2014年09月10日
高崎駅前イオンに東急ハンズは?
高崎駅前イオンに東急ハンズは?
●増加するまちなか人口
マンション建設がまちなか人口に与える影響を、江木町の日清製粉跡地で高崎市とタカラレーベンがマンション開発した「都心東地区再開発事業」で見ると、第1期工事は109戸、第2期95戸、これから入居となる第3期91戸を分譲した。
平成17年12月末の江木町は、世帯数3,062世帯、人口7,160人だったが、平成25年12月末は、世帯数3,380世帯、人口7,501人に増加し、318世帯、341人が増加している。
東小学校は、平成23年まで児童数約160人前後、学年1学級で推移してきたが、平成25年の児童数は212人になり約50人増加、低学年で複数学級になっている。
また高松中学校は、平成17年が生徒数379人、全校12学級だったが、平成25年は生徒数531人で約150人増、学級数も17学級に増加している。
<抜粋引用:高崎新聞 2014年2月>
ソース:http://www.takasakiweb.jp/toshisenryaku/article/2014/02/2001.html
まあ、僕ら団塊世代が小学校入学の時、昭和29年・・・・・
高崎市の人口がおよそ、12万人でした。
で、その前の年に「城東小」ができたわけですけど、その時まで東小の児童生徒数は、
なんと、1200人くらいいたんだとか。
で、「城東小」ができて移動した児童生徒が500人前後だったんでしょうか・・・・・
僕が一年生の時はひとクラス40人弱で4クラス、一年生全体で150人くらいは。
まっ、当時は昭和18年生まれの人が6年生でしたから、それでも700人強は全校児童生徒数でした。
ということは、その後の核家族化、ニューファミリー社会とか言われるようになって、
その東小(他、南小、中央小北小等)も郊外の分譲団地や公営の団地に移り住んでった。
それが、大規模なものだと、今の中居団地、中尾団地、山名団地で、高度経済成長期になると、
いわゆる、今のタカラレーベンのように、マンションではないけど高崎市郊外いたるところに建売分譲住宅で、
郊外への人口移動がより活発になり、今で言う、旧市街地の「ドーナツ化現象」へと様変わりしていった。
ご案内のように、戦後の復興期に近郷近在からの人口流入がその旧市街地へ。
それらは当然、高崎駅周辺から始まり、その西口3キロ半径に、いわゆる繁華街が出来上がっていった。
もっとも、高崎で最初に栄えたのが「本町」界隈で、その後街の中心は言われる「中銀」をコアに、
八間道路、田町と、そしてその頃には「藤五百貨店」も仕上がって今の慈光通りあたりが賑わっていった。
そして現代、21世紀平成26年なんだが・・・・・
ひと世代、役目の終えた、僕らの親世代は既に鬼籍に入ってから久しい。
次は、僕らが、その「鬼籍」とやらに入る番。そしてこの街の様子も大きく変わろうとしている。
が、それは、ある意味同じことの繰り返しなのかもしれない、ひとつの「時代の周期」。
それは東京都心などではかなり前から言われているが老朽化した「高層マンション問題」だ。
それと同時に、老朽化高層マンションの「空き家」問題がそこに横たわる。
30歳前後で、マンション購入して退職する頃には30年。築30年ではどれほどの価値があるか?
そして、修繕を繰り返し、それを立て替えたとしても、その頃にはそこの住人は「独居」か「鬼籍」。
若い時代は素晴らしい。その、東小に隣接するマンションも今はベビーカーに赤ちゃんを乗せて散歩するママさんたちが。
そして、よちよち歩きの子供の手を引いて散歩する、パパさんたち・・・・・
僕らもそうだった、昭和51年に生まれた長女を抱っこしてひがし小の校庭を散歩した。
昭和54年に生まれた次女をベビーカーに乗せてひがし小の校庭を散歩、ブランコにも、滑り台にも。
そんな彼女たちが東小学校に入学する頃は、僕らの頃700人からいた児童生徒も180人ほどに、全学年単学級。
そして、「ネオ・ニューファミリー」となって巣立っていった彼女たち、それから20年近くが過ぎようとしている今。
そこのマンション群、江木町と高砂町で10棟からあるんじゃあないだろうか・・・・・
その「若い街」もあと30年ほど経ったら、高齢化した街に様変わりすることは想像に難くない。
まあ、行政が言うところの「コンパクトシティ」なら、この街が壊れることなくリサイクルするような、
それは、5年10年サイクルのそれではなく30年、50年先を見据えた都市計画が求められるのではないだろうか。
それは、駅前が活性化したところで、増殖する生き物である商業ビルはいつでも解体、再建設できるが、
普通に生活する市民、住民はそうはいかない。街が生き続けるために、とくに成熟した社会が生き続けるには・・・・・
せめて新しい街が「暮らしやすい」生活空間にする必要があるのではないだろうか。
つまり、都市としての高崎の発展、繁栄は「横丁の復活」です。
毎日の生活に「駅前イオン」に行きますか?高島屋に行きますか?東口の商業空間に行きますか?
