2010年04月29日
昭和「世代の轍」
昭和「世代の轍」

805万8千人のあの日のドラマ。父の買い出し・母のお産、原っぱのチャンバラ・紙芝居の水飴を経て、反乱の青春時代をくぐり、高度成長の担い手となった。バブル時代は札束の上で狂い、失われた10年をおろおろ過ごした…。感動の60年を余さず描録。
図書館の書架の片隅にひっそりとする昭和の世相。
本来なら歴史の検証として、中学の社会史、高校の政経社会史として、
今この時代の親、祖父世代の足跡を、世代の轍を教えるべきではないだろうか。
もちろん文科省・・・・・
そして政府、不都合の極みだろうが。
そして「公教育」がそれの妨げとなるのなら、
幕末のようにそれが寺子屋であろうと、塾であろうと「明日」の礎に・・・・・
残念ながら公教育の教師はその職に就くに際し、
政府の口頭試問、思想信条調査に合格しなければならない。
僕等世代が教頭、校長に・・・・・
そして教育委員会にいて政府の代理人として、
または思想家の代理人として国民(児童生徒)を監視し続けている。
まずいことに、そうだということに気づいていない世襲教師集団。
そこで政府がコケ脅す「教育基本法改定」・・・・・・
国旗掲揚、国歌斉唱の義務。
いわれるまでもなく、国家が国民を心底思い、国民の生命と財産の安全を、
国家、政府が犠牲になる範を見せるなら・・・・・・
いかようにも国を愛し、国に殉ずるであろう・・・・・法律に謳わずとも。
「地獄への道は善意で敷きつめられている。」
(レーニン)
「犠牲者になるな。加害者になるな。そして何よりも傍観者になるな。」
(いいだもも氏著「20世紀の社会主義とは何であったか」より)
戦後、多くの人が先の戦争ではだまされたという。
みながみな口を揃えてだまされたというが・・・・・・・
「俺がだましたのだ」
という人間はまだ一人もいない。
実のところ、だましたものとだまされたものとの区別ははっきりとしていたわけではない・・・・・
もし仮にごく少数のだました人間がいるとしても、
だからといって、だまされた側の非常に多数の人間は必ずしも正しいわけではないし、
責任も解消されるわけではない。
それどころか、だまされるということ事態がすでに一つの悪である。
だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、
あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、
家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた。
国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、
すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。
また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。
ひいては国民大衆、すなわち被支配者階級全体に対する不忠である。
(伊丹万作「戦争責任者の問題」より)
僕は必ずしもこの意見に全てを賛同するわけには行かない。
余にも国民大衆の社会参加の歴史は未だ浅かったし、戦中、議会さえなかった。
そしてそもそも国民半数以上の女性・婦人に「選挙権」すらなかった。
逆らえば、即、国家反逆罪で投獄・・・・・・
何せ、壱銭五厘の赤紙で牛馬になる家畜同然の時代。
そうだ・・・・・
やっぱり、この国に、そして君達の祖父母、祖祖父母世代はそうした中を生きたことを「知らしむ」時だろう。
今の政府、政権の中枢に世代交代が起こる前に・・・・・・
「犠牲者になるな。加害者になるな。そして何よりも傍観者になるな。」
(いいだもも)
この言葉は重い・・・・・
実に重い。
さてそれをどう伝えるか・・・・・
「世代の轍」を断ち切るためにも。
ここのところの僕の書き込み・・・・・
自分でもいい加減にしたらどうかと思う。
しかし、子どもたちの洋々とした日々を見るにつけ、
そして生まれたばかりの長女の長男、そんな子どもたちを眼にした時・・・・・
今は書かずにはいられないのです。
余にも暗い・・・・・
そして余にも深い闇が横たわる世相。
そこにあって、テレビメディアの道化ぶりに。
昭和「世代の轍」。

805万8千人のあの日のドラマ。父の買い出し・母のお産、原っぱのチャンバラ・紙芝居の水飴を経て、反乱の青春時代をくぐり、高度成長の担い手となった。バブル時代は札束の上で狂い、失われた10年をおろおろ過ごした…。感動の60年を余さず描録。
図書館の書架の片隅にひっそりとする昭和の世相。
本来なら歴史の検証として、中学の社会史、高校の政経社会史として、
今この時代の親、祖父世代の足跡を、世代の轍を教えるべきではないだろうか。
もちろん文科省・・・・・
そして政府、不都合の極みだろうが。
そして「公教育」がそれの妨げとなるのなら、
幕末のようにそれが寺子屋であろうと、塾であろうと「明日」の礎に・・・・・
残念ながら公教育の教師はその職に就くに際し、
政府の口頭試問、思想信条調査に合格しなければならない。
僕等世代が教頭、校長に・・・・・
そして教育委員会にいて政府の代理人として、
または思想家の代理人として国民(児童生徒)を監視し続けている。
まずいことに、そうだということに気づいていない世襲教師集団。
そこで政府がコケ脅す「教育基本法改定」・・・・・・
国旗掲揚、国歌斉唱の義務。
いわれるまでもなく、国家が国民を心底思い、国民の生命と財産の安全を、
国家、政府が犠牲になる範を見せるなら・・・・・・
いかようにも国を愛し、国に殉ずるであろう・・・・・法律に謳わずとも。
「地獄への道は善意で敷きつめられている。」
(レーニン)
「犠牲者になるな。加害者になるな。そして何よりも傍観者になるな。」
(いいだもも氏著「20世紀の社会主義とは何であったか」より)
戦後、多くの人が先の戦争ではだまされたという。
みながみな口を揃えてだまされたというが・・・・・・・
「俺がだましたのだ」
という人間はまだ一人もいない。
実のところ、だましたものとだまされたものとの区別ははっきりとしていたわけではない・・・・・
もし仮にごく少数のだました人間がいるとしても、
だからといって、だまされた側の非常に多数の人間は必ずしも正しいわけではないし、
責任も解消されるわけではない。
それどころか、だまされるということ事態がすでに一つの悪である。
だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、
あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、
家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた。
国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、
すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。
また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。
ひいては国民大衆、すなわち被支配者階級全体に対する不忠である。
(伊丹万作「戦争責任者の問題」より)
僕は必ずしもこの意見に全てを賛同するわけには行かない。
余にも国民大衆の社会参加の歴史は未だ浅かったし、戦中、議会さえなかった。
そしてそもそも国民半数以上の女性・婦人に「選挙権」すらなかった。
逆らえば、即、国家反逆罪で投獄・・・・・・
何せ、壱銭五厘の赤紙で牛馬になる家畜同然の時代。
そうだ・・・・・
やっぱり、この国に、そして君達の祖父母、祖祖父母世代はそうした中を生きたことを「知らしむ」時だろう。
今の政府、政権の中枢に世代交代が起こる前に・・・・・・
「犠牲者になるな。加害者になるな。そして何よりも傍観者になるな。」
(いいだもも)
この言葉は重い・・・・・
実に重い。
さてそれをどう伝えるか・・・・・
「世代の轍」を断ち切るためにも。
ここのところの僕の書き込み・・・・・
自分でもいい加減にしたらどうかと思う。
しかし、子どもたちの洋々とした日々を見るにつけ、
そして生まれたばかりの長女の長男、そんな子どもたちを眼にした時・・・・・
今は書かずにはいられないのです。
余にも暗い・・・・・
そして余にも深い闇が横たわる世相。
そこにあって、テレビメディアの道化ぶりに。
昭和「世代の轍」。
Posted by 昭和24歳
at 17:06
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