2010年04月29日
たかさきの喫茶店
たかさきの喫茶店

北は青森から南は鹿児島まで。懐かしい小さな町々を歩き、編集部が選りすぐったレトロな喫茶店、全68軒。
さて・・・・・・・
僕のファースト珈琲は何時のことだろう。
多分、エレキバンドの仲間と行ったオシャレデパートのとこの「ナポリ」か。
否そうではない・・・・・・・
それは昭和30年も宵、恐る恐る、胸を高鳴らせ始めて入ったのが、
本町三丁目の「あすなろ」ではなかったろうか。
そうだ、その「あすなろ」。
小学校6年のころだった・・・・・・・
新聞配達をする友だちのあとにくっついて、夕刊配達の時だ。
それは、なんとも言えない「大人の世界」をのぞき見したような記憶がある(笑)。
とにかくそこにはキレイなお姉さん(多分ウエートレスとか)がイッパイいて、
その時、夕刊配達をする友だちとアメ玉のようなモノをもらった。
で、その「あすなろ」だけど・・・・・・・・
しばらくして、やはりエレキバンドの先輩に連れて行ってもらったような記憶がある。
やはりキレイなお姉さんがイッパイいた(笑)。
その「あすなろ」はもうひとつ、鞘町の学陽書房の隣あたりに映画館と並んであった。
ソレはクラシックを専門に聴かせる「音楽喫茶」で、リスニングルームも確かあったのではなかっただろうか。
その「あすなろ」は本町三丁目のそれとは大分趣を異にしていた。
時に、そこ「あすなろ」では群響の楽団員の人たちがコンサートをやっていた。
もっとも僕の場合はクラシック、交響楽といった高尚な芸術はチンプンカンプン・・・・・・・
なにせ、その頃は「エレキ」に夢中で、そこ「あすなろ」へ誰と行ったのか、
いや、誰に連れて行ってもらったのかさえ全く憶えていない。
ただ、一、二度、入ったような気がするだけだ。
僕はもっぱらその手前、うなぎの「銀直」の隣辺りの、床屋の二階にあった(ある?)喫茶「コンパル」だった。
エレキバンドで出演していたダンスホール「みゆき」の休憩時間にはいつもメンバーとそのコンパルへはよく通った。
そうだ、連雀町だったかの噴水のある「喫茶ローマ」。
たしか昭和40年頃から高経のハワイアンやらウエスタン、フォークソングをやるバンド演奏をやっていた。
うなぎの寝床のような間口2軒ほどの細長い店だったが、その一番奥まったところにステージのようなものがあって、
そのステージでは当時、高経1年生の先輩に連れられてその先輩の先輩が演奏するステージを見に行った。
「ファイブローランズ?」
そういえば、未だ「電車通り」の名前が残っていたころの田町大通り・・・・・・
そこは「喫茶店通り」の趣であったように記憶する。
そうした意味では「昭和」、古きよき時代だったのかもしれない。
あの頃の喫茶店
駅前の「喫茶うえの」・・・カウンターだけの小さな喫茶店。
その隣には「キングバー」なんていうのもあった。
ロータリーの所には、「喫茶ブリッジ」。
そこをチョット裏通りに入ったところには、ジャズを専門に聴かせる「モーニン」とか・・・・・
八間道路の「喫茶モリエ」。
ここは僕が小学校の時から在った。同級生のお母さんがやっていて・・・・・・・
どう言う訳か「アベック」と言う徒名でそいつを囃した覚えがある。
兎に角、「喫茶店」と言うと、「アベック」を連想させた。
あの頃は「同伴喫茶」なるものも流行った。当時はまだ町には車などそうは走ってはいない時代だったし・・・・・・・
流行かどうかは知らないが僕らが色気づいた頃は「連込み」(旅館)なるもの。
いわゆる「さかさくらげ」と言うやつだったが、まだ僕らはその「連込み」に入る歳ではなかった。
ませた同級生や先輩から話を聞くのが精々で・・・・・・
もっぱら僕らは「キャンドル」、「キャメル」、「マーセル」などと、
若い男女の秘め事に重宝させてもらっていたようだ・・・・・
チョイト気恥ずかしいが、僕にも憶えがある(笑)。
