2018年04月01日

絶メン!!

絶メン!!
絶メン!!

昭和22年、23年、24年、その3年間の合計出生数は約806万人にのぼる(厚生労働省の統計)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%A1%8A%E3%81%AE%E4%B8%96%E4%BB%A3
どうやら、昭和20年、21年は戦後の混乱で役場も統計どころではなかったようです。

で、コレ↓
絶メン!!

つまり団塊世代は「絶滅危惧種」。

現役世代の皆さん、まあ、遅くとも30年以内には「団塊世代」キレイに消滅します。

けど、そしたら「団塊Jr」が絶滅危惧種になりますね。今の40歳前後。

確かにいました戦後の混乱期、ま、社会保障がどうしたとかこうしたとかっていう時代じゃあないですから(笑)。

ある意味悲惨でしたね、いわゆる、今で言う弱者。

まあ、うちの母ちゃん、オヤジにしたって人のことかまってられる余裕なんてないし・・・・・

自分たちが食べていくだけで精一杯だったわけです。

「押し売り」も来ました。なにせモノのない時代でしたからゴムひもとか、ロウソクとか、よく停電あったしね(笑)。

で、八百屋は引き売、豆腐屋は流し、納豆売のオバさんもいました。

もちろん、肉なんてない。東小のところの寺田の肉屋、もっぱら5円のコロッケでしたね。

オヤジに給料が入ったんでしょう、そんなときはトンカツで、寺田のハイカラな茶髪のオバさん、当時では「絶ウーマン」。

ヘギに包んだとんかつにはキャベツの千切りがてんこ盛りに。

ま、冷蔵庫なんてない時代ですから、その日に食べるものはその日に買い出しに行く・・・・・・

北通町には煮豆や、たしか「丸井」とか言ったと思う、で魚はどういうわけか近所の持田じゃあなくて九蔵町の「柏屋」。

って言うのもオヤジが静岡、沼津の出身だったので、魚にはうるさかったらしくて、持田より柏屋だっていうことになったらしい。

で、ま、食管法どころか米穀台帳の時代だったので、米屋が横丁に4、5軒はあった。

有間屋米穀店、長井米穀店、浦野米穀店、田角米穀店、たしか田角のトイメンにも米屋があったような、お名前は失念したが。

八百屋も、豆腐屋も酒屋も塩が専売だったので塩屋もあったなぁ、たしか堀越とかだったような・・・・・

で、文房具屋、竹田があって、ドジョウ屋があって、うなぎ屋もあったねぇ。

まあそれもこれも「絶ミセ」、横丁そのものが「ショッピングモール」だったね。

本町3丁目のフードセンターなんてそれこそ、学校の遠足の時くらいしか行ったことがなかった。

で、フードセンターでチューインガムを買ってもらって、チューブに入ったチョコレートをねだって、あとは佐久間のドロップ(笑)。

ま、そのほとんどが今では「絶」ですね。

そんなわけで、色気づいて、エレキバンドなんかやっちゃって、気がついたら俺らが「絶メン」でした。

で、今、新聞じゃあ30年後がどうしたこうしたとか言ってるんだが、そんなこたァ知らねぇよです。

絶メン!!



Posted by 昭和24歳  at 18:53 │Comments(0)

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