2010年01月29日
居酒屋「三月兎」
居酒屋「三月兎」

「三月ウサギの方がずっと面白そうだし、それに今は五月だから、むちゃくちゃに気が狂ってる、ってことはないよね――少なくとも、三月の時ほどじゃあない」
三月兎は・・・・・・・
昭和三〇年の半ば頃から「風雷」と云う屋号で商ってた居酒屋である。
其処の女将は昔、教員だったとかでその筋の客が多かったようだ。小柄だったがなかなかの雰囲気の在った「女将」さんだった。
其の「風雷」は、なんでも「ゲテモノ」を食わせるとかでで「評判」だった。
もっとも、既に其の頃(昭和60年)その店は「風雷」と云う先代のママさんの屋号から、娘さんの代に移って・・・・・・・
その名も「三月兎」と店名を改めていた。
「三月兎」と云えば、不思議の国のアリスの「兎」。
何度かその先代の時も、「三月兎」になってからも寄らせてもらった事があった。
僕が二〇代の頃だったのでなんとなくタイムスリップしたような趣のあった店だった。
取り立てての格式という訳ではないが、一見に、「フラッ」と、寄せてもらうにはそれなりの覚悟を感じさせた。
いったん中に入ってしまうと何でもないのだが・・・・・・・・・
早い話が、飲兵衛の寄合所である。
そんな「三月兎」にどうした風の吹き回しか・・・・・・・
とても「水商売」とは不向きのように見える友人の「松岡氏」なる御仁が、諸般の事情の末の其の店を引き継いでやると云うのだ。
「なべさん、今度『三月兎』やろうかと思ってるんだけど」
「松岡氏、大丈夫かよ・・・・・」
と、誘因ながらの心配・・・・・・
実は松岡氏、とても水商売というタイプではないような趣の当時だったからだ。
本来の松岡氏は居酒屋の亭主というよりは、暇を作ってはそんな居酒屋に入り浸り喧々諤々口角泡を飛ばす、
いわゆる「70年安保世代」を脱しきれないそんな趣の、当時は青年だったから。
と、まあ、四の五の言いながら長考一番、屋号、看板もそのままに松岡氏・・・・・・・
「三月兎」、居酒屋の亭主に収まることと相成った。
「三月兎」の天井には剥き出しの碍子線がはい、ところどころ薄明かりの裸電球が酔客には心地よかった。
建付けのあまりよろしくない引き戸を開けて中に入ると、いつしかそこは・・・・・・・
「高崎デザイナーズ倶楽部」とか、「群馬デザイナーズ倶楽部」とかの重鎮の交わす杯に暇が無い、そんな光景が日常になっていた。
「なべっ、てめえなあ、生意気言ってるんじゃあねえよ!!」
と、「群馬デザイナーズ倶楽部」の重鎮中の重鎮、石井さんである。
因みに「なべ」とは僕のこと・・・・・・
その石井さん。役者にしてもいいような、加藤剛と竹脇無我を足して二で割ったような、しかも身長は六尺は優に超えそうな「スラーッ」っとした、今風に云えば、そう、「イケ面」。
「石井さん」甘いマスクにがっしりとした体躯。さらに「酒」が滅法強い。中之条の出身だというが、中之条、高崎どころか、群馬に置いとくには勿体無い程の「デザイナー」であったような(当時)。
「なべっ、てめえ何とか言えっ、なに眠っちゃがるんだ・・・つまんねえ野郎だな!!」
と、その重鎮、般若湯が進めば進むほど怒りが収まらない(笑)。
実は、僕は一定量の酒が入ると眠ってしまう方なので、「眠れぬ三月兎の美青年」にとってはさぞかしつまらん存在だったようだ。
と、云うのもそこそこの酒量の時は僕も大先輩の石井さんとそれなりに言葉の戦いをしていたから余計・・・・・・
そんな僕が、舟を漕ぎ始めると怒り心頭に達すること暫しの昭和余年が春の宵であった。嗚呼、懐かしやである(笑)。
「三月兎」はどちらかと云うと「日本酒」が売りである。
然し肴と云っても取り立てて何か特別な「美味、珍味」を食わせるわけではない、亭主、松岡氏、素人中の素人である。
実のところ、何が良くて常連、足繁く通うのかは分からない・・・・・・・・
