2015年11月21日
【えびす講】昭和30年、ちょうど戦後10年目のころ
【えびす講】昭和30年、ちょうど戦後10年目のころ
僕は戦争が終わった、昭和24年2月11日生まれ。
太平洋戦争が終わって4年後に生まれた、米軍に占領された焼け跡に生まれた「占領軍(オキュパイド)ベイビー」。
“Children under the occupation”
今ちょうど“えびす講”のシーズンですね・・・・・
昭和30年、ちょうど戦後10年目のころの“えびす講。
母に手を引かれ、人いきれの雑踏・・・・・
九蔵町側からの高崎銀座通り入り口(当時アーケードはなかった)辺りから西へ“高崎神社”方面は露天が所狭しと連なり、
その高崎神社へ「福引」に向かう善男善女で年の瀬を前の庶民の列で黒山をなしていた。
高崎神社の参道の辻という辻に、神社の境内には“白装束”に“兵隊帽”で色眼鏡をかけた片腕の、片足の、両足両手の無い“傷痍軍人”が。
つまり、戦地で負傷し復員してきた「大日本帝国軍人」の元兵隊さんがアコーディオンで軍歌のようなものを奏でながら物乞い。
まだ、小学一年生だったころの僕はその元兵隊さんたちが怖くて母の後ろに隠れるようにして通った・・・・・
もっとも、僕の父もその北支、シヴェリアからの“復員兵”で、昭和22年に復員、で、僕が生まれたわけなんだけど(笑)。
幸いにも父は負傷兵ではなかった。
そんな父の知り合い、戦友には復員したものの戦地で被弾、被爆し片腕の小父さん、
義眼のおじさん、顔のほとんどがケロイド状になった小父さん・・・・・
そんな小父さんがいっぱいいた。
もちろん、高崎神社だけではない・・・・・
高崎銀座通りの辻つじにはそんな白装束、元兵隊さんが立って、今思えば何かを訴えるような趣で、敗戦、占領下の“今”を見せていた。
僕の家は高砂町だった。
戦後、様々な事情、東京で焼け出された家族、満州からの引揚げ家族、そんな戦争罹災者、家族が身内を頼って住み着いた・・・・・
その意味では高砂町、そこは戦後の新興住宅地だった。
もちろん、空襲の被害は前橋ほどではなかったという高崎は街中は一挙にそんな“難民”のための長屋、間貸し家でごった返していた。
因みに、昭和30年、そのころの東小学校の児童生徒数は全校で900人超・・・・・
僕が入学する2年程前に城東小学校が出来て、300人ほどが転校して行ったとか。
ということは、それまでは1200人ほどが東小学校にはいた(笑)。
僕の家の近くにあった高崎保育所はそんな戦災難民、満州引揚者で、身寄りがあってもなかなか世話になれない、
戦災母子家庭家族が新生活保護法施行で、そこ高崎保育所では7所帯の母子が暮らしていた。
九蔵町辺りの古くからの八百屋、魚屋さんには防空壕があり、まだまだ戦後に戦災の名残が消えることは無かった。
高砂町、今そこに住まう当時の人はほとんどいない。
6畳一間に家族4人で暮らしていたI君、2畳一間に屋台ラーメン屋の父親と二人だけで暮らしていたT君・・・・・
満州からの引揚げ家族のMちゃん、Nちゃん兄弟。お父さんはMちゃん、Nちゃんが小学校3年、5年の時に蒸発してしまった。
あれからおよそ60余年が過ぎ、時代は様々な模様を映し、描いてきた・・・・・
はっきり言って、今の日本は世界一恵まれているといっても過言ではない。
しかしだからといって、今後、かつてのような不幸な時代が招来しないという保証は無い。
この間、極めて政治が貧困だ。
その政治家連中、地方も国もまさに“銭ゲバ”の観である・・・・・
ワーキングプアも、ネットカフェ難民も一時騒がれはしたが、今は一括りに「貧困層」で音無です。
このままの行政が連続し、トヨタ等の大企業が平然と非正規社員、派遣社員を続ければ・・・・・・
その日を、他人に迷惑かけることなく生活することさえ困難になる時代がこないとも限らない。
政治が、真に国家国民を憂い、思うならば・・・・・・
今ここにある「恵まれた」はずの、富の再配分をきちんと行政するべきときだろう。
GDPも2年マイナス。
国民の4人に一人が、子供の6人に一人が貧困層。
賃金は下がり続け、社会保障費も、健康保険もままならず医者にもかかれないという4人に一人。
反面、公務員、大企業社員、政治家は給与、ボーナス「昨年を上回る」(笑)。
その意味でも、国民の選択として自民党、公明党の終焉をだが、野党の為体で受け皿がない。
アベちゃん余裕で、世界中にバラマキ外交しています。回り回ってその資金がISISへ。
まあ、「新安保法制」が進化しちゃって・・・・・・・
僕らのいなくなった高崎「えびす講」で傷痍軍人がアコーディオン弾いてなければいいけど。
【えびす講】昭和30年、ちょうど戦後10年目のころ
僕は戦争が終わった、昭和24年2月11日生まれ。
