2017年11月27日
エレキの行商(NAMM全米楽器ショー)
エレキの行商(NAMM全米楽器ショー)
<1977年1月22日>

<アナハイム・コンベンションセンター(1977年)>
昭和52年1月、僕は仕事を兼ねて初めてのアメリカ旅行をした。
キャリアはできるだけ安いやつをと「ヴァリグブラジル航空」の往路はホノルルで入管、復路はアンカレッジ経由の小さなボーイング(^^ゞ
なにせ1ドル360円と、そんな超円安の時代だったし(笑)。
それでも、LAXをRTで16万円、もちろんFIXで。まだ成田のない時代だったので羽田からホノルル経由LAXまで14時間。
まあ、復路では真冬のアンカレッジが楽しめたので、といっても真夜中だったけど(^^ゞ
で、LAXに到着するとグレイハウンドでアナハイムへ直行、ホテルは3日間ディズニーランド近くのホリデー・インへ。
まあ、リーズナブルとは言っても40ドルはしたと思う14000円くらい・・・・・・
で、10日間滞在予定だったので、あとは友人の紹介でいわゆる、アメリカ遊学中の日本人がシェアするコンドミニアムへ一泊20ドルでお世話になった。

<1977年当時のディズニーランド>
で、LAでの全米楽器ショー、通称「NAMM」と言われているコンベンション。
「ウィンター・ナム」とも言われ、
当時は夏「サマーナム」はシカゴだったりダラスだったりアトランタだったりで開催されていた。
「全米楽器ショー」だが、世界中からバイヤーが集まる・・・・・
僕が初めて行った「NAMM」は1977年はなんといってもそこでの超目玉は、
“YAMAHA DX-7”発売発表という電子楽器の幕開けとでも言おうか、とにかくセンセーショナルなコンベンションだった。
まっ、なにせ1ドルが360円と、そんな時代だったし、当時はアメリカのメーカーも新製品の開発競争真っ只中で、
それまでは日本の楽器商社はそんな新製品をいち早く販売権を取ろうと鵜の目鷹の目・・・・・
そんな商社の社長に誘われてのNAMMショー行だった。
で、アメリカでその商社の社長さんのエージェントをやっていたのが僕の昔のバンド仲間のジョー。
で、ジョーは当時はLA在住で、日本向けの輸出でかなり稼いでいた。
その時の「NAMM」で彼が販売権を獲得したのが“MXR”と“シモンズ”のエレドラ・・・・・
そして、エレキギター弦のGHSとか、PUのディマジオだった。
で、そこで彼が温めたのが初めてNAMMにブースを出展した“SCHECTER”という、
エレキギター界に「コンポーネント」という概念を生み出した新進気鋭のエンジニヤの“デヴィッド・シェクター”。
僕と同い年だったから27歳の彼はLAから25マイルほどのヴァンナイイズ市に工房を構え・・・・・
フェンダー、ギブソン、リッケンバッカー等々のリプレイスメントパーツの開発製造に邁進していた。
それはこれまでのエレキ・ギターのスタイルを革新するものだった。
その後全米で“SCHECTER”は多くのユーザーの支持を得る。まあ、ミュージックシーンとしては一つのトレンドは終焉していたのだった。
その“SCHECTER”のリプレイスメントパーツは「ジェフ・ベック」や「リッチー・ブラックモア」などの一流ミュージシャンに使われガレージメーカーから一躍トップパーツメーカーへと変身した。
まあ、その後紆余曲折で今日なんだろうが1977年の“NAMM”はとにかくセンセーショナルなコンベンションだった。
僕はそんな“NAMM”の合間を縫ってサンフランシスコへ一泊で遊びに行った。
LAからは丁度、東京大阪くらいの距離だろうか、飛行機で小一時間でサンフランシスコのは着いた。
行き当たりばったりのサンフランシスコ・・・・・
ホテルはチャイナタウンの近くに取り、日長、ケーブルカーに楽器屋巡りにと結構楽しんだ。

<ケーブルカーからサンフランシスコ湾を望む>
僕はサンフランシスコのダウンタウンのギターショップで中古の「レスポール」のゴールドトップを買った。
無茶苦茶重たい奴だったが。たしか400ドル(15万円)くらいだったと思う。
それでも日本で買えば中古でも三十万円近くはしただろう代物だった。
僕はそのレスポールを抱えてゴールデンゲートブリッジの袂にあるフィッシャーマンズワーフに行った。
やっと夢がかなったと思うと小躍りしたいくらいに気持ちが高ぶった。
その夢とは、ゴールデンゲートブリッジのところで・・・・・
♪アイ・レフト・マイハート・・・イン・サンフランシスコ♪
と、歌うこと!!
僕はそのレスポールをケースから取り出すと僕はネックに耳を当てながらそう、呟くように唄った。
フィッシャーマンズワーフ名物の茹でたてのクラブを頬張りながら。
つづく・・・・・
エレキの行商(NAMM全米楽器ショー)
<1977年1月22日>
<1977年1月22日>

