2016年02月25日
昭和「まほろば」
昭和「まほろば」
僕が物心ついての祭りというと・・・・・
そこいら中の神社という神社の入り口にはアコーディオンやバイオリンを物悲しそうに奏でる白服の傷痍軍人の姿が必ずあった。
もちろん兵隊帽子を深々と被り、色眼鏡に松葉杖、義足に片腕での演奏と、色々だった。
それをまるで無視するかのように、いや、無視するというよりは忌み嫌い蔑視するようにして聴き流し去る父母。
見て見ぬフリをする父母のその時の何故かしかめた顔もそのバイオリン、アコーディオンを聴くとき未だ思い出される。
そんな傷痍軍人は僕らの父母とほぼ同世代に違いない。
戦前、戦中と南方、北支に天皇陛下のため、お国の、家族のためと銃後の守りを信じての末の負傷復員兵。
新生日本「万歳万歳」の出征も敗戦焦土に迎える同世代の目はこうも冷たいものだったのかと今にしてみると思えてならない。
そして、それはこの平成の世に上野公園、墨田公園のブルーテントの脇を見て見ぬフリをしながら通り去る僕ら・・・・・・
僕らのその顔はまるであの頃の父母の映しえに見るようで心地悪い。
何れの時代それは「傷痍軍人」も、ブルーテントの「ホームレス」のみなさんも、その時代を括る情景としてそこに見る。
その時代の都合に作られたその情景は僕らに何を語りかけているのだろうか。
しかし、それらは今にして作られたのではないことをその「時代」走っている。おそらく「ホームレス」の人たちは僕等世代。
戦後復興、高度成長期、そしてバブル経済。
その中に、否応なしに畳み込まれた受験戦争、企業戦士といわれた競争社会を生き抜いてきた戦後世代の僕ら。
そこに僕らが目にする情景、それが僕ら世代の答えなんだろうか・・・・・・
そんな答えを得るために僕等は生きてきたのだろうかと自問自答する。それでいいのだろうかと。
高齢者と言われるようになって何故かそんな気がしてならない。
月光仮面世代がこの国の中枢で悪戯にどうしたことか余念がない。
かとおもえばニュースを騒がせるのは「子殺し、親殺し事件」や、得体の知れぬ「伝染病」やら。
当時では想像することもなかった「ネット事件」を報じる新聞、テレビの毎日。
情報過多なのだろうか。あの時代、知らされないことも随分とあったようにも思えるが・・・・・
逆にそれが嘘のニュースを創作することもなかったような良心の時代だったのかもしれない。
言われる敗戦直後からの政治腐敗、汚職、疑獄。それらも単純明快でそこには幾分その「良心」の呵責が見て取れたような気がする。
それはいつでもやり直しの利く「悪戯」のようなもので「嘘に嘘を重ねる」と言ったような慇懃なものではなかったような気がする。
今の平成のそれは、ひとつの嘘に幾重にも重ねに重ねてもなおボロボロとほころびの絶えない疑惑、事件。
そこには聴く「音」は何もない。空耳か、耳鳴りか・・・・・
記憶に留まる「情景」は何処を探しても見当たらない。そう感じるのは僕だけだろうか。
僕ら戦後世代には「夢」があった。
それは「戦争を知らない子どもたち」と歌い、その意味では極めて「幸せな」な時代を過した。
世界中で殺し合いをしていた東西南北問題という戦争が繰り広げられる中に世界でも稀有な時代に生まれ育ったからではないだろうか。
たしかに60年安保、70年安保と世間を騒然とさせる事件はあったがそれは世界で起きていたこととは比較にすらならない・・・・・
「安全地帯」での出来事でしかなかったのではないだろうか、と今は思う。
しかし、僕らが生まれ、育ちするその頃は、まあ何もなかったせいなのかも知れない。
たしかに何もなかった。だがそのことが僕ら世代の発想を高め、消費者として、そして生産者として時代を造形してきた。
とにかく、何もなかった・・・・・
テレビどころの話ではない。ラジオだって物心つくころでさえそう記憶はないし、オモチャや、ゲームがあるわけでもない。
その毎日は学校の校庭で、原っぱで、横丁で汗まみれ、泥まみれで仲間同士遊ぶしかなかった。
履物はズックなどは上等な物で正月にやっと買ってもらえるくらいで、普段はゴム草履か下駄。
靴下なんていう洒落た物はなく「足袋」それも幾重にも継ぎ当てをしたような代物だった。
真冬だって素足に草履、下駄なんていうのも珍しくはなかった。
その真冬にはしもやけ、アカギレ、青ん洟垂らしたり、ハタケにタムシなど等。
着るものといえばお下がりのズボンに詰襟のツンツルテンのテッカテカで汚いの汚くないのと・・・・・・
今時のパパやママがそれを見たら目をむいてひっくり返ってしまうかも知れない。
それは今に言う、〈あの頃は良かった〉などといった代物ではない、それしかなかったのだ。
