2014年11月13日
ベトナム戦争、ニクソンショック&1ドル=272円
ベトナム戦争、ニクソンショック&1ドル=272円
日本社会がベトナム戦争にどのように深くコミットしていたか、具体的な事実と関連づけて明らかにする。ベトナム戦争を支えた構造は何か、又それを終結させた国際的な反戦運動をも視野に入れて、ベトナム戦争の時代を語る。
1975年4月30日「サイゴン陥落」。
それは僕の長女が生まれる一年前のこと・・・・・
つまり、アメリカが敗戦した日だった。
>円安で日本の資産一兆ドルが海外に。
確かにおっしゃる通りなのだが・・・
振り返ってみれば、円ドル=360円の時に日本経済は高度成長した。
もちろん、「戦争経済」の波及効果も大きかったが、戦争という「成長ビジネス」それは以前にも増してお盛んではないか(笑)。
で、1971年のニクソンショックでその「360円」が崩れた(僕が22歳の時)。
まあ、いわゆる「サイゴン陥落」(ヴェトナム戦争)を想定内にした米政府の事情からでしょうか。
日本もそうだったけど「反戦運動」、まっ、そこまでは米国の若者、徴兵制がありその戦争の「当事者」でしたから日本の学生運動とはその質を異にしていた。
そして、1974年(24歳)4月30日、ご案内のサイゴン陥落。
当時は米ソの代理戦争の趣にあったが、超軍事大国、アメリカ合衆国がヴェトナムに「敗戦」した。
まさか、原子爆弾を使うわけにはいかなかったんだろうし、その地政学というか。
そんな時代、僕が初めてアメリカに行ったのがその米国敗戦の直前の1973年、対ドル=272円の時。
たしか、航空運賃も10日間の予定だったので「FIX=RT」で12万円くらいだったか。
往路はホノルルで入国検査して、LAへ。復路はアンカレッジ経由だったから大層な時間がかかったと記憶する。
1973年のLAX周辺はシンボルタワーはあったものの大平原の中のような、実に閑散としていた。
石油の井戸堀だろうか、あの、昔いつかテレビ「じゃじゃ馬億万長者」のような光景がそこには映っていた。
LAXからダウンタウンまでのフリーウェイもがらがらで、もちろん日本車なんかほと走てなかった。
笑っちゃったのは、街中、「T型フォード」のような車やボンネットカヴァーのとれたエンジンむき出しの自動車が走ってたり、ヘッドライトの無い自動車が(笑)。
まあ、当時僕が乗っていたのがホンダの軽「水中メガネ」だったから、アメリカ人からしたら「豆自動車」みたいだったろうから、笑えた話でもないんだろうけど。
そんなわけで、治安が悪いと言われていたので、LAXから直行したのは「ニューオータニ」。
たしか、一泊=75ドル、つまり、2万円くらいだったから、そこへは2泊だけ。
そのあとは、友人の紹介で、日本から「留学」、とは言っても、当時の話だから「ヒッピー」でしょうか、
日本人の同世代の学生もどき、彼ら数人でリトルトーキョーの近くのアパートのフラットをシェアしていたところへ、一泊20ドルで転がり込んだ。
そんな彼ら、皿洗いバイトをする者がほとんどだったが、日本の実家はそれなりに裕福だったようで・・・
「円高で、親、仕送りが楽になったって」
そう言って、笑いながら葉っぱを吸っていた。盛岡の石山さん、僕より一つ上だったけど、今、66歳。
一体何をしているんだろうか、それ以来お会いすることもなかったけど。
その後知ったんだが、やはり留学していて、アメリカ人女性と結婚して、グリーンカードとって。
「アメリカで成功した日本人」
とかで、ツアーガイドの会社を立ち上げて大成功と、テレビで紹介されていた「小野木さん」だったか?