できるなら、平面、せめて2階建て程度の広々としたショッピングモールがあったら素敵じゃあないですか。
散歩がてら行ける夕餉のお買い物。そこには八百屋さん、魚やさん、お肉屋さん、薬局、理容室、美容室、等々が。
けして批判的に言っているのではありません、駅前イオンモールができたとして、いわゆる生活必需品空間は「デパ地下」です。
そして、「駅前イオンモール」もいいでしょう。しかし、この少子高齢化社会のそれに持ちこたえる企業がこの先どれほど見込めるでしょうか。
その利便性から、近隣都市から集客するのもいいでしょうけど、それでは同じパイの取り合い合戦でしかない。
つまり、「戦争」です・・・・・
ところで、イオンモールには「東急ハンズ」は入るんでしょうか?長野駅のモールには「東急ハンズ」出店が決定路ありますけど。
もし、高崎駅前イオンに「東急ハンズ」となったら、前橋、真っ青ですね。
あっ、「イオン」を催事でやってた「スズラン百貨店」はどうするんでしょうか?
「イオン」のなかに「スズラン」入っちゃったりして。つまり、大規模集客施設が東西駅前に集中したら、スズラン(^^ゞ
もっとも、東口の「マルキュー(109シネマ)」、あそこはどうなの、この東口再開発・・・・・
しかしながら、確実のこの10年以内に高崎市「駅前」は大きく変貌する。
今はただ、老兵「角を矯めて牛を殺す」ことにならなければいいがと、それだけです。
●増加するまちなか人口
マンション建設がまちなか人口に与える影響を、江木町の日清製粉跡地で高崎市とタカラレーベンがマンション開発した「都心東地区再開発事業」で見ると、第1期工事は109戸、第2期95戸、これから入居となる第3期91戸を分譲した。
平成17年12月末の江木町は、世帯数3,062世帯、人口7,160人だったが、平成25年12月末は、世帯数3,380世帯、人口7,501人に増加し、318世帯、341人が増加している。
東小学校は、平成23年まで児童数約160人前後、学年1学級で推移してきたが、平成25年の児童数は212人になり約50人増加、低学年で複数学級になっている。
また高松中学校は、平成17年が生徒数379人、全校12学級だったが、平成25年は生徒数531人で約150人増、学級数も17学級に増加している。
<抜粋引用:高崎新聞 2014年2月>
ソース:http://www.takasakiweb.jp/toshisenryaku/article/2014/02/2001.html
まあ、僕ら団塊世代が小学校入学の時、昭和29年・・・・・
高崎市の人口がおよそ、12万人でした。
で、その前の年に「城東小」ができたわけですけど、その時まで東小の児童生徒数は、
なんと、1200人くらいいたんだとか。
で、「城東小」ができて移動した児童生徒が500人前後だったんでしょうか・・・・・
僕が一年生の時はひとクラス40人弱で4クラス、一年生全体で150人くらいは。
まっ、当時は昭和18年生まれの人が6年生でしたから、それでも700人強は全校児童生徒数でした。
ということは、その後の核家族化、ニューファミリー社会とか言われるようになって、
その東小(他、南小、中央小北小等)も郊外の分譲団地や公営の団地に移り住んでった。
それが、大規模なものだと、今の中居団地、中尾団地、山名団地で、高度経済成長期になると、
いわゆる、今のタカラレーベンのように、マンションではないけど高崎市郊外いたるところに建売分譲住宅で、
郊外への人口移動がより活発になり、今で言う、旧市街地の「ドーナツ化現象」へと様変わりしていった。
ご案内のように、戦後の復興期に近郷近在からの人口流入がその旧市街地へ。
それらは当然、高崎駅周辺から始まり、その西口3キロ半径に、いわゆる繁華街が出来上がっていった。
もっとも、高崎で最初に栄えたのが「本町」界隈で、その後街の中心は言われる「中銀」をコアに、
八間道路、田町と、そしてその頃には「藤五百貨店」も仕上がって今の慈光通りあたりが賑わっていった。
そして現代、21世紀平成26年なんだが・・・・・
ひと世代、役目の終えた、僕らの親世代は既に鬼籍に入ってから久しい。
次は、僕らが、その「鬼籍」とやらに入る番。そしてこの街の様子も大きく変わろうとしている。
が、それは、ある意味同じことの繰り返しなのかもしれない、ひとつの「時代の周期」。
それは東京都心などではかなり前から言われているが老朽化した「高層マンション問題」だ。
それと同時に、老朽化高層マンションの「空き家」問題がそこに横たわる。
30歳前後で、マンション購入して退職する頃には30年。築30年ではどれほどの価値があるか?