日本全土が焦土と化した敗戦という時代そのものが貧しく、それまでの軍国主義、富国強兵一辺倒の時代から解放された親世代。
そしてそのの安堵感の中にも明日をも知れぬといった不安な毎日を暮らしたに過ぎなかったのだろうが。
しかし僕等、子ども達には「夢」があった。とてつもなくデッカイ夢をもてた。
それは敗戦による自由解放、民主主義のお陰なのだろうか。おそらく物不足の中にもその時代、初めて手にした自由。
大人たちは雑誌を漁り、僕等子どもたちは次々と発刊される「少年王、冒険王、漫画王、少年画報」。
そしてそれらに連載される月光仮面、赤胴鈴の助、はては二一世紀の現代を予測する鉄腕アトム、正義、正義、正義のオンパレード。
やがて、ラジオ、映画から・・・・・・
そして、それは白黒テレビの西部劇に、アメリカ製のホームドラマに、そして洋楽のヒットパレードに夢中になる。
そんな僕らの夢は外国へ行くこと、自動車を乗り回すこと、自分のなりたいものになると言う将来未来を描くこと。
しかしそれはけして手の届くことのない叶うことのない「夢また夢」の毎日だった。それでも僕等は夢を追いかけて、求め続けた。
はたしてそれが今はあるだろうか。僕らが夢にと描いていたことが今ではそれがいとも簡単に「手品」のように叶ってしまう。
しかし、その「夢」は掴むのではなく買う「夢」。じっくりと時間をかけて、心から願ってのそれではない「お金で買う夢」。
自分で想像した夢ではなく誰かが拵えた売り物の夢。
僕の言う夢とは小学生が見るような夢ではない。女の子なら看護婦さんになりたいとか、ケーキ屋さんになりたいとか・・・・・
男の子ならパイロットとか野球選手、サッカーの選手とかのことではない。
やはりそれは一五、六で見る夢。それは「自分探し」の夢。
まさか僕自身、その時には自分が六七歳になるなどとは「努々」思いもしなかったがその一五、六で見た夢。
エレキを弾いて、エレキを作って家族を養ってきた生活・・・・・・
それを今、同世代の仲間と五〇年、半世紀前と同じ「バンド」で日々している言うことは満悦至極とふり返る。
僕には平成の「情景」はない。あるのは戦後、昭和の「まほろば」。
その昭和の「まほろば」、それはまるであの子どもの頃に押入れの中で見た「幻灯写真」のように僕に話しかけてくれる
僕が物心ついての祭りというと・・・・・
そこいら中の神社という神社の入り口にはアコーディオンやバイオリンを物悲しそうに奏でる白服の傷痍軍人の姿が必ずあった。
もちろん兵隊帽子を深々と被り、色眼鏡に松葉杖、義足に片腕での演奏と、色々だった。
それをまるで無視するかのように、いや、無視するというよりは忌み嫌い蔑視するようにして聴き流し去る父母。
見て見ぬフリをする父母のその時の何故かしかめた顔もそのバイオリン、アコーディオンを聴くとき未だ思い出される。
そんな傷痍軍人は僕らの父母とほぼ同世代に違いない。
戦前、戦中と南方、北支に天皇陛下のため、お国の、家族のためと銃後の守りを信じての末の負傷復員兵。
新生日本「万歳万歳」の出征も敗戦焦土に迎える同世代の目はこうも冷たいものだったのかと今にしてみると思えてならない。
そして、それはこの平成の世に上野公園、墨田公園のブルーテントの脇を見て見ぬフリをしながら通り去る僕ら・・・・・・
僕らのその顔はまるであの頃の父母の映しえに見るようで心地悪い。
何れの時代それは「傷痍軍人」も、ブルーテントの「ホームレス」のみなさんも、その時代を括る情景としてそこに見る。
その時代の都合に作られたその情景は僕らに何を語りかけているのだろうか。
しかし、それらは今にして作られたのではないことをその「時代」走っている。おそらく「ホームレス」の人たちは僕等世代。
戦後復興、高度成長期、そしてバブル経済。
その中に、否応なしに畳み込まれた受験戦争、企業戦士といわれた競争社会を生き抜いてきた戦後世代の僕ら。
そこに僕らが目にする情景、それが僕ら世代の答えなんだろうか・・・・・・
そんな答えを得るために僕等は生きてきたのだろうかと自問自答する。それでいいのだろうかと。
高齢者と言われるようになって何故かそんな気がしてならない。
月光仮面世代がこの国の中枢で悪戯にどうしたことか余念がない。
かとおもえばニュースを騒がせるのは「子殺し、親殺し事件」や、得体の知れぬ「伝染病」やら。
当時では想像することもなかった「ネット事件」を報じる新聞、テレビの毎日。
情報過多なのだろうか。あの時代、知らされないことも随分とあったようにも思えるが・・・・・
逆にそれが嘘のニュースを創作することもなかったような良心の時代だったのかもしれない。
言われる敗戦直後からの政治腐敗、汚職、疑獄。それらも単純明快でそこには幾分その「良心」の呵責が見て取れたような気がする。
