2009年05月25日
日馬富士が初優勝

大関日馬富士が初優勝 白鵬との優勝決定戦制す
大相撲夏場所千秋楽は24日、東京都墨田区の両国国技館で行われ、大関日馬富士(25)=本名ダワーニャム・ビャンバドルジ、モンゴル出身、伊勢ケ浜部屋=が初優勝した。14勝1敗で並んだ横綱白鵬との優勝決定戦を制した。

今度は総理杯渡し忘れ寸前=麻生首相、大相撲夏場所の表彰式で
5月24日21時10分配信 時事通信
「内閣総理大臣杯」
と読み上げるところを「杯」の字を読み飛ばした。
こうした事情を知ってのことか、首相が土俵に上がると、場内から・・・・・
「しっかり読めよ」
と野次が飛ぶ場面も。
その後、脇に置いてある総理杯を素通りし土俵の端近くまで移動したが、何とか気付いて前代未聞の珍事はぎりぎり回避された。無事に助けを借りながら約41キロあるカップを抱え上げ大関に手渡すと、大きな歓声が上がった。
周辺によると首相は「うれしそうな大関を見て自分も興奮してしまった」と語っていたという。
大相撲が面白い!!
小学校4年生くらいのころ小結、関脇、大関と昇進、活躍していた初代・若乃花に夢中になった。
もちろん、テレビではない。ラジオの時代の話である。
その時代の横綱といえば、鏡里、吉葉山、そしてしばらくして、千代の山だったろうか・・・・・
とにかく、戦後、干支がちょうどひと回りしたころの話であった。
まだプロレスもない、野球が巨人軍、川上哲治が現役のころで、長嶋茂雄が立教の野球“学部”で、
「鬼の砂押監督」の地獄の千本ノックで鍛えられている最中の話・・・・・
高崎「銀星座」。連雀町にあった映画館で、
その後「十字屋」、「新星堂」になったところ。今はないが・・・・・・
相撲好きの父に連れられて見た、

「土俵の鬼・若乃花」
の、映画は今でも鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。
それでも、その時代「街頭テレビ」とかが、中央デパート(旧国際会館?、スカイビル)のところにあったらしい・・・・・・
現在、地下に「フリーズ」とかいうライブハウスのある場所だ。
で、その「街頭テレビ」だが、小学4年生の僕らの行動範囲の外、僕は東小学校区域の高砂町だったから、
つまりそこは別世界で、まあ、子ども同士の情報交換で知っていただけだったのだった・・・・・
そうこうするうちに、高砂町の五本辻、魚市場の休憩室にテレビが入った。
それはそれは、ものすごい出来事だった。
大相撲のテレビ中継が始まる時間になると、もうその魚市場の休憩室はそれこそ黒山の人だかりになる。
なんとかかんとか、ようやく、子どもの僕らはそれに潜り込むのだが・・・・・
まあ、テレビとはいってもわずか14インチとかのそれだから、しかも、神棚のようなところに祀られるようにして鎮座するそれ、
正直、相撲アナウンサーの声は聴こえるものの、なにが映っているかはわかるものではなかった。
大関・千代の山、関脇・栃錦、そして小結・若乃花がとにかく人気だった・・・・・・
そして前頭には若三杉、若秩父、明武谷、大内山、清水川、等々で、まあ当時娯楽といえばプロ野球はイマイチで、
大人も子どもも大相撲一色。当然、横丁の悪ガキ、僕ら子どもが集まれば相撲を取っていた。
そして現代、今日の大相撲・・・・・・
幕下、十両、幕の内、そして小結、関脇、大関、横綱とモンゴル力士、席捲の様は大相撲というか、
まあ、それはモンゴル大相撲の趣である。
しかもそれが、昭和30年代の白黒テレビの中に熱狂的に見た、それそのまま。
モンゴル力士のその趣も、その昭和30年代の、なんとも言えない「ワビ・サビ」を醸しだし見せ・・・・・
どことなく、その巨体が見せかけの日本力士とは違って、
なんともいえないパワフルな、それでいて郷愁を誘う「あの頃の」大相撲を愉しませてくれている。
去年のテレビでの横綱・朝青龍のインタビューだった・・・・・
「モンゴル人はその土地にすぐに慣れる。言葉もすぐに覚えてしまう」
つまり「郷に入ったら郷に従え」なのか、「遊牧民」のDNAなのか・・・・・・
というよりも、日本人のルーツがそこだからなのか、日本の中でもそうした特別の社会習慣にも融和する。
つまり、「個人主義」でない、中国、韓国でさえその文明文化からの生活習慣は「個人主義」で、
つまり、日本社会のような「曖昧さ」は通用しないと聞く。
つまり、極めて「日本式社会」のその意味では伝統芸能、神道儀式にのとった武作法の世界に難なく馴染む、
それは朝青龍が16歳で相撲留学してきたように、モンゴルの少年が瞬く間にその世界の頂点に立つ・・・・・・・
数年前の写真を見れば朝青龍、白鵬をはじめ、少年の頃のそれは身長こそあれどやせ細ったそれであった。
昨日優勝した、「安馬」あらため、「日馬富士」だが、まさに昭和30年代の栃錦、若乃花のそれである。
そして3度目の技能賞だとかの小結・鶴竜も、その趣はまさに「栃若」そのものではないか。
日本のプロ野球選手がアメリカ大リーグ、メジャーを目指すように・・・・・・・
異国のスポーツ文化、それも職業として成功する若者の様は、洋の東西を問わず実に頼もしいものである。
今後の彼ら、もちろんモンゴル力士だけでなく・・・・・・
5月場所こそ負け越したが、碧い眼の北欧、エストニア出身「関脇・把瑠都」も、ロシアの力士の活躍も楽しみである。
大相撲が面白い!!
Posted by 昭和24歳
at 05:17
│Comments(2)
争いを好まず内気で温厚な人柄。力士になるのを嫌い、時間があれば勉強したり、読書するおとなしい少年だった。そんな照国が、父の急死や兄の出征など家族の悲運を乗り越えるため、相撲取りの道に進んだ。自分が堪え忍び、母と弟たちを窮地から救おうとした。息子を不憫に思う母は猛反対したが、照国は泣いて故郷を後にした。
だが優しすぎる照国は駆け出しの頃、相撲が弱く、「力士としてやっていくのは無理だ」と親方に破門された。両国橋で途方に暮れて泣いていた照国に手を差し伸べ、家族のように温かく育ててくれたのが、同郷の幡瀬川。故郷の母は照国を祈り、わが身に井戸水を浴びる過酷な「願掛け」を行った。「万蔵を救ってけれ。私の寿命を縮めてもいいから」と寒中でも体に水をかぶった。照国が大病を患って危篤になった時も、母は一心不乱に看病し息子を救った。
苦労の母は若くして逝く。照国は「あばぁ。あばぁ」と、亡き母を叫びながら泣いて相撲を取った。病気やケガに苦しみながらも、母を支えに必死に踏ん張り、連続優勝を果たした。照国は故郷の母や家族を支えに、必死に人生を駆け抜けた。照国は語っている。「故郷にいた時が一番の幸せだった」と。貧しくても家族睦まじく、百姓しながら暮らした少年の日が忘れられなかったという。参考…秋田魁新報「秋田が生んだ横綱照国物語」 平成の双葉山が白鵬関なら、照国は日馬富士関だろう。