2015年11月18日
高崎でまだ食べられる高崎の「世界遺産」
高崎でまだ食べられる高崎の「世界遺産」
そういえば、あの頃の高崎は何処へ・・・・・・
高砂町界隈の趣も、マンションやらなんやらで風情もヘチマもない(笑)。
先日、某、友人知人と久しぶりに「いろり」の敷居をまたいだ。
ちょいと草臥れた感じの引き戸を開けると滑車の音がきしんでいる、半世紀からの歴史だ。
マスターというより「亭主」だろう・・・・・・・
「いらっしゃいませ」といそいそするのはいつものことで、それに恐縮する。
「最近、看板点いてたり点いてなかったりだね」
「う~ん、お客さん来ないと閉めちゃうんです。私一人でやってるもんで」
まあ、世の中の空気が一変しちゃったのはここ、高崎の旧市街地界隈も例外ではない。
ご案内だろうが、近隣には高層マンションが数等建ち並んではいるものの八間道路から末広町交差点あたりまでの東二条通り・・・・・・
その周辺は「限界集落」の趣だ。
その昔、といっても30年ほど前まではその辺で生活必需品、食品のほとんどが手に入ったが、今はそれを商う店も・・・・・・
山田畳店、有間屋米穀店、井田酒店、渡辺薬局そして朝日材木店と、それくらいになってしまっている、なんとも寂しい限りだ。
昔のお客さん、そのほとんどがもうお見えにならないとか。
「高齢化でしょうかね。斯く言う私も来年古希ですから、ハハハ~ァ」と。
そうです。僕がその「いろり」に通い始めたのが未だ結婚する前でしたから、昭和48年頃。
つまり、その「いろり」がオープンして1年後くらいだったでしょうか。
で、ご年配の方ならご案内でしょうけど、当時、成田町の「風雷」というのがありまして・・・・・・
で、その「いろり」の先代はその「風雷」の女将さんの兄さんだったか、弟さんだったかでした。
で、その先代「いろり」のご亭主、趣味人で数々の骨董品ていうか民芸品の蒐集家で、そんなこともあってか某企業退職を期に開店。
それで、これらの、今では珍しいものが店内所狭しと↓
で、現在のご亭主、まあ、開店当初は40年前ですから30歳になったばかりの好青年でした。ホントに。
で、その郷土料理の方は、10年ほど椿町の「暢神荘」で修行したとかですからまあ、確かでした・・・・・・
昭和50年前後は連日満員で、まっ、僕が27歳の頃なんですから、そら「昔の若い人」、酒のひきかたは半端じゃあなかったんです(笑)。
で、先代のご亭主、前の大川「長野堰」でドジョウをすくったり、川エビの唐揚げとか、沢ガニの唐揚げとか・・・・・・
で、冬ともなればその年季の入った囲炉裏び吊るした大鍋で「アラ煮」でしょうか、里芋とか入った。
まあ、旬のものをいつでもご馳走してくれました。山うどとか、山菜の天ぷらとか、とにかく当時は「赤ちょうちん」がブームでした「炉端」です。
それとはひと味も二味も志向の変わった趣で楽しませてくれました。
もちろん、20代の僕らが通えるくらいですからお会計は実にリーズナブルでしたね。今もそのままですけど。
そんなわけで、ここ、高崎には「遺しておきたい」庶民、大衆の「場所」がありますね。
まあ、不謹慎で叱られそうだけど、そう遠くないうちに・・・・・・
「二度と食べられない“いろり”のアラ煮」なんってえことになりかねないかも。
一人で言ってもそこは「いろり」を囲んで知らぬ同士が夜更けとともに小皿叩きます(笑)。
高崎でまだ食べられる高崎の「世界遺産」
そういえば、あの頃の高崎は何処へ・・・・・・
高砂町界隈の趣も、マンションやらなんやらで風情もヘチマもない(笑)。
先日、某、友人知人と久しぶりに「いろり」の敷居をまたいだ。
ちょいと草臥れた感じの引き戸を開けると滑車の音がきしんでいる、半世紀からの歴史だ。
マスターというより「亭主」だろう・・・・・・・
「いらっしゃいませ」といそいそするのはいつものことで、それに恐縮する。
「最近、看板点いてたり点いてなかったりだね」
「う~ん、お客さん来ないと閉めちゃうんです。私一人でやってるもんで」
まあ、世の中の空気が一変しちゃったのはここ、高崎の旧市街地界隈も例外ではない。
ご案内だろうが、近隣には高層マンションが数等建ち並んではいるものの八間道路から末広町交差点あたりまでの東二条通り・・・・・・
その周辺は「限界集落」の趣だ。
その昔、といっても30年ほど前まではその辺で生活必需品、食品のほとんどが手に入ったが、今はそれを商う店も・・・・・・
山田畳店、有間屋米穀店、井田酒店、渡辺薬局そして朝日材木店と、それくらいになってしまっている、なんとも寂しい限りだ。
昔のお客さん、そのほとんどがもうお見えにならないとか。
「高齢化でしょうかね。斯く言う私も来年古希ですから、ハハハ~ァ」と。
そうです。僕がその「いろり」に通い始めたのが未だ結婚する前でしたから、昭和48年頃。
つまり、その「いろり」がオープンして1年後くらいだったでしょうか。
で、ご年配の方ならご案内でしょうけど、当時、成田町の「風雷」というのがありまして・・・・・・
で、その「いろり」の先代はその「風雷」の女将さんの兄さんだったか、弟さんだったかでした。
で、その先代「いろり」のご亭主、趣味人で数々の骨董品ていうか民芸品の蒐集家で、そんなこともあってか某企業退職を期に開店。
それで、これらの、今では珍しいものが店内所狭しと↓
で、現在のご亭主、まあ、開店当初は40年前ですから30歳になったばかりの好青年でした。ホントに。
で、その郷土料理の方は、10年ほど椿町の「暢神荘」で修行したとかですからまあ、確かでした・・・・・・
昭和50年前後は連日満員で、まっ、僕が27歳の頃なんですから、そら「昔の若い人」、酒のひきかたは半端じゃあなかったんです(笑)。
で、先代のご亭主、前の大川「長野堰」でドジョウをすくったり、川エビの唐揚げとか、沢ガニの唐揚げとか・・・・・・
で、冬ともなればその年季の入った囲炉裏び吊るした大鍋で「アラ煮」でしょうか、里芋とか入った。
まあ、旬のものをいつでもご馳走してくれました。山うどとか、山菜の天ぷらとか、とにかく当時は「赤ちょうちん」がブームでした「炉端」です。
それとはひと味も二味も志向の変わった趣で楽しませてくれました。
もちろん、20代の僕らが通えるくらいですからお会計は実にリーズナブルでしたね。今もそのままですけど。
そんなわけで、ここ、高崎には「遺しておきたい」庶民、大衆の「場所」がありますね。
まあ、不謹慎で叱られそうだけど、そう遠くないうちに・・・・・・
「二度と食べられない“いろり”のアラ煮」なんってえことになりかねないかも。
一人で言ってもそこは「いろり」を囲んで知らぬ同士が夜更けとともに小皿叩きます(笑)。
高崎でまだ食べられる高崎の「世界遺産」
Posted by 昭和24歳
at 15:22
│Comments(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。