話は変るが、実は僕は「珈琲」とやらが全く駄目。
今まで正直な所そのコーヒーとやらを「飲んだ」と言う記憶はない。
今まで一切、自ら進んで口につけない・・・なぜか判らない。
あの「珈琲」の香は嫌いではないのだが(好きではない)・・・・・・・・
仕方なしに飲まされると胸焼けが酷いのには閉口する。
ついでに、「タバコ」も生れてこの方吸ったことがない。
もちろん、未成年の時は特訓をしたがその成果はなかった。
アルコールはその限りではないが・・・・・
「喫茶店」と言えば・・・もう昔からのそれはあまり見られない。
あまりと言うかほとんどなくなっているのではないか。
一時隆盛を極めた、喫茶「いわと」、さきの名曲喫茶「あすなろ」・・・・・
しばらく前まであった柳通りの「ゲレンデ」もとうとう閉めてしまった。
ここは古かった・・・・・とは言っても昭和40年代の中頃からだったが。
マスターが中々の男前で「お水」のお姉さん達の憩いの場でもあったようだ。
僕がニュージャパンでドラムを叩いていた頃はもっぱらお堀端の喫茶「プリンス」か、
その同伴喫茶の「キャンドル」。その「キャンドル」、二階席が同伴専用席になっていた。
昭和47年頃にはこの高崎にもモータリゼーションの波か・・・・・・・
既に「同伴喫茶」の趣も薄れ、店によってはスナック喫茶風に趣を変えていった。
柳川町のど真ん中には「スクール」なんていう、一風変わった喫茶・・・・・・・・
なにが「変わった」なのかは謎だが(笑)。
そして田町通りの喫茶「アラスカ」、新町(あらまち)の「くらくら」等々。
すっかり変わってしまった高崎の街並み・・・・・・・
移ろいの風物、「たかさき」と言うところだろうか。

北は青森から南は鹿児島まで。懐かしい小さな町々を歩き、編集部が選りすぐったレトロな喫茶店、全68軒。
さて・・・・・・・
僕のファースト珈琲は何時のことだろう。
多分、エレキバンドの仲間と行ったオシャレデパートのとこの「ナポリ」か。
否そうではない・・・・・・・
それは昭和30年も宵、恐る恐る、胸を高鳴らせ始めて入ったのが、
本町三丁目の「あすなろ」ではなかったろうか。
そうだ、その「あすなろ」。
小学校6年のころだった・・・・・・・
新聞配達をする友だちのあとにくっついて、夕刊配達の時だ。
それは、なんとも言えない「大人の世界」をのぞき見したような記憶がある(笑)。
とにかくそこにはキレイなお姉さん(多分ウエートレスとか)がイッパイいて、
その時、夕刊配達をする友だちとアメ玉のようなモノをもらった。
で、その「あすなろ」だけど・・・・・・・・
しばらくして、やはりエレキバンドの先輩に連れて行ってもらったような記憶がある。
やはりキレイなお姉さんがイッパイいた(笑)。
その「あすなろ」はもうひとつ、鞘町の学陽書房の隣あたりに映画館と並んであった。
ソレはクラシックを専門に聴かせる「音楽喫茶」で、リスニングルームも確かあったのではなかっただろうか。
その「あすなろ」は本町三丁目のそれとは大分趣を異にしていた。
時に、そこ「あすなろ」では群響の楽団員の人たちがコンサートをやっていた。
もっとも僕の場合はクラシック、交響楽といった高尚な芸術はチンプンカンプン・・・・・・・
なにせ、その頃は「エレキ」に夢中で、そこ「あすなろ」へ誰と行ったのか、
いや、誰に連れて行ってもらったのかさえ全く憶えていない。
ただ、一、二度、入ったような気がするだけだ。
僕はもっぱらその手前、うなぎの「銀直」の隣辺りの、床屋の二階にあった(ある?)喫茶「コンパル」だった。
エレキバンドで出演していたダンスホール「みゆき」の休憩時間にはいつもメンバーとそのコンパルへはよく通った。
そうだ、連雀町だったかの噴水のある「喫茶ローマ」。
たしか昭和40年頃から高経のハワイアンやらウエスタン、フォークソングをやるバンド演奏をやっていた。
