2023年03月01日
髙﨑、昭和の絶メシ
髙﨑、昭和の絶メシ

昭和の金華亭
違うんだよなぁ・・・・・・
なんつうか、煙でムンムンとしたホルモン焼き屋。
その昔、昭和50年です。北駅、大橋の旧佐藤学園の裏にあった、小汚い(失礼)ホルモン焼き屋。
それが「金華亭」でした。
最後に行ったのが昭和51年生まれの長女が3歳、54年生まれの次女が6ヶ月くらいの頃。
もっとも、その「金華亭」と「チョー飯」の関係ってよくわからないんだけど・・・・・・
本町3丁目にその「チョー飯」ありました。昭和43年ころ火事になっちゃったりして。
友達がそこでバイトしていて、初めて「豚足」なるゲテモノいただきました、「レバ刺し」も。
そんなわけで、たしか南町にも「金華亭」あったと思うんだけど、記憶が薄い。
まあ、なんたって「金華亭」のホルモン焼き、今のとは全然味が違います・・・・・・
どなたか、大橋の金華亭にお詳しい人いませんか、画像なんかアップしてくれたら嬉しいんだけどm(_ _)m
昭和、請地の「シャンゴ」
違うんだよなぁ・・・・・・
なんつうか、まあ、今まで高崎にはなかった趣のレストラン。
まあ、そもそも昭和の高崎に「レストラン」つったら、国道17号烏川沿いのカレー専門とかの「レストハウス」。
あとは、高崎駅東口の「パピルス」だっただろうか、八千代の「ファンタジー」は和田橋開通後だし・・・・・・
もちろん、ファミレスなんてありゃしない時代でしたし、まあ、子連れで行った藤五の「森永レストラン」とか「スズラン」のそれ。
昭和47年でした。バンドの先輩が・・・・・
「オマエ、スパゲッティって食ったことあるか、ないよなぁ」
って言うんで連れてってくれたのが、請地の四角にあった漆くい、白塗りで店構えからしてへんてこりんな店。
中に入ると照明は薄暗く、なんかマカロニウエスタン調の趣。
いかにもっていったふうな、マカロニウエスタンの出てくる悪役のような顔した怖そうなマスター・・・・・
まあ、顔、浅黒く、店内が薄暗いときてるから、そのマスターの純白の白衣とのコントラストがお見事(笑)。
で、無愛想、「なにしますか?」とも言わずに、黙々とカウンターの向こうの調理場をせっちょうしている。
多分、その先輩とは知った顔だったんだろう、マスター「おウッ」といったふうに顎で挨拶すると、注文は?といったような目配せ。
「あっ、オレ、ミートソース」
なにそれ?と思ったが、それが一体どんな代物なのか聞くわけにも行かず・・・・・・
「オマエは?」っていうから、まあ、言われてもいわゆる駅前ナポリで出てくる「ナポリタン」しか知らないから、
「じゃあ、ナポリタン」て言った。
まあ、「ミートソース」もすごかったけど、「ナポリタン」、ケチャップなんてかけてない。
たっぷりとマシュルーム、プリプリとした小エビに玉ねぎ、しかもそのボリュームたるや新田町の「もりや」の焼きそばに引けを取らない。
で、先輩がサラダもって言うんで頼むと、レタスは4分の一カット、それにトマトもぶつ切り・・・・・・
まあ、ドレッシングなんて知らなかったから、どうに食べていいかも分からず、先輩がせっちょうしてくれたやつを頂いた。
それから、事あるごとにシャンゴへ通った。しばらくして問屋町の田舎に移転するとか。
「遠くなっちゃうけど、来てくれよなぁ」
オスマンサンコンさんを日本人にしたような趣でニコっと笑ってそう言ったマスターの顔が忘れられない。
問屋町のお店は繁盛していた。マスターはカウンターの中からは姿を消していた。社長業にご多忙だったようだ。
ある用事で事務所を訪ねたときのことだ・・・・・・
「マスター、味、だいぶ変わっちゃったね」
