2009年07月17日
グアム島、二人で2万円!!

まあ、なんのキャンペーンかは知らないが・・・・・・
グアム島旅行4日間二人で2万円とかです!!
HISの澤田氏は僕らと同年代昭和24歳か、23歳か?
それにしても世界は面白い・・・・・
まあ世界とはいっても僕なんざぁ、香港と韓国と、アメリカ西海岸くらいだが・・・・・
音楽仲間は実に愉快だ。
未だ独身の頃だが所謂「ヒッピー」というのがはやった頃のことだ。
既にベトナム戦争は終わり、学生運動も拍子抜けした頃のことで矛先は「成田闘争」へと向かっていた時代。
「ユー、グァムで商売になるぜ」
と、バンド仲間の米国籍の奴が言った。
要するに、グァム島に日本の「ヒッピー商品」、主にアクセサリーといったたぐいだが、それを降ろすのだという。
まあ、あの時代、街角にはいわゆるそのヒッピーとかが手作りのアクセサリーを露店で商っていた・・・・・・
実はその頃は70年代も半ば、ロックもだいぶ下火で、
僕らは拠点を恵比寿と軽井沢に移し、軽井沢のバーゲン屋で一年を暮らそうなんていういい加減な若造だった。
若造とはいっても既に24歳になっていて、それでも虚勢を張るわけでもなくいっぱしのつもりでいた。
もっともそれを“虚勢”というのだろうが(笑)。
あの時代、軽井沢でひとシーズン、5月から9月半ばまで2、3坪の店を借りて40万くらいだっただろうか・・・・・・
とにかく極楽トンボの青春時代最後の時代だった。
12月、横山町で子供だましのアクセサリーを50万ほど仕入れてグァムに持込んだ。
グァムの商店にセールスして歩くのだ・・・・・
昭和48年の11月の話だ。
羽田、グアムのツアー料金はたしか6万円ほどした・・・・・・・
宿泊はグアム第一ホテル。
グァムにはなぜか、インド人の商店主が一番多かった。
その次が、華僑、そして韓国人。
グァムには周りの島々からクリスマスの頃ともなるとその商店主が仕入れにくるのだそうだ。
持込んだ商品は二日ばっかりで全て売れた。
聞けば、インド人は無茶苦茶商売上手だという・・・・・
そう言えば、香港でもインド人の商店主は多かった。
まあ、インド人とはいっても、あの手の顔は僕なんかはみんなインド人に見えてしまうから、
それが正真正銘のインド人であるかどうかは定かではない。
そこで知り合った、香港人に・・・・・
「今度その商品香港へ持ってこないか」
と、誘われた。
根っからの極楽トンボの僕。
すっかりインチキ貿易商を気取ってしまっていた。
11月といえば雨季にさしかかったグァムは雨ばかり・・・・・
それも日本でいえば台風のような雨。いわゆるスコール。
それに海にはナマコの大群で、とてもじゃあないが遊ぶどこではなかった。
もっともその頃のグァムは未だ、信号がひとつもないといったようなところで、
72年、恥ずかしながら復員した横井庄一さんの洞穴を見学したくらいか(笑)。
つい1年半前ほどの「日本兵発見」の話だった・・・・・
翌年、グァムで知り合った香港人を香港島のワンチャイに訪ねた。
もちろん注文の品物をしこたま持って。
貿易商を気取ったつもりが、今にして思えばただのカツギ屋だ(笑)。
周りの観光で香港に行く日本人の興味本位の眼差し。
もっとも僕はいっぱしの貿易商人のつもりだったから結構態度がでかかったのかもしれない(笑)。
よくよく考えたら、髪の毛ぼさぼさ(流行のロン毛)にTシャツ、穴だらけのジーパン。
実のところはよほど奇天烈に見えたのかもしれない。
パックツアー大盛況の頃で、200キロほどの手荷物も団体に潜り込んで、
超過料金、オーバーウエイトチャージなし。
旅行会社(近鉄)の添乗員に袖に下を渡して・・・・・・
当時はちょうどニクソンショックから3年ほどで、1ドルが300円ほどだっただろうか。
対円、香港ドルは54円くらいだった。
軽井沢の売れ残り商品をかき集めて、香港で卸す。
香港にはインドネシア、マレーシア等の商人が仕入れにくる。
日本製は高価だ。
しかしその日本製を買うのは東南アジアのセレブ、半端じゃあない富裕層・・・・・・
ワンチャイに事務所と店舗を持つ「王さん」。その店の看板には、「日本時装」と書かれている。
所謂、日本の流行ファッション問屋といったところだろうか。
とにかく日本製品は引く手あまた、訊けば香港の若手の商人の多くが日本製品を探しに来日しているという。
まあ、その「王さん」もそうした香港のファッション業界にいて独立したのだという。
で、ご案内の通り、一年中が真夏の国の東南アジア・・・・・常夏。
日本のサマーバーゲン商品は大好評だった。
ちょうど、原宿、竹下通りが流行りだした頃で、マンションメーカーめぐりで、主に返品をひと山いくらで買い付けた。
日本製、出来はしっかりしているし、ファッションセンスもいい。
モノは瞬く間に売れた・・・・・・
3年は続いたか・・・・・
しかし1ドルが200円を切りそうになる頃、そして香港ドルが28円になった頃・・・・・・
つまり円高で商売にはならなくなった・・・・・・
井の中の日本人、大海を知らず。
まさにそのままの僕。
いや、知らないから出来ている・・・・・
知っていたら臆病風が先に吹いてそんな経験も出来なかっただろう。
僕は、娘にも言っている・・・・・
一度だけの自分の人生。
少しの貧乏、それも若いころのそれは気の持ちようだ。
思いっきり生きろって。
みんなそうしてる・・・・・
その時代その時代、思いっきり生きる。
思いっきり生きれば、
まず横道にそれることはない。
井の中の蛙・・・・・
井に中の「蛙掛け」かな(笑)。
田中角栄の時代だった・・・・・・
今の、この時代の若者、青年はどんな夢を見るのだろうか。
僕らの見たそんな夢・・・・・
戦後、たったの20年そこそこで見た夢は、海外へ飛び出すこと。
自家用車を持つこと、マイホーム、家族・・・・・・
おおよその夢は叶ったといっていいのではないだろうか。
そして今日この頃がこの時代だ。
この先どんな時代になるか。これで、夢のような老後はあまりにも虫が良すぎる(笑)。
つまり、今日の社会、政治状況を見ても、いわれる「団塊の世代」・・・・・・
僕らの責任は極めて重いモノがある。
もう一度夢を見てみよう・・・・・・
Posted by 昭和24歳
at 17:10
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