2011年01月24日
僕の「ラ・メーゾン」という世界
僕の「ラ・メーゾン」という世界
第61回高崎市民オーケストラと「ここに泉あり」
当初は、楽員8人のアマチュア楽団で、練習場は、東小学校わきの消防団の二階でしたが、まもなく田町の熊井呉服店の2階に移りました。昭和21年9月、その1階に喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」(音楽の家)が開店、高崎の新しい文化活動の拠点になりました。
<たかさき100年より抜粋引用>
昨日、お馴染みの柳家紫文師匠が奥様とお子様・・・・・・
そして、お弟子さんを伴ってご来高。
急なご案内だったので、ちょいと「イッパイ」という分けにも行かず、
さて、時間も時間ですので「どちらで」という話に。
まあ、僕もドラム教室で立込んでたので、師匠に場所はおまかせということで。
「ラ・メーゾンにしました」
とのご案内に、教室を片付けてそそくさと馳せることに・・・・・
当然、“柳家紫文”勝手に応援団団長の迷道院さん、先着 !!
で、早速、迷道院さんご企画で・・・・・・
この2月26日に江木町の敬西寺ホールでの、
「柳家紫文新春ライブ」
のフライヤーを↓
皆さん、是非柳家紫文「新春ライブ」に、笑い初めですから。
「笑う角には福来る」、最小不幸なんて吹っ飛ばせです !!
で、まあ、あっという間の2時間余り・・・・・・
話が尽きることはなかったのですが、お時間もということで、
で、帰りにはソコ、「ラ・メーゾン」特性のクロワッサンまでオミヤ、頂いちゃって恐縮。
僕の「ラ・メーゾン」という世界
昭和35年頃です・・・・・
そこ高崎田町の四つ角は僕らのブロードウエイだった。
激しく人の往来する八間道路と雑踏往還の田町通りの交差点。
たしか、武田製薬のあの屋上看板のあった「安藤製薬」、
そして角丸証券だったか、失念したが証券会社が今の空き地、ハーモニーさんのところ。
で、昭和21年9月に開店とかの「ラ・メーゾン」・・・・・・
僕らが未だ母親にねだってる頃は、その「ラ・メーゾン」の向こうには、
呉服屋「うろころ」が、まあ、当時のその盛況ぶりは今のユニクロどころの騒ぎではない。
僕んちの母ちゃんなんかは、1に「うろころ」、2に「うろころ」、
で、3、4がなくて5に「富士屋」でした。あそうそう、「正直屋」ってぇのも・・・・・
あっ、「大正堂」洋品店ですけど同級生の橋本くんちでした。
まあ、そこまで行っちゃうと「中央銀座通り」なんですけど、
「おしゃれデパート」は僕んちの母ちゃんの世界じゃあありません(-_-;)。
時々、10歳年上のお姉ちゃんに連れられて、エスカレーターに乗るのが楽しみで(笑)。
で、喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」(音楽の家)です !!
実は、昨日が、その喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」(音楽の家)。
僕にとって初めての世界でした !!
中学に上がると、通学路です。まあ、甘党だった、今は両刀使いですけど・・・・・・
まあ、高嶺の花、っていうか、憧れでしたね。
「いつか、必ず、あそこに入ってケーキ食ってやる」って(笑)。
まっ、喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」って、つまり、高尚なんです。
ましてや、僕ら、横丁の洟垂れ小僧なんて、
大体が「ケーキ」とか「コーヒー」とかなんんてその言葉すら知りませんでした(-_-;)
で、エレキなんか始めちゃって、まあ、鼻つまみモンになっちゃうと、余計にソレ・・・・・
喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」って、敷居が高くなっちゃって(笑)。
で、僕らが「美しい十代」になると、高崎の街中に喫茶店が。
まあ、数え切れません。「喫茶モリエ」は同級生のF君ち、アラスカとかローマとか、ナポリとか、
そういやあ、八間道路と東二条通りの四角にも喫茶店が、昭和40年頃には。
そうそう、ご案内のローマ、うなぎの寝床みたいに長細い店だったんだけど、奥まったところには、
噴水があって、週末になるとその噴水にフタをして高経のワイアンが演奏・・・・・・
確か一度だけそこで、演奏したことがあった。
まあ、ダンスホール全盛の時代、銀座通りの「みゆき」とか、砂賀町の「社交」とか。
で、どんどん、その、いわゆる「不良」の世界にのめり込んで行ってしまったエレキ小僧には、
喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」
それこそ、異郷、すむ世界が違う、そんな趣で、ぼくら「入店お断り」なんてされそう(-_-;)
ホントです(笑)。
で、昨日紫文師匠から「ラ・メーゾン」で、とかのご案内に、
瞬間、禁断の地っていうか、「ドキッ」としちゃって、で、車をコインパに入れて・・・・・・
まあ、身なりを整えてっていうか、まっ、どうにもならないわけですけど身形とか。
でも、中学生のころのあの「ラ・メーゾン」をのぞく僕の姿と、
当時のあの街角の喧騒が走馬燈のようにかけめぐる中を、その禁断の地に。
そしたら、迷道院さん、そこに当たり前のように凛としておられた、紫文師匠と・・・・・・
「ああ、“オ・ト・ナ”だなぁと」
あっ、で、せっかくの夢の、憧れの、禁断の地の、
喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」だったわけですけど・・・・・・
コーヒーが全くダメなあの頃の中学生。
そして甘いモノよりも辛いモノのほうがの、昭和24歳。
紅茶と、上がりの、渋いお茶で。
僕の「ラ・メーゾン」という世界
第61回高崎市民オーケストラと「ここに泉あり」
当初は、楽員8人のアマチュア楽団で、練習場は、東小学校わきの消防団の二階でしたが、まもなく田町の熊井呉服店の2階に移りました。昭和21年9月、その1階に喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」(音楽の家)が開店、高崎の新しい文化活動の拠点になりました。
<たかさき100年より抜粋引用>
昨日、お馴染みの柳家紫文師匠が奥様とお子様・・・・・・
そして、お弟子さんを伴ってご来高。
急なご案内だったので、ちょいと「イッパイ」という分けにも行かず、
さて、時間も時間ですので「どちらで」という話に。
まあ、僕もドラム教室で立込んでたので、師匠に場所はおまかせということで。
「ラ・メーゾンにしました」
とのご案内に、教室を片付けてそそくさと馳せることに・・・・・
当然、“柳家紫文”勝手に応援団団長の迷道院さん、先着 !!