オスマンサンコンを日本人にしたようなマスター、いや、社長は「うんうん」というように僕を見て困った顔した。
「マスターのフライパンでスパゲティ、もう一度食べたいね」
そう言うと・・・・・
「たけぇぞ」と言って「オイっ」っていうような顔をして僕を睨んだ。
もう二度と食べられないそれだと思うと、どうしても食べたくなった。
中銀の「らっちゃん」
以前、その「らっちゃん」を書いたとき反響がかなりあった。
驚いたのは、高崎出身で現在(現在も)イギリス在住の方から「らっちゃん懐かしい」とのコメント。
そうなんです。高崎を離れた人たち、高崎へ帰ってくると必ずらっちゃんの「やきそば」と「餃子」を食べると。
それを食べないと高崎に帰った気がしないと・・・・・・
まあ、わかります。何が美味いのかって聞かれても「何が」というのが難しいけど、とにかく美味いんだから仕方がない。
やきそばなのにあのペッチャリとした平麺。それにシャキっとしたキャベツのモヤシ。
適当な量が入ってる豚の細切れ、細切れというのか薄いのではなくぶつ切りのちっちゃいやつ。
それに、僕はたっぷりのソースをかけて食べる、そのソースのしみた「やきそばライス」もオツなもんだった。
なんてったって、餃子だろう。マスターとママさんが暇に任せて餃子をこさえている・・・・・・
小ぶりで、カリっとした食感の「らちゃんの餃子」はもう食べることができない。
そう思うと無性に食べたくなる。らっちゃんの「やきそば」と「餃子」。マスター、ママさんはお元気だろうか。
未だ、飯塚に「とりせん」があった頃、御夫婦のお姿お見かけして、会釈させてもらったけど・・・・・・
平成10年頃だっただろうか、娘の運動会の帰りには必ず家族で「らっちゃん」を楽しんだ。
高崎でもう二度と食べられない本格的B級グルメ!!

昭和の金華亭
違うんだよなぁ・・・・・・
なんつうか、煙でムンムンとしたホルモン焼き屋。
その昔、昭和50年です。北駅、大橋の旧佐藤学園の裏にあった、小汚い(失礼)ホルモン焼き屋。
それが「金華亭」でした。
最後に行ったのが昭和51年生まれの長女が3歳、54年生まれの次女が6ヶ月くらいの頃。
もっとも、その「金華亭」と「チョー飯」の関係ってよくわからないんだけど・・・・・・
本町3丁目にその「チョー飯」ありました。昭和43年ころ火事になっちゃったりして。
友達がそこでバイトしていて、初めて「豚足」なるゲテモノいただきました、「レバ刺し」も。
そんなわけで、たしか南町にも「金華亭」あったと思うんだけど、記憶が薄い。
まあ、なんたって「金華亭」のホルモン焼き、今のとは全然味が違います・・・・・・
どなたか、大橋の金華亭にお詳しい人いませんか、画像なんかアップしてくれたら嬉しいんだけどm(_ _)m
昭和、請地の「シャンゴ」
違うんだよなぁ・・・・・・
なんつうか、まあ、今まで高崎にはなかった趣のレストラン。
まあ、そもそも昭和の高崎に「レストラン」つったら、国道17号烏川沿いのカレー専門とかの「レストハウス」。
あとは、高崎駅東口の「パピルス」だっただろうか、八千代の「ファンタジー」は和田橋開通後だし・・・・・・
もちろん、ファミレスなんてありゃしない時代でしたし、まあ、子連れで行った藤五の「森永レストラン」とか「スズラン」のそれ。
昭和47年でした。バンドの先輩が・・・・・
「オマエ、スパゲッティって食ったことあるか、ないよなぁ」
って言うんで連れてってくれたのが、請地の四角にあった漆くい、白塗りで店構えからしてへんてこりんな店。
中に入ると照明は薄暗く、なんかマカロニウエスタン調の趣。
いかにもっていったふうな、マカロニウエスタンの出てくる悪役のような顔した怖そうなマスター・・・・・