時には高経(高崎経済大学)かなんかの女子大生をバイトに使ったりしているようだが、カラオケがあるわけではなし、その線の「色気」がある訳ではない。
まあ、それが、「三月兎」の「三月兎」たる所以かも知れないと、常連、酔客を納得させるものが其処の雰囲気にはあった。
先々代、「風雷」の頃は蛙を食わせたり、雀を食わせたりと、その筋で評判だったようだったが、
松岡氏の「三月兎」になってからは・・・・・・・
「マスター、美味いモロキューくれ」
とか、
「最高の梅干ねえの」
とか、新米の居酒屋亭主をからかい気味にわけを知った客・・・・・・・・
亭主、松岡氏も負けてはいない、
「炒り立ての銀杏があるよ」
と、其れを受けては返す。
今は、高崎の文化人が屯すると仄聞する・・・・・・
暫く行ってないな「三月兎」。
創めたのが昭和六〇年頃だから、もう彼此三〇年になるのかもしれない松岡氏の「三月兎」。
ところで、その亭主、松岡氏だが結局は鰥夫を通すのだろうか・・・・・・・
ここまで来れば、色恋もなかなか至難の業に違いない。カラオケで情感たっぷりに歌う「フランク永井」もご婦人を射止めるところまでは行かなかったのか。
実は秘めたる淡き「純愛」が、その松岡氏にあったことを僕は知っている――――――
先日、一月二十四日、田町屋台通り「そば源」で何年かぶりに「三月兎」の松岡氏と遭遇した。
かき揚げを肴に一献傾けながら暫し旧交を温める・・・・・・
「よく来るの?」
「視察、視察・・・・・・」
どうやら、「三月兎」の亭主、話の筋から、こちら、屋台通りの黎明に詳しい。
さすがに酔い払った。
そば源でコップ酒四杯、次のイタメシ屋で白ワインをいただいた。
そうだ、その前に「香港茶房Court Café」で、柳家紫文&東京ガールズを楽しみながら徳利五本を。
「たまには出かけて・・・・・・」
そんな「三月兎」亭主、松岡氏の言葉を背中にタクシーを拾った・・・・・・

「三月ウサギの方がずっと面白そうだし、それに今は五月だから、むちゃくちゃに気が狂ってる、ってことはないよね――少なくとも、三月の時ほどじゃあない」
三月兎は・・・・・・・
昭和三〇年の半ば頃から「風雷」と云う屋号で商ってた居酒屋である。
其処の女将は昔、教員だったとかでその筋の客が多かったようだ。小柄だったがなかなかの雰囲気の在った「女将」さんだった。
其の「風雷」は、なんでも「ゲテモノ」を食わせるとかでで「評判」だった。
もっとも、既に其の頃(昭和60年)その店は「風雷」と云う先代のママさんの屋号から、娘さんの代に移って・・・・・・・
その名も「三月兎」と店名を改めていた。
「三月兎」と云えば、不思議の国のアリスの「兎」。
何度かその先代の時も、「三月兎」になってからも寄らせてもらった事があった。
僕が二〇代の頃だったのでなんとなくタイムスリップしたような趣のあった店だった。
取り立てての格式という訳ではないが、一見に、「フラッ」と、寄せてもらうにはそれなりの覚悟を感じさせた。
いったん中に入ってしまうと何でもないのだが・・・・・・・・・
早い話が、飲兵衛の寄合所である。
そんな「三月兎」にどうした風の吹き回しか・・・・・・・
とても「水商売」とは不向きのように見える友人の「松岡氏」なる御仁が、諸般の事情の末の其の店を引き継いでやると云うのだ。
「なべさん、今度『三月兎』やろうかと思ってるんだけど」
「松岡氏、大丈夫かよ・・・・・」
と、誘因ながらの心配・・・・・・
実は松岡氏、とても水商売というタイプではないような趣の当時だったからだ。
本来の松岡氏は居酒屋の亭主というよりは、暇を作ってはそんな居酒屋に入り浸り喧々諤々口角泡を飛ばす、
いわゆる「70年安保世代」を脱しきれないそんな趣の、当時は青年だったから。
と、まあ、四の五の言いながら長考一番、屋号、看板もそのままに松岡氏・・・・・・・
「三月兎」、居酒屋の亭主に収まることと相成った。
「三月兎」の天井には剥き出しの碍子線がはい、ところどころ薄明かりの裸電球が酔客には心地よかった。
