2016年10月04日

団塊世代「青春の光と影」(渋谷ジャンジャン)

団塊世代「青春の光と影」(渋谷ジャンジャン)
団塊世代「青春の光と影」(渋谷ジャンジャン)

新井薬師

 僕は、帝京大学に通う高校時代の友人「宮田」を頼って「聖蹟桜ヶ丘」の宮田の下宿にひとまず居候を決めた。しかし一週間もしないうちに結局、そいつの親父というのが下宿にやってきて息子の学業の邪魔になるから他所に行ってくれないか―――と。
 しかし僕も、身勝手な話だとは思ったが無遠慮に僕の事情を話した。

「そうか、しかし、君には悪いが息子との同居止めてくれないか。その代わりと云ってはなんだが新井薬師の知り合いのアパートを世話するよ」。

「分かりました」

「悪いなぁ・・・・・」

 宮田はは申し訳なさそうに僕に言ったが、別に僕はそんな事はどうでも良かった、それよりも早々に塒を落着けて「音楽修行」になんとしてでも道筋をつけたかった。
 宮田の親父は元々軍医で防衛庁の病院に勤務をする傍ら「帝京大学」の医学部講師をしていた。
 宮田も一八〇センチを有に超える大男だが、親父さんも「デカイ」。兄貴も姉さんも「デカイ」。巨人一族であった。何でもお祖父さんも「デカ」かったそうである。宮田家は群馬町の旧家で一家揃って一風変わっていて世俗的ではなかった。
 僕は親父さんにその場で西武新宿線「新井薬師」のアパートの地図を書いてもらうと早速宮田の下宿を後にした。

 西武新宿線の新井薬師のアパートはその年の春まで宮田の兄貴が暮らしていた。何でも宮田の兄貴、年は宮田、僕等より8つ上なのだが二浪して早稲田に入り、大学院で卒業したのが30歳くらいだったと宮田が云っていた。
「道具、みんな使っていいから。家賃だけ、7,500円払ってね」
と親父さんから言われていたので〈まあ、寝られればいいか〉くらいで、親父さんに書いてもらった地図と預かった鍵を手に道順を辿った。

 アパートは新井薬師の駅から歩いて4、5分の所だった2階建てで階段を上ると廊下を挟んで部屋が3部屋づつ並ぶ。便所は共同、当時としては当り前で今のような「マンション」のマの字も無かった時代だった。道具とは云っても多少の食器とガスコンロに布団一式くらいだったがその時の僕には充分すぎるほどの設備だた。
 部屋は薄暗い階段を上がって二回の奥まった「1K」。もちろん陽など当たるはずも無い、今にして思えば当時流行り、都会の「アパート暮らし」。それでも膨らんだ夢がそんな生活空間をも楽しませてくれた。
 もちろん「音楽修行」とは云うものの別に当てがあるわけでもなかった。今のように「ライブハウス」とやらがそこいら中にあるわけでもなく、ましてやひとつの「ブーム」が去ったあとでそれまでの音楽シーンの盛り上がりは何処にも無かった。
 結局、僕はつまるところアルバイトの明け暮れ。新宿南口に集合する「夜勤」のバイト。それは川崎の工業団地で夜食、朝食付きで2700円くらいだっただろうか、結構なバイトだった。

 当時は、オイルショック真っ盛り、かと云って高度成長も頂点を極める時代で高田馬場公園、戸山公園辺りの「地下鉄工事人足」あたりも、夕方黒山に集まるもののあっという間にマイクロバスで闇に消えていった。地下鉄工事の徹夜はバイト料はいいけど「キツイ」。それに下手に怪我でもしたら「バンド」どころではなくなるので、新宿南口「清涼飲料」のビンの再生工場の検品のアルバイトで糊口を凌いだと云うわけである。そんなある日、そこで一緒にバイトをしていた「岩手」盛岡か「デザイナー修行に東京へ来たと云うやつが・・・・
「陸送のいいバイトがあるから一緒に面接に行かない」と誘ってきた。

陸送のアルバイト

 やはり川崎である。「三菱ふそう」のトラックを全国各地の販売店に「陸送」する仕事。

「う~ん。俺、バンドの練習あるしな」

 実はバンドの練習などはなかったのだが、そのつもりでの「東京生活」。なにも普通の生活をするために出てきたのではないのだし、ただ秋に「渋谷ジャンジャン」のオーディションを申し込んでるだけでそのための「練習」だけだが。

 陸送のバイト、一切拘束なしで行ける日に出て行って配車を貰う。

 バイトも決まって久しぶりに宮田と飯を食った。飯とは言っても僕のお気に入りの新井薬師駅の「やきそば」。これが美味いのなんのって、今でいえばB級グルメ五つ星(笑)。大盛りのそれを食い終わる頃宮田が言った・・・・・

「トラックって、大型だろ」

「いやっ、4トン半だって。大阪の寝屋川って云うとこが一番多いらしいけど、帰りの新幹線代と、日当込みで1万7千円だって云うよ」

 なんでもその他、本州、道続きは何処へでも行くって云う。結局、面接に行って免許証を見せて連絡先は電話が無ければ駄目だと云うので高崎の実家に住所を移して。
 その陸送のアルバイトで、青森、秋田、盛岡、仙台、郡山、山形、新潟、北陸から関西近畿、広島、島根間で行った。「オイルショックの」最中、高速道も「阪神」まで、その先の山陽道は未開通で、燃料を途中給油するにも「行列」のありさま。しかし帰りは飛行機…兎に角忙しくて忙しくて、戻れば直ぐに次の配車が待っている状態。稼ぎにはなったがこれでは「音楽修行」がと、悩んでいる所だった。
 そんな時たまたま、高崎の「ふそう」への配車があった。

「すみません。1週間ばかり休みますが」

「なんだよ、しょうがねえな。後はちゃんと出てこいよ」

 この仕事、結構なお金になるので旅費と日当もらうとそのまま来なくなっちゃうやつが結構いたらしい。
 千代田陸送株式会社。それは「三菱ふそう川崎工場」の中にあった。配車係の親父さんはべらんめい調で一日中怒っているご様子。あの頃は兎に角トラックが売れた時代で全国各地の販売店から矢の催促だったようだ。
 僕も北海道、九州までは行かなかったが、北は青森、をはじめに東北六県、西は広島、松江、徳島の中国四国で、近場の関東地域は何故かあまり配車されなかった。
 そんな時、高崎の倉賀野にある「ふそう」への配車があったので、車を届ける前に僕は高崎の隣町、「堀口三兄弟」のいる群馬町井出の「堀口機械」へと向かった。

団塊世代「青春の光と影」(渋谷ジャンジャン)



Posted by 昭和24歳  at 11:56 │Comments(0)

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