2018年04月15日
知古創新
知古創新

僕が生まれたのはこんな時代だった・・・
それを知り、新しきを創ろう。繕うことなく。
昭和24年2月11日金曜日。生まれるべくして僕は生まれた。
どんな格好で生まれたかは詳らかには知らない。
おそらく村の産婆さんが取りあげ、ボロ布と新聞ガミに包まれて(笑)。
姉の言によれば凡そがそんなところであったようだ。
僕の生まれた村・・・・・・
なんとその昭和24年、いわゆる早生まれだが、
男の子が5人、女の子が3人ほぼ時期を同じくしての“ご生誕”だった。
もっとも僕だけ生後半年ほどで生母病臥のため一里半ほど離れた町、子供のいなかった実父の妹夫婦のもとへ養子に出された。
折に触れ生家へお客に行くと「町の子」と大人からは腫れ物に触るように大事にされ・・・・・
村のガキ連中には虐めと言うほどではないがよく“仲間ハズレ”にされては泣いていたという。
知古創新
今日を知るには、昭和24年・・・・・・
と言うよりは戦後の10年ほどの新聞を読み返すとその“今が”手にとるようにわかる(笑)。
>1949/01/01,昭和24/01/01
マッカーサーが国旗の自由使用を許可する。
>1949/07/04,昭和24/07/04
マッカーサーが、アメリカ独立記念日にさいして「日本は共産主義東進阻止の防壁」と言明する。
ちなみに昭和20年はこうだ・・・・・
>1945/07/26,昭和20/07/26
対日ポツダム宣言が、米英中共同で発表される。日本は黙殺する。
>1945/08/06,昭和20/08/06
8時15分17秒、B29エノラ・ゲイは、広島の上空9600mで広島にウラニウム型の原爆「リトル・ボーイ」を投下する。
原爆は高度580mで炸裂する。
11月までに原爆で死亡した人は14万人、5年後の1950年までには24万7000人に達する。
被爆者は36万人以上になると見られている。
>1945/08/08,昭和20/08/08
ソ連が対日宣戦を布告する。
>1945/08/08,昭和20/08/08
ソ連軍が、北満州、朝鮮に進攻する。
>1945/08/09,昭和20/08/09
深夜、最高戦争指導会議構成員による御前会議で、
ポツダム宣言受諾に国体維持(天皇制維持)だけを条件とする東郷外相案と、
他に3条件を加える阿南陸省の案が対立する。
>1945/08/09,昭和20/08/09
B29ボックス・カー号は、小倉市を目標として飛来したが、
上空が曇天のため、午前11時2分、長崎市にプルトニウム型の原爆「ファット・マン」を投下する。
原爆は地上503mで炸裂し、12月までの死者の数は8万人以上になる。
>1945/08/15,昭和20/08/15
阿南惟幾陸軍大将が、未明、「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を残して割腹自殺する。
59歳(誕生:明治20(1887)/02/21)。
>1945/08/15,昭和20/08/15
天皇が終戦勅書をラジオ放送(玉音放送)し、太平洋戦争が終結する。
>1945/08/18,昭和20/08/18
内務省が、占領軍向けの特殊慰安施設を設置するよう指示する。
「この後、占領政策が続く」と、新聞ガミにはある。
今日に至るも米国政府は占領政策を解いたとは思っていないだろう。
「日米安保」
よくて、江戸幕府との「日米和親条約」の不平等、片務条約の域を越えてはいない。
ポツダム宣言受諾を躊躇する間に広島・長崎への原水爆の惨禍。
軍人の「大和魂」が齎した大惨劇だ。
さかのぼって、「ハル・ノート」にいかなる難題難問があったにせよ、この国に“外交力”があったなら・・・・・
馬鹿な戦争に突き進むことはなかっただろうに。
まさに、今の北朝鮮が米国に宣戦布告するようなものだったのだから。
政治家官僚、己らの「恥」を隠し通すために国民に「百万弁の嘘」をつく。
それは今の財務省の公文書改竄嘘のデッチ上げで嘘を嘘と認めないという、それは戦前、戦中からの体質。
>内務省が、占領軍向けの特殊慰安施設を設置するよう指示する。
これが、中曽根康弘、後藤田正晴、読売の正力松太郎らの、敗戦の漆黒に更なる国民への仕打ち。
僕らの母世代が敗戦に打ちひしがれる日本女性を「従軍慰安婦」に米兵に差し出す。
国民、この国の政府の悪辣振りをもう一度知る必要がある。
人権を訴えるなら・・・・・・
日本国民、戦争被害者、戦後占領政策被害者として、国連の人権委員会に「米政府」と日本の「宦官政府」を提訴すべきだ。
その時初めて日本国民は、日本人は世界から認められる。
もうすぐ終わる僕らの遺す言葉は、そして行動は?
