2017年01月05日
グアム島「行商紀行」
グアム島「行商紀行」

「マリファナを吸ってなぜ悪いんだ」煙に誘われ、僕は退屈な日本にサヨナラを告げた。タイ北部の秘境「黄金の三角地帯」、ヒッピー世界三大聖地のひとつネパールのカトマンズ、激しい内戦下のトルコ…。行く先々で手に入れた多種多様なドラッグがもたらす幻想と出会い。十九歳の初体験以来、放浪を続けた青春の旅行記、アジア・中近東編。
まあ、ぼくら世代、団塊世代とか。
いろんな奴がいましたっけ。
で、今じゃ、爺さんになっちゃって・・・・・・
世界は面白い・・・・・
まあ世界とはいっても僕なんざぁ、香港と韓国と、アメリカ西海岸とシカゴくらいだが・・・・・
音楽仲間は実に愉快な連中がいっぱいいた。
未だ独身の頃だが所謂「ヒッピー」というのが流行っていた頃のことだ。
既にベトナム戦争は終わり、学生運動も拍子抜けした頃のことでその矛先は「成田闘争」へと向かっていた、そんな時代。
「グァムで商売になるぜ」
と、バンド仲間の米国籍(華僑)ジョーが言った・・・・・
その商売になるってぇのは、要するにグァム島に日本の「ヒッピー商品」を卸すのだという。
実はその頃は70年代も半ば、ロックもだいぶ下火になっちゃって、僕らは拠点を恵比寿と軽井沢に移し、恵比寿で革工房を開いていたチョットした売れっ子の革工芸家でイタリア帰りだとか言っていた杉本君。
その杉本君が軽井沢で夏場、革工芸ショップをオープンするというのでそれを手伝うことになった。
あの時代、昭和47年当時の軽井沢は、金持ちの集まりでベンツなんて言うのは高級車じゃあない、ロールスロイスとか、ベントレーとかが旧軽を行き交っていた。
そういやあ、ジーパンの古着屋をやってたやつとか、まあ、同世代小生意気な奴も結構いた。もっとも僕もそんな若造の一人だったんだが。
若造とはいっても既に24歳になっていて、自分では、いっぱしのつもりでいた。今思うとお恥ずかしい。
杉本君、あの時代、軽井沢でひとシーズン2、3坪の店を借りて家賃40万くらいだっただろうか。
とにかく極楽トンボの青春、最後のそんな時代だった。で、ひと夏の商売を終えて恵比寿に戻ると思わぬ話が持ち上がって、スポンサーまでついちゃって「グアム島で行商しないか」と。
そんなこんなで12月のクリスマスシーズンを前に浅草橋、横山町で子供だましのアクセサリーを50万ほど仕入れてグァム島に持込むことになった。
その子供だましのアクセサリーをグァム島の商店にセールスして歩く。宿は第一ホテルだった。
グァム島にはなぜか、インド人の商店主が一番多かった。その次が、華僑、そして韓国人。
で、グァム島には周りの島々からクリスマスの頃ともなるとその商店主が仕入れにくるのだそうだ。
持込んだ商品は二日ばっかりで全て売れたしまった。聞けば、インド人は無茶苦茶商売上手だという・・・・・
そう言えば、香港でもインド人の商店主は多かった。
まあ、インド人とはいっても、あの手の顔は僕なんかはみんなインド人に見えてしまうからそれが正真正銘のインド人であるかどうかは定かではない。
そこで知り合った、香港人に・・・・・
「今度その商品香港へ持ってこないか」
と、誘われた。
根っからの極楽トンボの僕は、すっかりインチキ貿易商を気取ってしまっていた。
12月初め、雨季にさしかかったグァム島は雨ばかり、それも日本でいえば台風のような雨。スコールとか。
それに海にはナマコの大群で、とてもじゃあないが遊ぶどこではなかった。
もっともその頃のグァムは未だ、信号がひとつもないといったようなところで、72年、恥ずかしながら復員した横井庄一さんの洞穴を見学したくらいか(笑)。
つい1年半前ほどの「日本兵発見」の話でもちきりの頃だった。
翌年、グァム島で知り合った香港人を香港島のワンチャイに訪ねた。もちろん注文の品物をしこたま持って。
なんだい・・・・・貿易商を気取ったつもりが、ただのカツギ屋だったってえ分け、恥ずかしながら。
飛行機の中では観光で香港に行く日本の「ノーキョー」さん、僕への興味本位の眼差し。
もっとも僕はいっぱしの貿易商人のつもりだったから結構態度がでかかったのかもしれない(笑)。
よく考えたら、髪の毛ぼさぼさ(流行のロン毛)にTシャツ、穴だらけのジーパン。
実のところはよほど奇天烈に見えたのかもしれない。
パックツアー大盛況の頃で、200キロほどの手荷物も団体に潜り込んで超過料金、オーバーウエイトチャージなし。