太平洋戦争が終わって4年後に生まれた、米軍に占領された焼け跡に生まれた「占領軍(オキュパイド)ベイビー」。
“Children under the occupation”
今ちょうど“えびす講”のシーズンですね・・・・・
昭和30年、ちょうど戦後10年目のころの“えびす講。
母に手を引かれ、人いきれの雑踏・・・・・
九蔵町側からの高崎銀座通り入り口(当時アーケードはなかった)辺りから西へ“高崎神社”方面は露天が所狭しと連なり、
その高崎神社へ「福引」に向かう善男善女で年の瀬を前の庶民の列で黒山をなしていた。
高崎神社の参道の辻という辻に、神社の境内には“白装束”に“兵隊帽”で色眼鏡をかけた片腕の、片足の、両足両手の無い“傷痍軍人”が。
つまり、戦地で負傷し復員してきた「大日本帝国軍人」の元兵隊さんがアコーディオンで軍歌のようなものを奏でながら物乞い。
まだ、小学一年生だったころの僕はその元兵隊さんたちが怖くて母の後ろに隠れるようにして通った・・・・・
もっとも、僕の父もその北支、シヴェリアからの“復員兵”で、昭和22年に復員、で、僕が生まれたわけなんだけど(笑)。
幸いにも父は負傷兵ではなかった。
そんな父の知り合い、戦友には復員したものの戦地で被弾、被爆し片腕の小父さん、
義眼のおじさん、顔のほとんどがケロイド状になった小父さん・・・・・
そんな小父さんがいっぱいいた。
もちろん、高崎神社だけではない・・・・・
高崎銀座通りの辻つじにはそんな白装束、元兵隊さんが立って、今思えば何かを訴えるような趣で、敗戦、占領下の“今”を見せていた。
僕の家は高砂町だった。
戦後、様々な事情、東京で焼け出された家族、満州からの引揚げ家族、そんな戦争罹災者、家族が身内を頼って住み着いた・・・・・
その意味では高砂町、そこは戦後の新興住宅地だった。
もちろん、空襲の被害は前橋ほどではなかったという高崎は街中は一挙にそんな“難民”のための長屋、間貸し家でごった返していた。
因みに、昭和30年、そのころの東小学校の児童生徒数は全校で900人超・・・・・
僕が入学する2年程前に城東小学校が出来て、300人ほどが転校して行ったとか。
ということは、それまでは1200人ほどが東小学校にはいた(笑)。
僕の家の近くにあった高崎保育所はそんな戦災難民、満州引揚者で、身寄りがあってもなかなか世話になれない、
戦災母子家庭家族が新生活保護法施行で、そこ高崎保育所では7所帯の母子が暮らしていた。
九蔵町辺りの古くからの八百屋、魚屋さんには防空壕があり、まだまだ戦後に戦災の名残が消えることは無かった。
高砂町、今そこに住まう当時の人はほとんどいない。
6畳一間に家族4人で暮らしていたI君、2畳一間に屋台ラーメン屋の父親と二人だけで暮らしていたT君・・・・・
満州からの引揚げ家族のMちゃん、Nちゃん兄弟。お父さんはMちゃん、Nちゃんが小学校3年、5年の時に蒸発してしまった。
あれからおよそ60余年が過ぎ、時代は様々な模様を映し、描いてきた・・・・・
はっきり言って、今の日本は世界一恵まれているといっても過言ではない。
しかしだからといって、今後、かつてのような不幸な時代が招来しないという保証は無い。
この間、極めて政治が貧困だ。
その政治家連中、地方も国もまさに“銭ゲバ”の観である・・・・・
ワーキングプアも、ネットカフェ難民も一時騒がれはしたが、今は一括りに「貧困層」で音無です。
このままの行政が連続し、トヨタ等の大企業が平然と非正規社員、派遣社員を続ければ・・・・・・
その日を、他人に迷惑かけることなく生活することさえ困難になる時代がこないとも限らない。
政治が、真に国家国民を憂い、思うならば・・・・・・
今ここにある「恵まれた」はずの、富の再配分をきちんと行政するべきときだろう。
GDPも2年マイナス。
国民の4人に一人が、子供の6人に一人が貧困層。
賃金は下がり続け、社会保障費も、健康保険もままならず医者にもかかれないという4人に一人。
反面、公務員、大企業社員、政治家は給与、ボーナス「昨年を上回る」(笑)。
その意味でも、国民の選択として自民党、公明党の終焉をだが、野党の為体で受け皿がない。
アベちゃん余裕で、世界中にバラマキ外交しています。回り回ってその資金がISISへ。
まあ、「新安保法制」が進化しちゃって・・・・・・・
僕らのいなくなった高崎「えびす講」で傷痍軍人がアコーディオン弾いてなければいいけど。
【えびす講】昭和30年、ちょうど戦後10年目のころ
Posted by 昭和24歳
at 12:24
│Comments(1)
この記事へのコメント
同感、同感。
Posted by 迷道院高崎 at 2015年11月21日 16:09
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