2017年07月14日

昭和青春譜「僕のファースト喫茶店」

昭和青春譜「僕のファースト喫茶店」
昭和青春譜「僕のファースト喫茶店」
↑迷道院高崎様より無断拝借してしまいましたm(_ _)m
http://inkyo.gunmablog.net/e374148.html
「すみれ」ってあるの、今の「すみれ食堂」?
で、少し行ったところが「成吉思汗」?


さて・・・・・僕のファースト喫茶店は何時のことだろう。

多分、エレキバンドの仲間と行ったオシャレデパートのとこの「ナポリ」か?

否そうではない。昭和40年も明けたばかりの頃恐る恐る、胸を高鳴らせ始めて入ったのが本町三丁目の「あすなろ」ではなかったろうか。
たしか、やはりエレキバンドの先輩に連れて行ってもらったような記憶がある。
しばらくしてそこは朝鮮飯店になり昭和50年代の半ばころまで営業していたように記憶している。

その「あすなろ」はもうひとつ、鞘町の学陽書房の隣あたりに映画館と並んであった。
何でもその「あすなろ」はクラシックを専門に聴かせる「音楽喫茶」で、リスニングルームも確かあったのではなかっただろうか。
本町三丁目のそれとは大分趣を異にしていてアカデミックというか、当時の高崎、知識人のたまり場だったような。

さて、その「あすなろ」だが、そこ「あすなろ」では群響の楽団員の人たちがコンサートをやっていた。
まあ僕の場合はクラシック、交響楽と言った高尚な音楽芸術はチンプンカンプンの下々・・・・・
なにせ、その頃の僕ときたらは「エレキ」に夢中でその「あすなろ」へ誰と行ったのか、いや、誰に連れて行ってもらったのかさえ全く憶えていないが、ただ、一、二度、入ったような気がするだけだ。

僕はもっぱらその手前、うなぎの「銀直」の隣辺りの、床屋の二階の喫茶「コンパル」だった。
エレキバンドで出演していたダンスホール「みゆき」の休憩時間にはいつもメンバーとそのコンパルへはよく通った。昭和43年春も宵。

そうだ、連雀町だったかの噴水のある「喫茶ローマ」というのがあった。

そこには早い時期、昭和40年頃から高経のワイアンやらウエスタン、フォークソングをやるバンド演奏をやっていた。
うなぎの寝床のような間口2軒ほどの細長い店だったがその一番奥まったところにステージのようなものがあったように憶えてる。
そうした意味では古きよき時代だったのかもしれない。


あの頃の喫茶店

駅前の「喫茶うえの」・・・カウンターだけの小さな喫茶店。その隣には「キングバー」なんていうのもあった。
そしてロータリーの所には、「喫茶ブリッジ」。今のワシントンホテル裏の路地にはジャズを専門に聴かせる「モーニン」なんて言うのも。

そうだ、八間道路の「喫茶もりえ」・・・ここは喫茶店としてはかなり古くからあった。
僕が小学校4年の時から在って、同級生、藤木君のお母さんがやっていて、どう言う訳か「アベック」と言う徒名藤木君を囃した覚えがある。
兎に角その時代、「喫茶店」と言うと、「アベック」を連想させたから今にして思うと可笑しい。
そう、その喫茶「もりえ」は八間道路のそこにまるでタイムスリップさせるかのようにあの頃のまま佇まう・・・・・

あの頃は「同伴喫茶」なるものも流行った。
まだ町には車などそうは走ってはいない時代だったし、流行かどうかは知らないが僕らが色気づいた頃は「連込み」。
いわゆる「さかさくらげ」と言うやつだったが、まだ僕らはその「連込み」に入る歳ではなかった。ませた同級生や先輩から話を聞くのが精々で。
もっぱら僕らは「キャンドル」、「キャメル」、「マーセル」など等と、若い男女の秘め事に重宝させてもらっていたようだ・・・・・
チョイト気恥ずかしいが、誰にもある昭和青春譜とよしなに(笑)。

話は変るが、実は僕は「珈琲」とやらが全く駄目。今まで正直な所そのコーヒーとやらを「飲んだ」と言う記憶はない。
今まで一切口につけたことがないわけではないが一応にその珈琲をご遠慮している・・・なぜか判らないが。
あの「珈琲」の香は嫌いではないのだが(好きではない)、仕方なしに飲まされると胸焼けが酷いのには閉口する。
ついでに、「タバコ」も生れてこの方吸ったことがない。もちろん、未成年の時は特訓をしたがその成果はなかった。
アルコールはその限りではないが・・・・・

「喫茶店」と言えば・・・もう昔からのそれはあまり見られない。あまりと言うかほとんどなくなっているのではないか。
一時隆盛を極めた、喫茶「いわと」、さきの名曲喫茶「あすなろ」・・・・・
今も昔をしのばせるのは柳通りの「ゲレンデ」くらいと思っていたが数年前に店は閉められていた。
その「ゲレンデ」は昭和40年代の中頃からだろうか、 マスターが中々の男前で「お水」のお姉さん達の憩いの場であったようだ。

僕がニュージャパンでドラムを叩いていた頃はもっぱらお堀端の喫茶「プリンス」か、その同伴喫茶の「キャンドル」。
その「キャンドル」、二階席が同伴専用席になっていた。昭和40年代、高崎最後の「同伴喫茶」ではなかったかと。
昭和47年頃はモータリゼーションか騒がれ始め既に「同伴喫茶」の趣も薄れ、店によってはスナック喫茶風に趣を変えていった。

柳川町のど真ん中には「スクール」なんて言う喫茶、田町通りの喫茶「アラスカ」、新町の「くらくら」、今のさやモールの「コンパル」など。
そうだ、その「コンパル」なんだが、今も現役で営業中とのこと、一度寄らせてもらいたいとも。

さて、これで高崎駅前「オーパ」ができて高崎の昭和青春譜というよりは「平成青春譜」だろうか・・・・・
すでに平成も30年になろうとしている今日、その元年生まれも30歳。彼らの青春譜は?

昭和青春譜「僕のファースト喫茶店」



Posted by 昭和24歳  at 11:11 │Comments(0)

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