旅行会社(近鉄)の添乗員に袖に下を渡して。そう、当時はちょうどニクソンショックから3年ほど、1ドルが300円ほどだっただろうか。
対円、香港ドルが54円くらいだった。
軽井沢の売れ残り商品をかき集めて、香港で卸す。あそこもインドネシア、マレーシア等の商人が香港へ仕入れにくる。
その香港人のワンチャイのお店、超高層ビルの一階に。入口の看板には「日本時装」と書かれている。
所謂、日本の流行ファッションブティックといったところだろうか。
一年中が真夏の国の東南アジアだ、日本のサマーバーゲン商品は大好評だった。
ちょうど、原宿、竹下通りが流行りだした頃。
日本製、出来はしっかりしているし、ファッションセンスもいい。
モノは瞬く間に売れた・・・・・・
で、その売り上げで、エレキとかを並行輸入、まあ、これも担ぎ屋(笑)。
そんな「担ぎ屋商法」、3年ほど続いただろうか。しかし1ドルが200円を切りそうになり、香港ドルが28円になった頃。
商売にはならなくなった。つまり「円高」で、輸出していては損が出てしまうからだった。
まあ、次第の円高でフェンダーとかギブソンとかの「エレキの仕入れ」には好条件だったが儲けは「日本時装」のようなわけにはいかなかった。
まあ、そうこうする内に、「お水系」のバンドの仕事が忙しくなり、それとと、同時に、アメリカに帰っちゃったバンド仲間から「エレキメーカー」の話が。
井の中の日本人、大海を知らず。
まさにそのままの僕。
いや、知らないから出来ている。
知っていたら臆病風が先に吹いてそんな経験も出来なかっただろう。
僕は、娘たちにも言っている・・・一度だけの自分の人生。少しくらいの貧乏は気の持ちようだ。
思いっきり生きろって。
みんなそうしてる・・・・・
まあ、末娘も親がカネがないことを承知の上で大学半年休学しモンタナ州の国立公園でワーキング留学。
その時代その時代、思いっきり生きる。思いっきり生きれば、まず横道にそれることはない。
井の中の蛙だろうが、井に中の「蛙掛け」が勝負のしどころかな(笑)。
万事塞翁が馬。そう、今まさに「塞翁が馬」なのだろう・・・・・・
グアム島「行商紀行」

「マリファナを吸ってなぜ悪いんだ」煙に誘われ、僕は退屈な日本にサヨナラを告げた。タイ北部の秘境「黄金の三角地帯」、ヒッピー世界三大聖地のひとつネパールのカトマンズ、激しい内戦下のトルコ…。行く先々で手に入れた多種多様なドラッグがもたらす幻想と出会い。十九歳の初体験以来、放浪を続けた青春の旅行記、アジア・中近東編。
まあ、ぼくら世代、団塊世代とか。
いろんな奴がいましたっけ。
で、今じゃ、爺さんになっちゃって・・・・・・
世界は面白い・・・・・
まあ世界とはいっても僕なんざぁ、香港と韓国と、アメリカ西海岸とシカゴくらいだが・・・・・
音楽仲間は実に愉快な連中がいっぱいいた。
未だ独身の頃だが所謂「ヒッピー」というのが流行っていた頃のことだ。
既にベトナム戦争は終わり、学生運動も拍子抜けした頃のことでその矛先は「成田闘争」へと向かっていた、そんな時代。
「グァムで商売になるぜ」
と、バンド仲間の米国籍(華僑)ジョーが言った・・・・・
その商売になるってぇのは、要するにグァム島に日本の「ヒッピー商品」を卸すのだという。
実はその頃は70年代も半ば、ロックもだいぶ下火になっちゃって、僕らは拠点を恵比寿と軽井沢に移し、恵比寿で革工房を開いていたチョットした売れっ子の革工芸家でイタリア帰りだとか言っていた杉本君。
その杉本君が軽井沢で夏場、革工芸ショップをオープンするというのでそれを手伝うことになった。
あの時代、昭和47年当時の軽井沢は、金持ちの集まりでベンツなんて言うのは高級車じゃあない、ロールスロイスとか、ベントレーとかが旧軽を行き交っていた。
そういやあ、ジーパンの古着屋をやってたやつとか、まあ、同世代小生意気な奴も結構いた。もっとも僕もそんな若造の一人だったんだが。
若造とはいっても既に24歳になっていて、自分では、いっぱしのつもりでいた。今思うとお恥ずかしい。
杉本君、あの時代、軽井沢でひとシーズン2、3坪の店を借りて家賃40万くらいだっただろうか。
とにかく極楽トンボの青春、最後のそんな時代だった。で、ひと夏の商売を終えて恵比寿に戻ると思わぬ話が持ち上がって、スポンサーまでついちゃって「グアム島で行商しないか」と。