で、早速、迷道院さんご企画で・・・・・・
この2月26日に江木町の敬西寺ホールでの、
「柳家紫文新春ライブ」
のフライヤーを↓
皆さん、是非柳家紫文「新春ライブ」に、笑い初めですから。
「笑う角には福来る」、最小不幸なんて吹っ飛ばせです !!
で、まあ、あっという間の2時間余り・・・・・・
話が尽きることはなかったのですが、お時間もということで、
で、帰りにはソコ、「ラ・メーゾン」特性のクロワッサンまでオミヤ、頂いちゃって恐縮。
僕の「ラ・メーゾン」という世界
昭和35年頃です・・・・・
そこ高崎田町の四つ角は僕らのブロードウエイだった。
激しく人の往来する八間道路と雑踏往還の田町通りの交差点。
たしか、武田製薬のあの屋上看板のあった「安藤製薬」、
そして角丸証券だったか、失念したが証券会社が今の空き地、ハーモニーさんのところ。
で、昭和21年9月に開店とかの「ラ・メーゾン」・・・・・・
僕らが未だ母親にねだってる頃は、その「ラ・メーゾン」の向こうには、
呉服屋「うろころ」が、まあ、当時のその盛況ぶりは今のユニクロどころの騒ぎではない。
僕んちの母ちゃんなんかは、1に「うろころ」、2に「うろころ」、
で、3、4がなくて5に「富士屋」でした。あそうそう、「正直屋」ってぇのも・・・・・
あっ、「大正堂」洋品店ですけど同級生の橋本くんちでした。
まあ、そこまで行っちゃうと「中央銀座通り」なんですけど、
「おしゃれデパート」は僕んちの母ちゃんの世界じゃあありません(-_-;)。
時々、10歳年上のお姉ちゃんに連れられて、エスカレーターに乗るのが楽しみで(笑)。
で、喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」(音楽の家)です !!
実は、昨日が、その喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」(音楽の家)。
僕にとって初めての世界でした !!
中学に上がると、通学路です。まあ、甘党だった、今は両刀使いですけど・・・・・・
まあ、高嶺の花、っていうか、憧れでしたね。
「いつか、必ず、あそこに入ってケーキ食ってやる」って(笑)。
まっ、喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」って、つまり、高尚なんです。
ましてや、僕ら、横丁の洟垂れ小僧なんて、
大体が「ケーキ」とか「コーヒー」とかなんんてその言葉すら知りませんでした(-_-;)
で、エレキなんか始めちゃって、まあ、鼻つまみモンになっちゃうと、余計にソレ・・・・・
喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」って、敷居が高くなっちゃって(笑)。
で、僕らが「美しい十代」になると、高崎の街中に喫茶店が。
まあ、数え切れません。「喫茶モリエ」は同級生のF君ち、アラスカとかローマとか、ナポリとか、
そういやあ、八間道路と東二条通りの四角にも喫茶店が、昭和40年頃には。
そうそう、ご案内のローマ、うなぎの寝床みたいに長細い店だったんだけど、奥まったところには、
噴水があって、週末になるとその噴水にフタをして高経のワイアンが演奏・・・・・・
確か一度だけそこで、演奏したことがあった。
まあ、ダンスホール全盛の時代、銀座通りの「みゆき」とか、砂賀町の「社交」とか。
で、どんどん、その、いわゆる「不良」の世界にのめり込んで行ってしまったエレキ小僧には、
喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」
それこそ、異郷、すむ世界が違う、そんな趣で、ぼくら「入店お断り」なんてされそう(-_-;)
ホントです(笑)。
で、昨日紫文師匠から「ラ・メーゾン」で、とかのご案内に、
瞬間、禁断の地っていうか、「ドキッ」としちゃって、で、車をコインパに入れて・・・・・・
まあ、身なりを整えてっていうか、まっ、どうにもならないわけですけど身形とか。
でも、中学生のころのあの「ラ・メーゾン」をのぞく僕の姿と、
当時のあの街角の喧騒が走馬燈のようにかけめぐる中を、その禁断の地に。
そしたら、迷道院さん、そこに当たり前のように凛としておられた、紫文師匠と・・・・・・
「ああ、“オ・ト・ナ”だなぁと」
あっ、で、せっかくの夢の、憧れの、禁断の地の、
喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」だったわけですけど・・・・・・
コーヒーが全くダメなあの頃の中学生。
そして甘いモノよりも辛いモノのほうがの、昭和24歳。
紅茶と、上がりの、渋いお茶で。
僕の「ラ・メーゾン」という世界
Posted by 昭和24歳
at 20:01
│Comments(2)
ノンアルコールで、昭和24歳さんには申し訳なかったような・・・。
ラ・メーゾン、私も社会人になってやっと入れたお店でした。
こちらのケーキを餌に、ウチの奥さんを釣り上げました。
今じゃ、釣り上げた奥さんに餌をもらってますが・・・。
ところで、4月2日に西小の同窓会をホワイトインで開催予定ですが、少々アトラクション
のことで、お話を聞きたいのですが・・。