2009年12月24日
市内某中二男子傷害罪で逮捕
市内某中二男子傷害罪で逮捕

でもそれが生きてる証し
つまらないことにこだわって
つまらないことになやんでみたり
つまらないことをくやしがって
つまらないことをないてみたり
でもそれが生きてる証拠
でもそれが生きてる証し
人生なんていつもそれの繰り返し
人生なんていつもそれの繰り返し
どうでもいいことだけどそれが大事
どうでもいいことだけど心に残る
悲しんだり悔んだり
怒りに震えてみたり
でもそれが生きてる証拠
でもそれが生きてる証し
遠い海の向こうになにがある
遠い空の向こうになにがある
いつか僕はそんな風になって
いつか僕はそんな雲になって
海の向こう、空の向こうへ旅にでる
海の向こう、空の向こうへ旅に出る
市内某中学で2年生の男子生徒が担任教師に暴行を働き・・・・・・
傷害罪で逮捕された。12月某日。
なんともやりきれない事件だ。
殴り、蹴り、首を絞め・・・・・・
どうにもならないその様に警察に通報したという。
ハッキリ言って、コレでは学校ではない。
どんなことが原因でそういうことになったのか・・・・・
少し知っているから。
今、学校、中学校はどうなってるんだろう。
高校生とかにでもなれば相当キレたにしてもそろそろソコには大人の分別があるだろう。
しかし、中学生ではその分別はない。それを求める事に無理がある・・・・・
俺たち、昭和30年代のころの中学といえば、当然ワルがいた。
しかし、ソレを精神力と腕力で窘める教師がいた・・・・・
いわゆる、子ども社会と大人社会の境界線がしっかりしていた。
体罰というか殴るとまではいかないまでも叩かれることは日常だった。
こんな僕でも二度叩かれた覚えがある・・・・・
もちろん叩かれた理由はハッキリ、ソレも憶えている。
体罰を肯定とか否定とか分かったようなことを言うのが今日だが・・・・・
社会をナメル、大人をナメル、それがそもそも子どもの成長過程の現象だ。
ソレをどう窘めて行くかが「普通の社会」、「学校社会」ではなかったのか。
絶対的にコワい教師がいてその秩序は保たれる。
家庭でも、絶対的にコワい父親なり母親がいてその秩序は保たれる・・・・・
確かに、子どもも成長すれば、体力、腕力ではその「社会」を殴り飛ばせるかもしれない。
しかし、ソレを自制する、ソレを自制させる「心」を育てるのが教育ではなかったのか。
中学という、その成長過程で一番厄介な年代・・・・・・
様々な大人社会を言葉の上では理解できても、心では中途半端なまま。
だから、悩み、怒り、苦しむ。
その「社会」を知っちゃったから、見ちゃったから悩み、怒り、苦しむ。
もちろん、その「社会」に足を踏み入れることは現実が許さない・・・・・
それは、子どもの「社会」へも、大人が踏み入れることは許されないのだ。
しかし、大人はソレを経験してきている。体験してきている。
大人にはそんな子どもの「社会」を十分尊重できる心の幅はあるはず、あって当然だろう。
その教室での担任教師に対する傷害罪で逮捕された少年・・・・・・
そう「暴発」するまでその担任教師は気付かなかったのか、「己」のことを大人として。
然るに、そうさせてしまった責任は極めて重い・・・・・
だってあなたは教師なんだから。
つまらないことにこだわって
つまらないことになやんでみたり
つまらないことをくやしがって
つまらないことをないてみたり
それが「つまらないこと」と分かるのは・・・・・・
大人になって、つまらない人間になったとき。
14歳、少年の暴発。
その「つまらないこと」がとても大事なこと。
少年の尊厳とでもいうのだろうか。
傷つけられた「プライド」とでもいうのだろうか・・・・・
大人から見たら「つまらないこと」だけど。
僕にも15歳、中3の娘がいます・・・・・
その意味では「プライド」の塊(笑)。
僕もその頃はそうだった。「プライド」の塊。
それが「つまらないこと」と気づくには成長という時間が必要。
それを支えるのが親の仕事でアリ・・・・・・
教師の仕事ではないかとつくづく思う。

