2020年03月01日
六本木瀬里奈と山本寛斎
六本木瀬里奈と山本寛斎

1974年秋だったろうか、高崎の街もその晩秋、やけににしっとりしていた。
〝若気”の何もかもが終わり全く未知の人生のとまくちに狼狽えつつも虚勢をはっていた25歳の僕がそこに...
ミュージシャンの夢も潰えその情けなさに呆れつつもまるで駄菓子屋の探りでもするかのようにあれやこれやと腐心する自分を嘲ていた。
軽井沢でのレザーショップ、サマーシーズンバーゲンも終わり、残った商品を高崎、連雀町四角のバラエティショップ「西脇」の店頭を借りて販売。
西脇で営業しながら、前橋スズラン、伊勢崎いせや、そして高崎の藤五展開する中その冬、12月には西脇の店長、大島さんから「ちょっと相談があるんだけど」と...
「来年、高崎で山本寛斎のうティックをオープンしたいと思ってるんだ」
そう、山本寛斎といえば1974年、飛ぶ鳥を落とす勢いの新進気鋭のファッションデザイナー、もしかして西脇がフランチャイズで「寛斎ショップ」でもやるのだろうかと聞いてみると、どうもそうじゃないらしい。
「実はね田原屋デパートのとなりのビルのオーナーがビルが空くのでそこでブティックでもどうだろかと相談されたんだ。で、僕はそっちの方はあまり詳しくないので君の話をしたら君に一度会ってみたいというんだ、どうだろ?」
詳しく聞けばそのビルのオーナーは石原町で「有賀園」というゴルフ練習場とゴルフショップを経営する青年実業家だという。
有賀園といえば僕が3,4歳の頃現在の本店タカハシのところにあった「有賀園デパート」かすかに記憶の中にある、母に手を引かれて確か屋上の豆自動車を強請ったことがあったようななかったような...
数日後、西脇店長の大島さんと僕はその石原、観音山の上り口にある邸宅に有賀社長を訪ねた。
聞く所によると有賀社長は相当の資産家らしい。いかつい門構えを潜り車を止めて玄関に入ると有賀社長が出迎えた。
「君かぁ、そっちの方に詳しいというのは。ゴルフ練習場もさっぱりなんでなんか新しい商売でもと大島くんに相談したんだ」
僕が、子供の頃の「有賀園デパート」の話をすると、四角ばった細面の顔をほころばせて、「そうか、よく憶えているな」と相好を崩した。
大島店長もだが、有賀社長も寅年とか言っていたから昭和13年僕より11歳年上、っていうことは当時は36歳、とにかくイケイケだったようだ。
ま、大島店長もその資産家の有賀社長に食い込んで一旗を目論んでいたかどうかは知らないが、話の筋としては高崎で「山本寛斎」をやるということで山本寛斎のマネージャーに渡りをつけたらしい。
で、そんな晩秋のある日六本木で山本寛斎のショーがあるというので有賀社長のベンツで川越まで行きそこから高速道、首都高で飯倉ランプまで。
東京は、それも六本木というので子供の頃から六本木を庭のようにしていたバンドメンバー、ジョーを呼び出して道案内を頼んだ。
もうだいぶ昔のことなので思い出せないが六本木4丁目あたりのビルで「山本寛斎ショー」が華々しく開催されていた。
まぁ、アレです。高崎の資産家、青年実業家でもその華やかなショーではただの客の一人でしかない。
「おいっ、大島くん山本寛斎は挨拶に来ないのか?」
マネージャーらしき人が来て「申し訳ありません寛斎、手が離せなくて」
「なんだ、寛斎と話せないんじゃあ、東京まで来たかいがないじゃないか」と、有賀社長オカンムリ。
「いいよ、じゃあ、大島くん、飯セットするからショーが終わったら瀬里奈へ来るように言っとけよ」

そんなこんなで、社長、奥さん、そして僕とジョーで「瀬里奈」にベンツを横付け。駐車場は瀬里奈のクラークが「では鍵をお預かりします」と車を移動させた。
「六本木瀬里奈」、超高級な鉄板焼き、豪華絢爛なんてぇものじゃあない。次々と目の前の鉄板で焼かれるステーキに海鮮...