で、他にも僕の先輩の友人はニューヨークで「利休」という和風ステーキレストランで大成功、たしか宇都宮出身の「京極さん」だったか。
確かに、僕ら世代、その「超円安」の時代にアメリカ、ヨーロッパに憧れて。
随分いたんでしょうねぇ。中にはグリーンカード取るためには「徴兵検査」っていうツワモノも。
で、どうなったかはわからないけど、同世代の知り合いの米国人、ダニーはヴェトナム戦争のフラッシュバックでおかしくなっちゃって。
楽器屋やってる人いたけど。今でも元気なんだろうか、67歳・・・・・
まあ、そんな時代です。1ドル=272円・・・・・
その時代のことですけど、日本のドル資産、ありましたね「貿易摩擦」とか、最初が「繊維交渉」、そして「自動車交渉」、さらに「半導体交渉」。
で、どんどん日本の国内ドル資産は目減りしていった、つまり輸入するのにどんどんドルを排出(笑)。
楽器業界もそうだった。輸出でボロ儲け。
まあ、僕ら「エレキ小僧」だったわけだけど、ギター製造業界はその昭和40年代、
普通のサラリーマンの初任給、1万円前後が「エレキギター」の一番安いやつだったんですから。
それが、飛ぶように売れた。問屋が夜な夜なエレキ、出来上がるのを待ってトラック満載にして全国の楽器店へ。
ホント、そんな時代でしたから。まあ、昭和50年になる頃には終わってましやけど。
>円安で日本の資産一兆ドルが海外に。
日本も捨てたもんじゃあない(笑)。
でも、政治家に知恵もなければ肝もない、これではダメですね。
官僚も「偏差値優秀官僚」ばかりですから、それも、世襲閨閥のみが高級官僚。
まあ、戦後政治吉田茂に始まって、田中角栄、中曽根康弘とだが・・・・・
大人だったような気がする(笑)。
それに引き換え、まるで「幼稚園児」のような、誰とは言わないが(;´д`)
ピンチはチャンスなのに。
ベトナム戦争、ニクソンショック&1ドル=272円
日本社会がベトナム戦争にどのように深くコミットしていたか、具体的な事実と関連づけて明らかにする。ベトナム戦争を支えた構造は何か、又それを終結させた国際的な反戦運動をも視野に入れて、ベトナム戦争の時代を語る。
1975年4月30日「サイゴン陥落」。
それは僕の長女が生まれる一年前のこと・・・・・
つまり、アメリカが敗戦した日だった。
>円安で日本の資産一兆ドルが海外に。
確かにおっしゃる通りなのだが・・・
振り返ってみれば、円ドル=360円の時に日本経済は高度成長した。
もちろん、「戦争経済」の波及効果も大きかったが、戦争という「成長ビジネス」それは以前にも増してお盛んではないか(笑)。
で、1971年のニクソンショックでその「360円」が崩れた(僕が22歳の時)。
まあ、いわゆる「サイゴン陥落」(ヴェトナム戦争)を想定内にした米政府の事情からでしょうか。
日本もそうだったけど「反戦運動」、まっ、そこまでは米国の若者、徴兵制がありその戦争の「当事者」でしたから日本の学生運動とはその質を異にしていた。
そして、1974年(24歳)4月30日、ご案内のサイゴン陥落。
当時は米ソの代理戦争の趣にあったが、超軍事大国、アメリカ合衆国がヴェトナムに「敗戦」した。
まさか、原子爆弾を使うわけにはいかなかったんだろうし、その地政学というか。
そんな時代、僕が初めてアメリカに行ったのがその米国敗戦の直前の1973年、対ドル=272円の時。
たしか、航空運賃も10日間の予定だったので「FIX=RT」で12万円くらいだったか。
往路はホノルルで入国検査して、LAへ。復路はアンカレッジ経由だったから大層な時間がかかったと記憶する。
1973年のLAX周辺はシンボルタワーはあったものの大平原の中のような、実に閑散としていた。
