2020年01月31日
絶メン・アーカイブ

それは昭和39年東京オリンピックも終わりひとつの時代の終わりと始まりを象徴かのような空気が流れていた
そうだ、年率10%台の高度経済成長期の槌音に大衆、庶民の甍には競うようにしてテレビのアンテナが林立して行ったここ
高崎でも。
僕んちにも総天然色カラーテレビがきた、そう、正しく「カラーテレビが来た」だつた。
そう言えばそれまでの白黒テレビ、中々カラーテレビが買えなくて白黒ブラウン管にプラスチック製の偏光レンズみたいなのを吸盤で引っ掛けてカラーテレビ気分を味わっていたと言うなんとも滑稽な時代を懐かしむ今日この頃です。
まぁ、昭和39年なんて言ったらポッポ屋の親父の月給10万円くらいじゃなかった?
そんなわけで当時国鉄職員組合の指定店だった江木町の城田ナシヨナル電器店で親父、たしか夏冬ボーナス2回払いで…
たしか、24インチ、観音開きのゴージャスなやつだった。
Posted by 昭和24歳
at 18:38
│Comments(4)
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4月、初めて世に出た(親父に仕送りを始めた)年。ある会社のなわ船(マグロ船)で三浦三崎を出港し大圏航路でパナマ運河を抜けてトリニダードトバゴとか言う国?の港に入った。街中でスティールバンド?とか言う大小、形の違った空き缶を並べて作った楽器???だろうか? が奏でる幾つかのメロディーに感激した思いがある。 確か坂本九の上を向いてもあったような?
スティールドラムでしようか?如何にもカリブの楽器っていう感じですね。
マグロ漁船ですか、マグロつて一本釣りでしたつけ?昭和30年代なら大漁でガツボリ儲かったんじゃないですか、港港に可愛子ちゃんがいたりして…
今度じつくりお話し聞かせてください。
イクラも数の子も食べる習慣がなくてほとんど取引されてなかったんだとか。
ま、イクラも数の子も日本列島でしか需要がなかったとか。そういえば僕らが子どもの頃は数の子はかなり安かった。
ある時期を境に急騰しましたね、2百海里問題だったんでしょうか?
大間のマグロも延縄漁でしたか?
日本男子はモテたでしょうねぇ...