そんなこんなで12月のクリスマスシーズンを前に浅草橋、横山町で子供だましのアクセサリーを50万ほど仕入れてグァム島に持込むことになった。
その子供だましのアクセサリーをグァム島の商店にセールスして歩く。宿は第一ホテルだった。
グァム島にはなぜか、インド人の商店主が一番多かった。その次が、華僑、そして韓国人。
で、グァム島には周りの島々からクリスマスの頃ともなるとその商店主が仕入れにくるのだそうだ。
持込んだ商品は二日ばっかりで全て売れたしまった。聞けば、インド人は無茶苦茶商売上手だという・・・・・
そう言えば、香港でもインド人の商店主は多かった。
まあ、インド人とはいっても、あの手の顔は僕なんかはみんなインド人に見えてしまうからそれが正真正銘のインド人であるかどうかは定かではない。
そこで知り合った、香港人に・・・・・
「今度その商品香港へ持ってこないか」
と、誘われた。
根っからの極楽トンボの僕は、すっかりインチキ貿易商を気取ってしまっていた。
12月初め、雨季にさしかかったグァム島は雨ばかり、それも日本でいえば台風のような雨。スコールとか。
それに海にはナマコの大群で、とてもじゃあないが遊ぶどこではなかった。
もっともその頃のグァムは未だ、信号がひとつもないといったようなところで、72年、恥ずかしながら復員した横井庄一さんの洞穴を見学したくらいか(笑)。
つい1年半前ほどの「日本兵発見」の話でもちきりの頃だった。
翌年、グァム島で知り合った香港人を香港島のワンチャイに訪ねた。もちろん注文の品物をしこたま持って。
なんだい・・・・・貿易商を気取ったつもりが、ただのカツギ屋だったってえ分け、恥ずかしながら。
飛行機の中では観光で香港に行く日本の「ノーキョー」さん、僕への興味本位の眼差し。
もっとも僕はいっぱしの貿易商人のつもりだったから結構態度がでかかったのかもしれない(笑)。
よく考えたら、髪の毛ぼさぼさ(流行のロン毛)にTシャツ、穴だらけのジーパン。
実のところはよほど奇天烈に見えたのかもしれない。
パックツアー大盛況の頃で、200キロほどの手荷物も団体に潜り込んで超過料金、オーバーウエイトチャージなし。
旅行会社(近鉄)の添乗員に袖に下を渡して。そう、当時はちょうどニクソンショックから3年ほど、1ドルが300円ほどだっただろうか。
対円、香港ドルが54円くらいだった。
軽井沢の売れ残り商品をかき集めて、香港で卸す。あそこもインドネシア、マレーシア等の商人が香港へ仕入れにくる。
その香港人のワンチャイのお店、超高層ビルの一階に。入口の看板には「日本時装」と書かれている。
所謂、日本の流行ファッションブティックといったところだろうか。
一年中が真夏の国の東南アジアだ、日本のサマーバーゲン商品は大好評だった。
ちょうど、原宿、竹下通りが流行りだした頃。
日本製、出来はしっかりしているし、ファッションセンスもいい。
モノは瞬く間に売れた・・・・・・
で、その売り上げで、エレキとかを並行輸入、まあ、これも担ぎ屋(笑)。
そんな「担ぎ屋商法」、3年ほど続いただろうか。しかし1ドルが200円を切りそうになり、香港ドルが28円になった頃。
商売にはならなくなった。つまり「円高」で、輸出していては損が出てしまうからだった。
まあ、次第の円高でフェンダーとかギブソンとかの「エレキの仕入れ」には好条件だったが儲けは「日本時装」のようなわけにはいかなかった。
まあ、そうこうする内に、「お水系」のバンドの仕事が忙しくなり、それとと、同時に、アメリカに帰っちゃったバンド仲間から「エレキメーカー」の話が。
井の中の日本人、大海を知らず。
まさにそのままの僕。
いや、知らないから出来ている。
知っていたら臆病風が先に吹いてそんな経験も出来なかっただろう。
僕は、娘たちにも言っている・・・一度だけの自分の人生。少しくらいの貧乏は気の持ちようだ。
思いっきり生きろって。
みんなそうしてる・・・・・
まあ、末娘も親がカネがないことを承知の上で大学半年休学しモンタナ州の国立公園でワーキング留学。
その時代その時代、思いっきり生きる。思いっきり生きれば、まず横道にそれることはない。
井の中の蛙だろうが、井に中の「蛙掛け」が勝負のしどころかな(笑)。
万事塞翁が馬。そう、今まさに「塞翁が馬」なのだろう・・・・・・
グアム島「行商紀行」
Posted by 昭和24歳
at 14:53
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