<アナハイム・コンベンションセンター(1977年)>
昭和52年1月、僕は仕事を兼ねて初めてのアメリカ旅行をした。
キャリアはできるだけ安いやつをと「ヴァリグブラジル航空」の往路はホノルルで入管、復路はアンカレッジ経由の小さなボーイング(^^ゞ
なにせ1ドル360円と、そんな超円安の時代だったし(笑)。
それでも、LAXをRTで16万円、もちろんFIXで。まだ成田のない時代だったので羽田からホノルル経由LAXまで14時間。
まあ、復路では真冬のアンカレッジが楽しめたので、といっても真夜中だったけど(^^ゞ
で、LAXに到着するとグレイハウンドでアナハイムへ直行、ホテルは3日間ディズニーランド近くのホリデー・インへ。
まあ、リーズナブルとは言っても40ドルはしたと思う14000円くらい・・・・・・
で、10日間滞在予定だったので、あとは友人の紹介でいわゆる、アメリカ遊学中の日本人がシェアするコンドミニアムへ一泊20ドルでお世話になった。

<1977年当時のディズニーランド>
で、LAでの全米楽器ショー、通称「NAMM」と言われているコンベンション。
「ウィンター・ナム」とも言われ、
当時は夏「サマーナム」はシカゴだったりダラスだったりアトランタだったりで開催されていた。
「全米楽器ショー」だが、世界中からバイヤーが集まる・・・・・
僕が初めて行った「NAMM」は1977年はなんといってもそこでの超目玉は、
“YAMAHA DX-7”発売発表という電子楽器の幕開けとでも言おうか、とにかくセンセーショナルなコンベンションだった。
まっ、なにせ1ドルが360円と、そんな時代だったし、当時はアメリカのメーカーも新製品の開発競争真っ只中で、
それまでは日本の楽器商社はそんな新製品をいち早く販売権を取ろうと鵜の目鷹の目・・・・・
そんな商社の社長に誘われてのNAMMショー行だった。
で、アメリカでその商社の社長さんのエージェントをやっていたのが僕の昔のバンド仲間のジョー。
で、ジョーは当時はLA在住で、日本向けの輸出でかなり稼いでいた。
その時の「NAMM」で彼が販売権を獲得したのが“MXR”と“シモンズ”のエレドラ・・・・・
そして、エレキギター弦のGHSとか、PUのディマジオだった。
で、そこで彼が温めたのが初めてNAMMにブースを出展した“SCHECTER”という、
エレキギター界に「コンポーネント」という概念を生み出した新進気鋭のエンジニヤの“デヴィッド・シェクター”。
僕と同い年だったから27歳の彼はLAから25マイルほどのヴァンナイイズ市に工房を構え・・・・・
フェンダー、ギブソン、リッケンバッカー等々のリプレイスメントパーツの開発製造に邁進していた。
それはこれまでのエレキ・ギターのスタイルを革新するものだった。
その後全米で“SCHECTER”は多くのユーザーの支持を得る。まあ、ミュージックシーンとしては一つのトレンドは終焉していたのだった。
その“SCHECTER”のリプレイスメントパーツは「ジェフ・ベック」や「リッチー・ブラックモア」などの一流ミュージシャンに使われガレージメーカーから一躍トップパーツメーカーへと変身した。
まあ、その後紆余曲折で今日なんだろうが1977年の“NAMM”はとにかくセンセーショナルなコンベンションだった。
僕はそんな“NAMM”の合間を縫ってサンフランシスコへ一泊で遊びに行った。
LAからは丁度、東京大阪くらいの距離だろうか、飛行機で小一時間でサンフランシスコのは着いた。
行き当たりばったりのサンフランシスコ・・・・・
ホテルはチャイナタウンの近くに取り、日長、ケーブルカーに楽器屋巡りにと結構楽しんだ。

<ケーブルカーからサンフランシスコ湾を望む>
僕はサンフランシスコのダウンタウンのギターショップで中古の「レスポール」のゴールドトップを買った。
無茶苦茶重たい奴だったが。たしか400ドル(15万円)くらいだったと思う。
それでも日本で買えば中古でも三十万円近くはしただろう代物だった。
僕はそのレスポールを抱えてゴールデンゲートブリッジの袂にあるフィッシャーマンズワーフに行った。
やっと夢がかなったと思うと小躍りしたいくらいに気持ちが高ぶった。
その夢とは、ゴールデンゲートブリッジのところで・・・・・
♪アイ・レフト・マイハート・・・イン・サンフランシスコ♪
と、歌うこと!!
僕はそのレスポールをケースから取り出すと僕はネックに耳を当てながらそう、呟くように唄った。
フィッシャーマンズワーフ名物の茹でたてのクラブを頬張りながら。
つづく・・・・・
エレキの行商(NAMM全米楽器ショー)
<1977年1月22日>
Posted by 昭和24歳
at 16:09
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