建付けのあまりよろしくない引き戸を開けて中に入ると、いつしかそこは・・・・・・・
「高崎デザイナーズ倶楽部」とか、「群馬デザイナーズ倶楽部」とかの重鎮の交わす杯に暇が無い、そんな光景が日常になっていた。
「なべっ、てめえなあ、生意気言ってるんじゃあねえよ!!」
と、「群馬デザイナーズ倶楽部」の重鎮中の重鎮、石井さんである。
因みに「なべ」とは僕のこと・・・・・・
その石井さん。役者にしてもいいような、加藤剛と竹脇無我を足して二で割ったような、しかも身長は六尺は優に超えそうな「スラーッ」っとした、今風に云えば、そう、「イケ面」。
「石井さん」甘いマスクにがっしりとした体躯。さらに「酒」が滅法強い。中之条の出身だというが、中之条、高崎どころか、群馬に置いとくには勿体無い程の「デザイナー」であったような(当時)。
「なべっ、てめえ何とか言えっ、なに眠っちゃがるんだ・・・つまんねえ野郎だな!!」
と、その重鎮、般若湯が進めば進むほど怒りが収まらない(笑)。
実は、僕は一定量の酒が入ると眠ってしまう方なので、「眠れぬ三月兎の美青年」にとってはさぞかしつまらん存在だったようだ。
と、云うのもそこそこの酒量の時は僕も大先輩の石井さんとそれなりに言葉の戦いをしていたから余計・・・・・・
そんな僕が、舟を漕ぎ始めると怒り心頭に達すること暫しの昭和余年が春の宵であった。嗚呼、懐かしやである(笑)。
「三月兎」はどちらかと云うと「日本酒」が売りである。
然し肴と云っても取り立てて何か特別な「美味、珍味」を食わせるわけではない、亭主、松岡氏、素人中の素人である。
実のところ、何が良くて常連、足繁く通うのかは分からない・・・・・・・・
時には高経(高崎経済大学)かなんかの女子大生をバイトに使ったりしているようだが、カラオケがあるわけではなし、その線の「色気」がある訳ではない。
まあ、それが、「三月兎」の「三月兎」たる所以かも知れないと、常連、酔客を納得させるものが其処の雰囲気にはあった。
先々代、「風雷」の頃は蛙を食わせたり、雀を食わせたりと、その筋で評判だったようだったが、
松岡氏の「三月兎」になってからは・・・・・・・
「マスター、美味いモロキューくれ」
とか、
「最高の梅干ねえの」
とか、新米の居酒屋亭主をからかい気味にわけを知った客・・・・・・・・
亭主、松岡氏も負けてはいない、
「炒り立ての銀杏があるよ」
と、其れを受けては返す。
今は、高崎の文化人が屯すると仄聞する・・・・・・
暫く行ってないな「三月兎」。
創めたのが昭和六〇年頃だから、もう彼此三〇年になるのかもしれない松岡氏の「三月兎」。
ところで、その亭主、松岡氏だが結局は鰥夫を通すのだろうか・・・・・・・
ここまで来れば、色恋もなかなか至難の業に違いない。カラオケで情感たっぷりに歌う「フランク永井」もご婦人を射止めるところまでは行かなかったのか。
実は秘めたる淡き「純愛」が、その松岡氏にあったことを僕は知っている――――――
先日、一月二十四日、田町屋台通り「そば源」で何年かぶりに「三月兎」の松岡氏と遭遇した。
かき揚げを肴に一献傾けながら暫し旧交を温める・・・・・・
「よく来るの?」
「視察、視察・・・・・・」
どうやら、「三月兎」の亭主、話の筋から、こちら、屋台通りの黎明に詳しい。
さすがに酔い払った。
そば源でコップ酒四杯、次のイタメシ屋で白ワインをいただいた。
そうだ、その前に「香港茶房Court Café」で、柳家紫文&東京ガールズを楽しみながら徳利五本を。
「たまには出かけて・・・・・・」
そんな「三月兎」亭主、松岡氏の言葉を背中にタクシーを拾った・・・・・・
Posted by 昭和24歳
at 17:48
│Comments(2)
今業平は健在です、それに松ちゃん正月に山名であったな、二人で顔出してみましか。
高崎もまだまだ色々な店があります。
この店は面白いです。