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2018年12月25日
戦争が奪った人生

昭和18年俺が出征した夏の一葉・・・
俺は大正2年1月10日群馬県碓氷郡豊岡村大字上豊岡村62番地に父・松原与三郎、母・アキのもとに長男として生を受けた。
その父、与三郎は明治17年1月1日父・松原兵七、母・うたの4男として生まれ日露戦争出征、復員後同所に新宅を受け農業の傍ら高崎の市場にて仲買を始めたという。
母・アキは明治19年8月25日、群馬県片岡郡石原村4801番地に父・五十嵐近造、母・リトの三女として生まれる生まれ後、大正元年10月24日に父・与三郎と婚姻。
しかし、明治40年日露戦争より復員した父・与三郎を襲ったのはその戦後の恐慌だったようだ。
父の戸籍を見るとおかしい、おふくろとはどういうわけか何度かの離婚再婚を繰り返しているからだ。俺が7歳の頃に一度目の離婚をしている。かといって別居ではなく同居離婚、何のこっちゃみたいな話だが世の中それくらい騒然としていたらしい。
子供の頃の俺は村一番のヤンチャ門で父親。母親を相当困らせたらしい。
忘れもしない、隣村の連中とケンカになり連中を病院送りにしちまってブタ箱に入れられたこともあった。
そんなこともあって父は百姓を嫌、しょっちゅう喧嘩に明け暮れていた俺を、高崎で家具職人で成功していたおふくろの弟のところへ俺は奉公に出された。
そうこうするうちに日中戦争が始まりそうになると父は「赤紙」を心配して俺を連れ戻し市場の仲買と畑仕事を俺に命じた。
その頃には村中の若い衆が一人一人と赤紙に引っ張られていった。
当然、食糧難もあってか流石に百姓の長男坊のところへは赤紙が来ることはなかったが・・・・・
しかし、そしていよいよ昭和12年、支那事変勃発だ。オヤジは急いで俺の嫁探しに奔走した。ちょうど仲買仲間の紹介で前橋の在郷、勢多郡南橘村大字田口542番地に父・荏原富七郎、母・テルに大正6年11月21日生まれ、で当時ちょうど年頃、22歳の娘がいるというので、俺の全く知らないところで縁談がまとまっていた。そんなこんなで嫌も応もなく祝言が始まり新婚生活が始まった。
翌年の昭和14年5月1日に長女・冨美子が生まれ、昭和16年8月18日に次女・加陽子が生まれ、その年の12月にアメリカとの戦争が始まった。
その頃になると村から一人も若い衆がいなくなっていた。まあ、俺は百姓の長男だし歳も28になる頃だったから赤紙の心配はしていなかった。それが昭和18年、もうすぐ30だという頃とうとうその赤紙が来た。
女房の腹には翌年、19年3月には生まれるであろう命が宿っていた。
「冗談じゃねぇ!」が正直な気持ちだった。このまま何処かへ女房と子供を連れて逃げ出したかった。
勇ましいラジオの大本営発表は真っ赤な嘘で、17年8月には日本軍はガダルカナルで玉砕。
この村でも高崎十五連隊から南方に送られた仲間、連中の戦死の報が届き始めていた。そんな時の赤紙だった・・・・・