「ほら、遠慮せずに食えよ。帰りの運転は女房にさせるから、飲んでもいいぞ」
そうは言ってくれるものの、六本木瀬里奈は別世界、正直まともに喉を通らなかった最高級ステーキ(笑)。
しかし、待てど暮らせど山本寛斎は来ない。携帯電話なんてない時代だから、有賀社長とうとう堪忍袋の緒が切れて...
「ふざけやがって、こっちは本気だっていうのにどういうことなんだ」
そうするうちに、寛斎のマネージャーが申し訳なさそうに「スミマセン、今夜はなかなか時間が取れなくて後日...」
と言いかけると、「もういい、大島はどうしたんだ、大島は...渡辺君、帰るぞ!!」とえらい剣幕。
そんなこんなで結局「山本寛斎高崎ショップ」はお流れ。
そのあとも、大島店長、業界にアタリをつけて「コシノジュンコ」とか言ってきたけど、有賀社長、切れちゃって取り付く島もない。
そうこうするうちに、「渡辺君、ゴルフ専門の1号店を高崎に出そうと思ってるんだが広告デザインできるやつ知らないか」と。
実は有賀社長いろんな意味で高崎であまり評判が良くない、デザイン関係の古参は皆さん敬遠されてる御様子。
「あっ、いますよすっごい腕のいい若手が」
ということでその腕のいい若手の古典に有賀社長をお誘いして、そこで意気投合...
それから、そろそろ半世紀です。時代のトレンドに乗って「有賀園」ゴルフショップは東京にも進出。
店舗数は関東地方を中心に1都7県に24店舗のゴルフ用品専門店を出店。
光陰矢の如しでしょうか。あの頃25歳だった僕が71歳、36歳だった有賀明社長は82歳。お元気でしょうか...
六本木瀬里奈と山本寛斎

1974年秋だったろうか、高崎の街もその晩秋、やけににしっとりしていた。
〝若気”の何もかもが終わり全く未知の人生のとまくちに狼狽えつつも虚勢をはっていた25歳の僕がそこに...
ミュージシャンの夢も潰えその情けなさに呆れつつもまるで駄菓子屋の探りでもするかのようにあれやこれやと腐心する自分を嘲ていた。
軽井沢でのレザーショップ、サマーシーズンバーゲンも終わり、残った商品を高崎、連雀町四角のバラエティショップ「西脇」の店頭を借りて販売。
西脇で営業しながら、前橋スズラン、伊勢崎いせや、そして高崎の藤五展開する中その冬、12月には西脇の店長、大島さんから「ちょっと相談があるんだけど」と...
「来年、高崎で山本寛斎のうティックをオープンしたいと思ってるんだ」
そう、山本寛斎といえば1974年、飛ぶ鳥を落とす勢いの新進気鋭のファッションデザイナー、もしかして西脇がフランチャイズで「寛斎ショップ」でもやるのだろうかと聞いてみると、どうもそうじゃないらしい。
「実はね田原屋デパートのとなりのビルのオーナーがビルが空くのでそこでブティックでもどうだろかと相談されたんだ。で、僕はそっちの方はあまり詳しくないので君の話をしたら君に一度会ってみたいというんだ、どうだろ?」
詳しく聞けばそのビルのオーナーは石原町で「有賀園」というゴルフ練習場とゴルフショップを経営する青年実業家だという。
有賀園といえば僕が3,4歳の頃現在の本店タカハシのところにあった「有賀園デパート」かすかに記憶の中にある、母に手を引かれて確か屋上の豆自動車を強請ったことがあったようななかったような...
