・・・
去年の初秋、問屋町のイベントでシャンゴのマスター、いや、社長にばったりと会った。

「孫のお守りさ」

と、あの顔をくしゃくしゃにして・・・・・・

そうだ、今夜の夕飯は「シャンゴ」のミートソースにしよう。

カミサンはベスビオだという、娘はぺペロンチーの。

ソレに、ミックスピザ“L”サイズをテイクアウトしよう・・・・・・

ソレにしても、パスタな街“たかさき”である。

「犬も歩けばイタメシ屋にあたる」

大袈裟ではなくそう思う。昭和42年にそれは始まったと言うが・・・・・


高崎“あるイタメシの物語”


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Posted by 昭和24歳  at 13:06 │Comments(0)

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