それはいつでもやり直しの利く「悪戯」のようなもので「嘘に嘘を重ねる」と言ったような慇懃なものではなかったような気がする。
今の平成のそれは、ひとつの嘘に幾重にも重ねに重ねてもなおボロボロとほころびの絶えない疑惑、事件。
そこには聴く「音」は何もない。空耳か、耳鳴りか・・・・・
記憶に留まる「情景」は何処を探しても見当たらない。そう感じるのは僕だけだろうか。
僕ら戦後世代には「夢」があった。
それは「戦争を知らない子どもたち」と歌い、その意味では極めて「幸せな」な時代を過した。
世界中で殺し合いをしていた東西南北問題という戦争が繰り広げられる中に世界でも稀有な時代に生まれ育ったからではないだろうか。
たしかに60年安保、70年安保と世間を騒然とさせる事件はあったがそれは世界で起きていたこととは比較にすらならない・・・・・
「安全地帯」での出来事でしかなかったのではないだろうか、と今は思う。
しかし、僕らが生まれ、育ちするその頃は、まあ何もなかったせいなのかも知れない。
たしかに何もなかった。だがそのことが僕ら世代の発想を高め、消費者として、そして生産者として時代を造形してきた。
とにかく、何もなかった・・・・・
テレビどころの話ではない。ラジオだって物心つくころでさえそう記憶はないし、オモチャや、ゲームがあるわけでもない。
その毎日は学校の校庭で、原っぱで、横丁で汗まみれ、泥まみれで仲間同士遊ぶしかなかった。
履物はズックなどは上等な物で正月にやっと買ってもらえるくらいで、普段はゴム草履か下駄。
靴下なんていう洒落た物はなく「足袋」それも幾重にも継ぎ当てをしたような代物だった。
真冬だって素足に草履、下駄なんていうのも珍しくはなかった。
その真冬にはしもやけ、アカギレ、青ん洟垂らしたり、ハタケにタムシなど等。
着るものといえばお下がりのズボンに詰襟のツンツルテンのテッカテカで汚いの汚くないのと・・・・・・
今時のパパやママがそれを見たら目をむいてひっくり返ってしまうかも知れない。
それは今に言う、〈あの頃は良かった〉などといった代物ではない、それしかなかったのだ。
日本全土が焦土と化した敗戦という時代そのものが貧しく、それまでの軍国主義、富国強兵一辺倒の時代から解放された親世代。
そしてそのの安堵感の中にも明日をも知れぬといった不安な毎日を暮らしたに過ぎなかったのだろうが。
しかし僕等、子ども達には「夢」があった。とてつもなくデッカイ夢をもてた。
それは敗戦による自由解放、民主主義のお陰なのだろうか。おそらく物不足の中にもその時代、初めて手にした自由。
大人たちは雑誌を漁り、僕等子どもたちは次々と発刊される「少年王、冒険王、漫画王、少年画報」。
そしてそれらに連載される月光仮面、赤胴鈴の助、はては二一世紀の現代を予測する鉄腕アトム、正義、正義、正義のオンパレード。
やがて、ラジオ、映画から・・・・・・
そして、それは白黒テレビの西部劇に、アメリカ製のホームドラマに、そして洋楽のヒットパレードに夢中になる。
そんな僕らの夢は外国へ行くこと、自動車を乗り回すこと、自分のなりたいものになると言う将来未来を描くこと。
しかしそれはけして手の届くことのない叶うことのない「夢また夢」の毎日だった。それでも僕等は夢を追いかけて、求め続けた。
はたしてそれが今はあるだろうか。僕らが夢にと描いていたことが今ではそれがいとも簡単に「手品」のように叶ってしまう。
しかし、その「夢」は掴むのではなく買う「夢」。じっくりと時間をかけて、心から願ってのそれではない「お金で買う夢」。
自分で想像した夢ではなく誰かが拵えた売り物の夢。
僕の言う夢とは小学生が見るような夢ではない。女の子なら看護婦さんになりたいとか、ケーキ屋さんになりたいとか・・・・・
男の子ならパイロットとか野球選手、サッカーの選手とかのことではない。
やはりそれは一五、六で見る夢。それは「自分探し」の夢。
まさか僕自身、その時には自分が六七歳になるなどとは「努々」思いもしなかったがその一五、六で見た夢。
エレキを弾いて、エレキを作って家族を養ってきた生活・・・・・・
それを今、同世代の仲間と五〇年、半世紀前と同じ「バンド」で日々している言うことは満悦至極とふり返る。
僕には平成の「情景」はない。あるのは戦後、昭和の「まほろば」。
その昭和の「まほろば」、それはまるであの子どもの頃に押入れの中で見た「幻灯写真」のように僕に話しかけてくれる
Posted by 昭和24歳
at 10:24
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