数日後、西脇店長の大島さんと僕はその石原、観音山の上り口にある邸宅に有賀社長を訪ねた。
聞く所によると有賀社長は相当の資産家らしい。いかつい門構えを潜り車を止めて玄関に入ると有賀社長が出迎えた。
「君かぁ、そっちの方に詳しいというのは。ゴルフ練習場もさっぱりなんでなんか新しい商売でもと大島くんに相談したんだ」
僕が、子供の頃の「有賀園デパート」の話をすると、四角ばった細面の顔をほころばせて、「そうか、よく憶えているな」と相好を崩した。
大島店長もだが、有賀社長も寅年とか言っていたから昭和13年僕より11歳年上、っていうことは当時は36歳、とにかくイケイケだったようだ。
ま、大島店長もその資産家の有賀社長に食い込んで一旗を目論んでいたかどうかは知らないが、話の筋としては高崎で「山本寛斎」をやるということで山本寛斎のマネージャーに渡りをつけたらしい。
で、そんな晩秋のある日六本木で山本寛斎のショーがあるというので有賀社長のベンツで川越まで行きそこから高速道、首都高で飯倉ランプまで。
東京は、それも六本木というので子供の頃から六本木を庭のようにしていたバンドメンバー、ジョーを呼び出して道案内を頼んだ。
もうだいぶ昔のことなので思い出せないが六本木4丁目あたりのビルで「山本寛斎ショー」が華々しく開催されていた。
まぁ、アレです。高崎の資産家、青年実業家でもその華やかなショーではただの客の一人でしかない。
「おいっ、大島くん山本寛斎は挨拶に来ないのか?」
マネージャーらしき人が来て「申し訳ありません寛斎、手が離せなくて」
「なんだ、寛斎と話せないんじゃあ、東京まで来たかいがないじゃないか」と、有賀社長オカンムリ。
「いいよ、じゃあ、大島くん、飯セットするからショーが終わったら瀬里奈へ来るように言っとけよ」

そんなこんなで、社長、奥さん、そして僕とジョーで「瀬里奈」にベンツを横付け。駐車場は瀬里奈のクラークが「では鍵をお預かりします」と車を移動させた。
「六本木瀬里奈」、超高級な鉄板焼き、豪華絢爛なんてぇものじゃあない。次々と目の前の鉄板で焼かれるステーキに海鮮...
「ほら、遠慮せずに食えよ。帰りの運転は女房にさせるから、飲んでもいいぞ」
そうは言ってくれるものの、六本木瀬里奈は別世界、正直まともに喉を通らなかった最高級ステーキ(笑)。
しかし、待てど暮らせど山本寛斎は来ない。携帯電話なんてない時代だから、有賀社長とうとう堪忍袋の緒が切れて...
「ふざけやがって、こっちは本気だっていうのにどういうことなんだ」
そうするうちに、寛斎のマネージャーが申し訳なさそうに「スミマセン、今夜はなかなか時間が取れなくて後日...」
と言いかけると、「もういい、大島はどうしたんだ、大島は...渡辺君、帰るぞ!!」とえらい剣幕。
そんなこんなで結局「山本寛斎高崎ショップ」はお流れ。
そのあとも、大島店長、業界にアタリをつけて「コシノジュンコ」とか言ってきたけど、有賀社長、切れちゃって取り付く島もない。
そうこうするうちに、「渡辺君、ゴルフ専門の1号店を高崎に出そうと思ってるんだが広告デザインできるやつ知らないか」と。
実は有賀社長いろんな意味で高崎であまり評判が良くない、デザイン関係の古参は皆さん敬遠されてる御様子。
「あっ、いますよすっごい腕のいい若手が」
ということでその腕のいい若手の古典に有賀社長をお誘いして、そこで意気投合...
それから、そろそろ半世紀です。時代のトレンドに乗って「有賀園」ゴルフショップは東京にも進出。
店舗数は関東地方を中心に1都7県に24店舗のゴルフ用品専門店を出店。
光陰矢の如しでしょうか。あの頃25歳だった僕が71歳、36歳だった有賀明社長は82歳。お元気でしょうか...
六本木瀬里奈と山本寛斎
Posted by 昭和24歳
at 19:53
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