知古創新

僕が生まれたのはこんな時代だった・・・
それを知り、新しきを創ろう。繕うことなく。
昭和24年2月11日金曜日。生まれるべくして僕は生まれた。
どんな格好で生まれたかは詳らかには知らない。
おそらく村の産婆さんが取りあげ、ボロ布と新聞ガミに包まれて(笑)。
姉の言によれば凡そがそんなところであったようだ。
僕の生まれた村・・・・・・
なんとその昭和24年、いわゆる早生まれだが、
男の子が5人、女の子が3人ほぼ時期を同じくしての“ご生誕”だった。
もっとも僕だけ生後半年ほどで生母病臥のため一里半ほど離れた町、子供のいなかった実父の妹夫婦のもとへ養子に出された。
折に触れ生家へお客に行くと「町の子」と大人からは腫れ物に触るように大事にされ・・・・・
村のガキ連中には虐めと言うほどではないがよく“仲間ハズレ”にされては泣いていたという。
知古創新
今日を知るには、昭和24年・・・・・・
と言うよりは戦後の10年ほどの新聞を読み返すとその“今が”手にとるようにわかる(笑)。
>1949/01/01,昭和24/01/01
マッカーサーが国旗の自由使用を許可する。
>1949/07/04,昭和24/07/04
マッカーサーが、アメリカ独立記念日にさいして「日本は共産主義東進阻止の防壁」と言明する。
ちなみに昭和20年はこうだ・・・・・
>1945/07/26,昭和20/07/26
対日ポツダム宣言が、米英中共同で発表される。日本は黙殺する。
>1945/08/06,昭和20/08/06
8時15分17秒、B29エノラ・ゲイは、広島の上空9600mで広島にウラニウム型の原爆「リトル・ボーイ」を投下する。
原爆は高度580mで炸裂する。
11月までに原爆で死亡した人は14万人、5年後の1950年までには24万7000人に達する。
被爆者は36万人以上になると見られている。
>1945/08/08,昭和20/08/08
ソ連が対日宣戦を布告する。
>1945/08/08,昭和20/08/08
ソ連軍が、北満州、朝鮮に進攻する。
>1945/08/09,昭和20/08/09
深夜、最高戦争指導会議構成員による御前会議で、
ポツダム宣言受諾に国体維持(天皇制維持)だけを条件とする東郷外相案と、
他に3条件を加える阿南陸省の案が対立する。
>1945/08/09,昭和20/08/09
B29ボックス・カー号は、小倉市を目標として飛来したが、
上空が曇天のため、午前11時2分、長崎市にプルトニウム型の原爆「ファット・マン」を投下する。
原爆は地上503mで炸裂し、12月までの死者の数は8万人以上になる。
>1945/08/15,昭和20/08/15
阿南惟幾陸軍大将が、未明、「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を残して割腹自殺する。
59歳(誕生:明治20(1887)/02/21)。
>1945/08/15,昭和20/08/15
天皇が終戦勅書をラジオ放送(玉音放送)し、太平洋戦争が終結する。
>1945/08/18,昭和20/08/18
内務省が、占領軍向けの特殊慰安施設を設置するよう指示する。
「この後、占領政策が続く」と、新聞ガミにはある。
今日に至るも米国政府は占領政策を解いたとは思っていないだろう。
「日米安保」
よくて、江戸幕府との「日米和親条約」の不平等、片務条約の域を越えてはいない。
ポツダム宣言受諾を躊躇する間に広島・長崎への原水爆の惨禍。
軍人の「大和魂」が齎した大惨劇だ。
さかのぼって、「ハル・ノート」にいかなる難題難問があったにせよ、この国に“外交力”があったなら・・・・・
馬鹿な戦争に突き進むことはなかっただろうに。
まさに、今の北朝鮮が米国に宣戦布告するようなものだったのだから。
政治家官僚、己らの「恥」を隠し通すために国民に「百万弁の嘘」をつく。
それは今の財務省の公文書改竄嘘のデッチ上げで嘘を嘘と認めないという、それは戦前、戦中からの体質。
>内務省が、占領軍向けの特殊慰安施設を設置するよう指示する。
これが、中曽根康弘、後藤田正晴、読売の正力松太郎らの、敗戦の漆黒に更なる国民への仕打ち。
僕らの母世代が敗戦に打ちひしがれる日本女性を「従軍慰安婦」に米兵に差し出す。
国民、この国の政府の悪辣振りをもう一度知る必要がある。
人権を訴えるなら・・・・・・
日本国民、戦争被害者、戦後占領政策被害者として、国連の人権委員会に「米政府」と日本の「宦官政府」を提訴すべきだ。
その時初めて日本国民は、日本人は世界から認められる。
もうすぐ終わる僕らの遺す言葉は、そして行動は?
知古創新
Posted by 昭和24歳
at 08:44
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