石油の井戸堀だろうか、あの、昔いつかテレビ「じゃじゃ馬億万長者」のような光景がそこには映っていた。
LAXからダウンタウンまでのフリーウェイもがらがらで、もちろん日本車なんかほと走てなかった。
笑っちゃったのは、街中、「T型フォード」のような車やボンネットカヴァーのとれたエンジンむき出しの自動車が走ってたり、ヘッドライトの無い自動車が(笑)。
まあ、当時僕が乗っていたのがホンダの軽「水中メガネ」だったから、アメリカ人からしたら「豆自動車」みたいだったろうから、笑えた話でもないんだろうけど。
そんなわけで、治安が悪いと言われていたので、LAXから直行したのは「ニューオータニ」。
たしか、一泊=75ドル、つまり、2万円くらいだったから、そこへは2泊だけ。
そのあとは、友人の紹介で、日本から「留学」、とは言っても、当時の話だから「ヒッピー」でしょうか、
日本人の同世代の学生もどき、彼ら数人でリトルトーキョーの近くのアパートのフラットをシェアしていたところへ、一泊20ドルで転がり込んだ。
そんな彼ら、皿洗いバイトをする者がほとんどだったが、日本の実家はそれなりに裕福だったようで・・・
「円高で、親、仕送りが楽になったって」
そう言って、笑いながら葉っぱを吸っていた。盛岡の石山さん、僕より一つ上だったけど、今、66歳。
一体何をしているんだろうか、それ以来お会いすることもなかったけど。
その後知ったんだが、やはり留学していて、アメリカ人女性と結婚して、グリーンカードとって。
「アメリカで成功した日本人」
とかで、ツアーガイドの会社を立ち上げて大成功と、テレビで紹介されていた「小野木さん」だったか?
で、他にも僕の先輩の友人はニューヨークで「利休」という和風ステーキレストランで大成功、たしか宇都宮出身の「京極さん」だったか。
確かに、僕ら世代、その「超円安」の時代にアメリカ、ヨーロッパに憧れて。
随分いたんでしょうねぇ。中にはグリーンカード取るためには「徴兵検査」っていうツワモノも。
で、どうなったかはわからないけど、同世代の知り合いの米国人、ダニーはヴェトナム戦争のフラッシュバックでおかしくなっちゃって。
楽器屋やってる人いたけど。今でも元気なんだろうか、67歳・・・・・
まあ、そんな時代です。1ドル=272円・・・・・
その時代のことですけど、日本のドル資産、ありましたね「貿易摩擦」とか、最初が「繊維交渉」、そして「自動車交渉」、さらに「半導体交渉」。
で、どんどん日本の国内ドル資産は目減りしていった、つまり輸入するのにどんどんドルを排出(笑)。
楽器業界もそうだった。輸出でボロ儲け。
まあ、僕ら「エレキ小僧」だったわけだけど、ギター製造業界はその昭和40年代、
普通のサラリーマンの初任給、1万円前後が「エレキギター」の一番安いやつだったんですから。
それが、飛ぶように売れた。問屋が夜な夜なエレキ、出来上がるのを待ってトラック満載にして全国の楽器店へ。
ホント、そんな時代でしたから。まあ、昭和50年になる頃には終わってましやけど。
>円安で日本の資産一兆ドルが海外に。
日本も捨てたもんじゃあない(笑)。
でも、政治家に知恵もなければ肝もない、これではダメですね。
官僚も「偏差値優秀官僚」ばかりですから、それも、世襲閨閥のみが高級官僚。
まあ、戦後政治吉田茂に始まって、田中角栄、中曽根康弘とだが・・・・・
大人だったような気がする(笑)。
それに引き換え、まるで「幼稚園児」のような、誰とは言わないが(;´д`)
ピンチはチャンスなのに。
ベトナム戦争、ニクソンショック&1ドル=272円
Posted by 昭和24歳
at 17:03
│Comments(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。