そして、修繕を繰り返し、それを立て替えたとしても、その頃にはそこの住人は「独居」か「鬼籍」。
若い時代は素晴らしい。その、東小に隣接するマンションも今はベビーカーに赤ちゃんを乗せて散歩するママさんたちが。
そして、よちよち歩きの子供の手を引いて散歩する、パパさんたち・・・・・
僕らもそうだった、昭和51年に生まれた長女を抱っこしてひがし小の校庭を散歩した。
昭和54年に生まれた次女をベビーカーに乗せてひがし小の校庭を散歩、ブランコにも、滑り台にも。
そんな彼女たちが東小学校に入学する頃は、僕らの頃700人からいた児童生徒も180人ほどに、全学年単学級。
そして、「ネオ・ニューファミリー」となって巣立っていった彼女たち、それから20年近くが過ぎようとしている今。
そこのマンション群、江木町と高砂町で10棟からあるんじゃあないだろうか・・・・・
その「若い街」もあと30年ほど経ったら、高齢化した街に様変わりすることは想像に難くない。
まあ、行政が言うところの「コンパクトシティ」なら、この街が壊れることなくリサイクルするような、
それは、5年10年サイクルのそれではなく30年、50年先を見据えた都市計画が求められるのではないだろうか。
それは、駅前が活性化したところで、増殖する生き物である商業ビルはいつでも解体、再建設できるが、
普通に生活する市民、住民はそうはいかない。街が生き続けるために、とくに成熟した社会が生き続けるには・・・・・
せめて新しい街が「暮らしやすい」生活空間にする必要があるのではないだろうか。
つまり、都市としての高崎の発展、繁栄は「横丁の復活」です。
毎日の生活に「駅前イオン」に行きますか?高島屋に行きますか?東口の商業空間に行きますか?
できるなら、平面、せめて2階建て程度の広々としたショッピングモールがあったら素敵じゃあないですか。
散歩がてら行ける夕餉のお買い物。そこには八百屋さん、魚やさん、お肉屋さん、薬局、理容室、美容室、等々が。
けして批判的に言っているのではありません、駅前イオンモールができたとして、いわゆる生活必需品空間は「デパ地下」です。
そして、「駅前イオンモール」もいいでしょう。しかし、この少子高齢化社会のそれに持ちこたえる企業がこの先どれほど見込めるでしょうか。
その利便性から、近隣都市から集客するのもいいでしょうけど、それでは同じパイの取り合い合戦でしかない。
つまり、「戦争」です・・・・・
ところで、イオンモールには「東急ハンズ」は入るんでしょうか?長野駅のモールには「東急ハンズ」出店が決定路ありますけど。
もし、高崎駅前イオンに「東急ハンズ」となったら、前橋、真っ青ですね。
あっ、「イオン」を催事でやってた「スズラン百貨店」はどうするんでしょうか?
「イオン」のなかに「スズラン」入っちゃったりして。つまり、大規模集客施設が東西駅前に集中したら、スズラン(^^ゞ
もっとも、東口の「マルキュー(109シネマ)」、あそこはどうなの、この東口再開発・・・・・
しかしながら、確実のこの10年以内に高崎市「駅前」は大きく変貌する。
今はただ、老兵「角を矯めて牛を殺す」ことにならなければいいがと、それだけです。
Posted by 昭和24歳
at 17:21
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