でもそれが生きてる証し
つまらないことにこだわって
つまらないことになやんでみたり
つまらないことをくやしがって
つまらないことをないてみたり
でもそれが生きてる証拠
でもそれが生きてる証し
人生なんていつもそれの繰り返し
人生なんていつもそれの繰り返し
どうでもいいことだけどそれが大事
どうでもいいことだけど心に残る
悲しんだり悔んだり
怒りに震えてみたり
でもそれが生きてる証拠
でもそれが生きてる証し
遠い海の向こうになにがある
遠い空の向こうになにがある
いつか僕はそんな風になって
いつか僕はそんな雲になって
海の向こう、空の向こうへ旅にでる
海の向こう、空の向こうへ旅に出る
市内某中学で2年生の男子生徒が担任教師に暴行を働き・・・・・・
傷害罪で逮捕された。12月某日。
なんともやりきれない事件だ。
殴り、蹴り、首を絞め・・・・・・
どうにもならないその様に警察に通報したという。
ハッキリ言って、コレでは学校ではない。
どんなことが原因でそういうことになったのか・・・・・
少し知っているから。
今、学校、中学校はどうなってるんだろう。
高校生とかにでもなれば相当キレたにしてもそろそろソコには大人の分別があるだろう。
しかし、中学生ではその分別はない。それを求める事に無理がある・・・・・
俺たち、昭和30年代のころの中学といえば、当然ワルがいた。
しかし、ソレを精神力と腕力で窘める教師がいた・・・・・
いわゆる、子ども社会と大人社会の境界線がしっかりしていた。
体罰というか殴るとまではいかないまでも叩かれることは日常だった。
こんな僕でも二度叩かれた覚えがある・・・・・
もちろん叩かれた理由はハッキリ、ソレも憶えている。
体罰を肯定とか否定とか分かったようなことを言うのが今日だが・・・・・
社会をナメル、大人をナメル、それがそもそも子どもの成長過程の現象だ。
ソレをどう窘めて行くかが「普通の社会」、「学校社会」ではなかったのか。
絶対的にコワい教師がいてその秩序は保たれる。
家庭でも、絶対的にコワい父親なり母親がいてその秩序は保たれる・・・・・
確かに、子どもも成長すれば、体力、腕力ではその「社会」を殴り飛ばせるかもしれない。
しかし、ソレを自制する、ソレを自制させる「心」を育てるのが教育ではなかったのか。
中学という、その成長過程で一番厄介な年代・・・・・・
様々な大人社会を言葉の上では理解できても、心では中途半端なまま。
だから、悩み、怒り、苦しむ。
その「社会」を知っちゃったから、見ちゃったから悩み、怒り、苦しむ。
もちろん、その「社会」に足を踏み入れることは現実が許さない・・・・・
それは、子どもの「社会」へも、大人が踏み入れることは許されないのだ。
しかし、大人はソレを経験してきている。体験してきている。
大人にはそんな子どもの「社会」を十分尊重できる心の幅はあるはず、あって当然だろう。
その教室での担任教師に対する傷害罪で逮捕された少年・・・・・・
そう「暴発」するまでその担任教師は気付かなかったのか、「己」のことを大人として。
然るに、そうさせてしまった責任は極めて重い・・・・・
だってあなたは教師なんだから。
つまらないことにこだわって
つまらないことになやんでみたり
つまらないことをくやしがって
つまらないことをないてみたり
それが「つまらないこと」と分かるのは・・・・・・
大人になって、つまらない人間になったとき。
14歳、少年の暴発。
その「つまらないこと」がとても大事なこと。
少年の尊厳とでもいうのだろうか。
傷つけられた「プライド」とでもいうのだろうか・・・・・
大人から見たら「つまらないこと」だけど。
僕にも15歳、中3の娘がいます・・・・・
その意味では「プライド」の塊(笑)。
僕もその頃はそうだった。「プライド」の塊。
それが「つまらないこと」と気づくには成長という時間が必要。
それを支えるのが親の仕事でアリ・・・・・・
教師の仕事ではないかとつくづく思う。
Posted by 昭和24歳
at 12:49
│Comments(0)