まあ、顔、浅黒く、店内が薄暗いときてるから、そのマスターの純白の白衣とのコントラストがお見事(笑)。
で、無愛想、「なにしますか?」とも言わずに、黙々とカウンターの向こうの調理場をせっちょうしている。
多分、その先輩とは知った顔だったんだろう、マスター「おウッ」といったふうに顎で挨拶すると、注文は?といったような目配せ。
「あっ、オレ、ミートソース」
なにそれ?と思ったが、それが一体どんな代物なのか聞くわけにも行かず・・・・・・
「オマエは?」っていうから、まあ、言われてもいわゆる駅前ナポリで出てくる「ナポリタン」しか知らないから、
「じゃあ、ナポリタン」て言った。
まあ、「ミートソース」もすごかったけど、「ナポリタン」、ケチャップなんてかけてない。
たっぷりとマシュルーム、プリプリとした小エビに玉ねぎ、しかもそのボリュームたるや新田町の「もりや」の焼きそばに引けを取らない。
で、先輩がサラダもって言うんで頼むと、レタスは4分の一カット、それにトマトもぶつ切り・・・・・・
まあ、ドレッシングなんて知らなかったから、どうに食べていいかも分からず、先輩がせっちょうしてくれたやつを頂いた。
それから、事あるごとにシャンゴへ通った。しばらくして問屋町の田舎に移転するとか。
「遠くなっちゃうけど、来てくれよなぁ」
オスマンサンコンさんを日本人にしたような趣でニコっと笑ってそう言ったマスターの顔が忘れられない。
問屋町のお店は繁盛していた。マスターはカウンターの中からは姿を消していた。社長業にご多忙だったようだ。
ある用事で事務所を訪ねたときのことだ・・・・・・
「マスター、味、だいぶ変わっちゃったね」
オスマンサンコンを日本人にしたようなマスター、いや、社長は「うんうん」というように僕を見て困った顔した。
「マスターのフライパンでスパゲティ、もう一度食べたいね」
そう言うと・・・・・
「たけぇぞ」と言って「オイっ」っていうような顔をして僕を睨んだ。
もう二度と食べられないそれだと思うと、どうしても食べたくなった。
中銀の「らっちゃん」
以前、その「らっちゃん」を書いたとき反響がかなりあった。
驚いたのは、高崎出身で現在(現在も)イギリス在住の方から「らっちゃん懐かしい」とのコメント。
そうなんです。高崎を離れた人たち、高崎へ帰ってくると必ずらっちゃんの「やきそば」と「餃子」を食べると。
それを食べないと高崎に帰った気がしないと・・・・・・
まあ、わかります。何が美味いのかって聞かれても「何が」というのが難しいけど、とにかく美味いんだから仕方がない。
やきそばなのにあのペッチャリとした平麺。それにシャキっとしたキャベツのモヤシ。
適当な量が入ってる豚の細切れ、細切れというのか薄いのではなくぶつ切りのちっちゃいやつ。
それに、僕はたっぷりのソースをかけて食べる、そのソースのしみた「やきそばライス」もオツなもんだった。
なんてったって、餃子だろう。マスターとママさんが暇に任せて餃子をこさえている・・・・・・
小ぶりで、カリっとした食感の「らちゃんの餃子」はもう食べることができない。
そう思うと無性に食べたくなる。らっちゃんの「やきそば」と「餃子」。マスター、ママさんはお元気だろうか。
未だ、飯塚に「とりせん」があった頃、御夫婦のお姿お見かけして、会釈させてもらったけど・・・・・・
平成10年頃だっただろうか、娘の運動会の帰りには必ず家族で「らっちゃん」を楽しんだ。
高崎でもう二度と食べられない本格的B級グルメ!!
Posted by 昭和24歳
at 16:59
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