うなぎの寝床のような間口2軒ほどの細長い店だったが、その一番奥まったところにステージのようなものがあって、
そのステージでは当時、高経1年生の先輩に連れられてその先輩の先輩が演奏するステージを見に行った。
「ファイブローランズ?」
そういえば、未だ「電車通り」の名前が残っていたころの田町大通り・・・・・・
そこは「喫茶店通り」の趣であったように記憶する。
そうした意味では「昭和」、古きよき時代だったのかもしれない。
あの頃の喫茶店
駅前の「喫茶うえの」・・・カウンターだけの小さな喫茶店。
その隣には「キングバー」なんていうのもあった。
ロータリーの所には、「喫茶ブリッジ」。
そこをチョット裏通りに入ったところには、ジャズを専門に聴かせる「モーニン」とか・・・・・
八間道路の「喫茶モリエ」。
ここは僕が小学校の時から在った。同級生のお母さんがやっていて・・・・・・・
どう言う訳か「アベック」と言う徒名でそいつを囃した覚えがある。
兎に角、「喫茶店」と言うと、「アベック」を連想させた。
あの頃は「同伴喫茶」なるものも流行った。当時はまだ町には車などそうは走ってはいない時代だったし・・・・・・・
流行かどうかは知らないが僕らが色気づいた頃は「連込み」(旅館)なるもの。
いわゆる「さかさくらげ」と言うやつだったが、まだ僕らはその「連込み」に入る歳ではなかった。
ませた同級生や先輩から話を聞くのが精々で・・・・・・
もっぱら僕らは「キャンドル」、「キャメル」、「マーセル」などと、
若い男女の秘め事に重宝させてもらっていたようだ・・・・・
チョイト気恥ずかしいが、僕にも憶えがある(笑)。
話は変るが、実は僕は「珈琲」とやらが全く駄目。
今まで正直な所そのコーヒーとやらを「飲んだ」と言う記憶はない。
今まで一切、自ら進んで口につけない・・・なぜか判らない。
あの「珈琲」の香は嫌いではないのだが(好きではない)・・・・・・・・
仕方なしに飲まされると胸焼けが酷いのには閉口する。
ついでに、「タバコ」も生れてこの方吸ったことがない。
もちろん、未成年の時は特訓をしたがその成果はなかった。
アルコールはその限りではないが・・・・・
「喫茶店」と言えば・・・もう昔からのそれはあまり見られない。
あまりと言うかほとんどなくなっているのではないか。
一時隆盛を極めた、喫茶「いわと」、さきの名曲喫茶「あすなろ」・・・・・
しばらく前まであった柳通りの「ゲレンデ」もとうとう閉めてしまった。
ここは古かった・・・・・とは言っても昭和40年代の中頃からだったが。
マスターが中々の男前で「お水」のお姉さん達の憩いの場でもあったようだ。
僕がニュージャパンでドラムを叩いていた頃はもっぱらお堀端の喫茶「プリンス」か、
その同伴喫茶の「キャンドル」。その「キャンドル」、二階席が同伴専用席になっていた。
昭和47年頃にはこの高崎にもモータリゼーションの波か・・・・・・・
既に「同伴喫茶」の趣も薄れ、店によってはスナック喫茶風に趣を変えていった。
柳川町のど真ん中には「スクール」なんていう、一風変わった喫茶・・・・・・・・
なにが「変わった」なのかは謎だが(笑)。
そして田町通りの喫茶「アラスカ」、新町(あらまち)の「くらくら」等々。
すっかり変わってしまった高崎の街並み・・・・・・・
移ろいの風物、「たかさき」と言うところだろうか。
Posted by 昭和24歳
at 21:16
│Comments(1)
僕の初喫茶店は鞘町のコンパルでした。高校生になって、ここで中学の時の同級生を介して女子高生とコンパとしたことがあります。それで精いっぱいの背伸びでした。後覚えているのが駅前通り八島町のラビアン、あら町交差点の処のくらくら(床屋さんの奥さん息子さんでやっていました。先輩の家です。)
名前は忘れましたが連雀町交差点の伊勢屋の隣の喫茶店も背伸びして行ったことがあります。
とりとめもなく済みませんでした。