2016年02月08日
赤羽楽器閉店セール100年の歴史に幕
赤羽楽器閉店セール100年の歴史に幕

↑赤羽楽器主催の「勝ち抜きエレキ合戦」
於:群馬音楽センター
BOOWY、かまちも通った赤羽楽器 月末に閉店 高崎
1912(大正元)年創業の老舗楽器店「赤羽楽器」(高崎市あら町)が2月末で閉店する。3代目社長の赤羽正幸さん(73)が体調不良と後継者不在を理由に決断した。伝説のロックバンド「BOOWY」(解散)で活躍した同市出身の布袋寅泰さん(54)や松井常松さん(55)もかつて足を運んだ有名店。市民から閉店を惜しむ声が上がっている。
赤羽楽器は、赤羽さんの祖父で長野県出身の若市さんが開業。生糸の仲買や時計販売を経て、レコードの販売や蓄音機の修理を始めた。旧陸軍の高崎歩兵第15連隊の兵士も休日にレコードを求めるなど、戦前も店内はにぎわったという。
赤羽さんは数年間見習いとして働き、父の四郎さん、母の幸子さんから店を引き継ぎ、67(昭和42)年に社長に就任した。60年代にエレキブームやフォークソングブームが到来し、刺激を受けた若者が連日、ギターやアンプ、レコードの品定めに訪れたという。
<抜粋引用:上毛新聞 2016年2月7日(日) PM 12:00>
http://www.jomo-news.co.jp/ns/6614548136963392/news.html
>60年代にエレキブームやフォークソングブームが到来
まあ、青年社長でしたね、赤羽さん・・・・・
「飛ぶ鳥を落とす勢い」とはああいうことを言うんでしょうねぇ。
僕が15の頃です。嘉多町に「サカイレコード」っていうのがありました。
高崎二中だったもんで学校帰りにその「サカイレコード」の前を通るのが楽しみでした。
間口二間程の店だったけど、そこの壁に掛けてあった見たことのないギターが。
まあ、ギターと言ったら、ハコモノしかなかったわけで・・・・・
それが薄っぺらい板にスイッチとかボリュームノブとか金属でできた棒が乗っかてて。
で、店の中からは、今まで聞いたことのない音が、「テケテケテケーーー」とか。
そんなわけで、中坊だった僕はせいぜいが片町までで、赤羽楽器、あらまちなんて言ったら当時は高崎のブロードウェイ。
まあ、賑やかったらありゃしない、別世界がそこには繰り広げられていました。
そしたら、18の時にエレキバンドに誘われて、ドラムを叩くことになって、そこで「赤羽楽器」を知るわけです。昭和43年。
で、グループサウンズ・ブームの到来です。「エレキは不良」とか言われた時代だったけど・・・・・
まあ、いよいよ800万人の団塊世代が社会に羽ばたくそのんな時代で、まあ、猫も杓子も「エレキ、エレキ」でした。
まっ、昭和43年当時でどんなに安いエレキでも7、8千円はしましたね高卒初任給レベル。
で、今みたいに「値引き」なんてないですから、そら、儲かったでしょうねぇ、赤羽さんちの蔵はどこにあるんでしょうか(笑)。
後に、僕はそのエレキ製造を生業とするんですが、まあ、エレキって言ったら信州、松本の地場産業。
その頃、松本の「フジゲン」「マツモク」といったエレキ製造工場、その下請けを含めて相当の活況を呈したそうです。
まあ、僕の知ってる限りでも昭和一桁世代のエレキ職人さん、一代でかなりの財を成した人数人いました。
で、赤羽楽器さんなんだけど、グヤトーンだったか主催の「全国エレキ勝ち抜き合戦」を群馬音楽センターで開催するわけです。
たしか、昭和42、43、44年と3年連続でやって、僕が誘われたグループがどういうわけか・・・・・
その「エレキ合戦」のあと、「ザ・プラネッツ・リサイタル」をその3年。僕は2回しか出てないけど、まあ、笑わせる時代でした。
新聞の記事のとおり「エレキブーム」、それが去ったら「フォークブーム」でしたから赤羽楽器の蔵の数は?
でも、抜け目のなかったのが赤羽楽器でアルバイトをしていた高崎経済大学の学生、某氏、卒業と同時に独立・・・・・・
まあ、そんなこんなで時代も静かになって、それでもレコード屋は高崎市内数点あったけど今は「赤羽楽器」だけでした。
「文真堂」もそうだけど、最後にはイオンとかケヤキとかに押されて地場産業は衰退してきちゃいました。
まあ、くどいようだけど行政は商店街なんてお構いなしで「イオンイオン」へ草木もなびくです。
あんなもん出来たら街中、灯が消えちゃいます。赤羽楽器閉店はそれを象徴してますね。
まあ、レコードっていうか、楽曲、ダウンロードして買う時代ですから、在庫したら商売になりません。
「ヤマデン」「ビック」で街の電気屋さんはほぼ終了しました。街が沈むはずです、改革と自由化ですから(笑)。
赤羽楽器閉店セール100年の歴史に幕

↑赤羽楽器主催の「勝ち抜きエレキ合戦」
於:群馬音楽センター
BOOWY、かまちも通った赤羽楽器 月末に閉店 高崎
1912(大正元)年創業の老舗楽器店「赤羽楽器」(高崎市あら町)が2月末で閉店する。3代目社長の赤羽正幸さん(73)が体調不良と後継者不在を理由に決断した。伝説のロックバンド「BOOWY」(解散)で活躍した同市出身の布袋寅泰さん(54)や松井常松さん(55)もかつて足を運んだ有名店。市民から閉店を惜しむ声が上がっている。
赤羽楽器は、赤羽さんの祖父で長野県出身の若市さんが開業。生糸の仲買や時計販売を経て、レコードの販売や蓄音機の修理を始めた。旧陸軍の高崎歩兵第15連隊の兵士も休日にレコードを求めるなど、戦前も店内はにぎわったという。
赤羽さんは数年間見習いとして働き、父の四郎さん、母の幸子さんから店を引き継ぎ、67(昭和42)年に社長に就任した。60年代にエレキブームやフォークソングブームが到来し、刺激を受けた若者が連日、ギターやアンプ、レコードの品定めに訪れたという。
<抜粋引用:上毛新聞 2016年2月7日(日) PM 12:00>
http://www.jomo-news.co.jp/ns/6614548136963392/news.html
>60年代にエレキブームやフォークソングブームが到来
まあ、青年社長でしたね、赤羽さん・・・・・
「飛ぶ鳥を落とす勢い」とはああいうことを言うんでしょうねぇ。
僕が15の頃です。嘉多町に「サカイレコード」っていうのがありました。
高崎二中だったもんで学校帰りにその「サカイレコード」の前を通るのが楽しみでした。
間口二間程の店だったけど、そこの壁に掛けてあった見たことのないギターが。
まあ、ギターと言ったら、ハコモノしかなかったわけで・・・・・
それが薄っぺらい板にスイッチとかボリュームノブとか金属でできた棒が乗っかてて。
で、店の中からは、今まで聞いたことのない音が、「テケテケテケーーー」とか。
そんなわけで、中坊だった僕はせいぜいが片町までで、赤羽楽器、あらまちなんて言ったら当時は高崎のブロードウェイ。
まあ、賑やかったらありゃしない、別世界がそこには繰り広げられていました。
そしたら、18の時にエレキバンドに誘われて、ドラムを叩くことになって、そこで「赤羽楽器」を知るわけです。昭和43年。
で、グループサウンズ・ブームの到来です。「エレキは不良」とか言われた時代だったけど・・・・・
まあ、いよいよ800万人の団塊世代が社会に羽ばたくそのんな時代で、まあ、猫も杓子も「エレキ、エレキ」でした。
まっ、昭和43年当時でどんなに安いエレキでも7、8千円はしましたね高卒初任給レベル。
で、今みたいに「値引き」なんてないですから、そら、儲かったでしょうねぇ、赤羽さんちの蔵はどこにあるんでしょうか(笑)。
後に、僕はそのエレキ製造を生業とするんですが、まあ、エレキって言ったら信州、松本の地場産業。
その頃、松本の「フジゲン」「マツモク」といったエレキ製造工場、その下請けを含めて相当の活況を呈したそうです。
まあ、僕の知ってる限りでも昭和一桁世代のエレキ職人さん、一代でかなりの財を成した人数人いました。
で、赤羽楽器さんなんだけど、グヤトーンだったか主催の「全国エレキ勝ち抜き合戦」を群馬音楽センターで開催するわけです。
たしか、昭和42、43、44年と3年連続でやって、僕が誘われたグループがどういうわけか・・・・・
その「エレキ合戦」のあと、「ザ・プラネッツ・リサイタル」をその3年。僕は2回しか出てないけど、まあ、笑わせる時代でした。
新聞の記事のとおり「エレキブーム」、それが去ったら「フォークブーム」でしたから赤羽楽器の蔵の数は?
でも、抜け目のなかったのが赤羽楽器でアルバイトをしていた高崎経済大学の学生、某氏、卒業と同時に独立・・・・・・
まあ、そんなこんなで時代も静かになって、それでもレコード屋は高崎市内数点あったけど今は「赤羽楽器」だけでした。
「文真堂」もそうだけど、最後にはイオンとかケヤキとかに押されて地場産業は衰退してきちゃいました。
まあ、くどいようだけど行政は商店街なんてお構いなしで「イオンイオン」へ草木もなびくです。
あんなもん出来たら街中、灯が消えちゃいます。赤羽楽器閉店はそれを象徴してますね。
まあ、レコードっていうか、楽曲、ダウンロードして買う時代ですから、在庫したら商売になりません。
「ヤマデン」「ビック」で街の電気屋さんはほぼ終了しました。街が沈むはずです、改革と自由化ですから(笑)。
赤羽楽器閉店セール100年の歴史に幕
Posted by 昭和24歳
at 09:49
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