2009年02月11日
横町の探検隊
それはローマ五輪の年でした・・・・・
横町の探検隊
昭和30年代の半ばだ・・・・・・
隊長はとしおちゃん。としおちゃんは僕より一級上級生で、いわゆる「ガキ大将」というやつだ。
背丈は僕と変わらず小粒だったがこれがめっぽう力持ちで相撲を取らせたら横町では敵うヤツはいなかった。
そのとしおちゃんを隊長に、もっちゃん、僕と同級。そしてもっちゃんの弟ののりちゃん、しゅうちゃん、しゅうちゃんの弟、4歳下のてっちゃん、一郎ちゃん・・・・・
そうそう、忘れてならないのが横町一のきかん坊で何かにつけて騒動のタネになる隊長、としおちゃんの弟のよしおちゃん。
僕より一級下なのだが、まあそのわがままブリときたひには一度へそを曲げると梃子でも動かないというか、誰かれなく突っかかってくる。
もちろん、隊長があんちゃんということもあって、僕等は最初は遠慮しているのだがそのうち「ポカッ」とやる。そうなるとそのあとがまたすごいのだ・・・・・
地団駄を踏んで悔しがり当り散らし、あげく、あんちゃんに助けを求め仕返しをしろとせがむのだが、そのあんちゃん、隊長は無茶苦茶フェア。
地団駄を踏んで泣きわめく弟を助けるどころか叱りつける。
まあ、家の近所で遊んでいるときはそんな調子で騒ぎだすとよしおちゃん、泣きわめきながら飛んで帰り・・・・・
あとで話を聞くと家へ帰ってまた当り散らすんだとか。
としおちゃん、よしおちゃんの家は横町で米屋を営んでいた。精米機が騒音でそんなよしおちゃんの騒ぎもかき消されてしまい、
というより家に帰っても誰からも相手にされずまた遊んでいる僕らのところにしゃくりながらもどって、遠巻きにぶつぶつ言っているのがいつものことだった。
そんなよしおちゃん・・・・・・
今では東北、某都市の“M化粧品”の支社長である。何年か前に仕事でそこへ行ったとき訪ねたがえらく歓待された。
もちろん昔話に花が咲き乱れたことは言うまでもないが、「そこ」に話が及んだときの恐縮ぶりといったらなかった(笑)。
もちろんそこは東北きってのネオン街のとあるクラブでの話だ。多分よしおちゃん行きつけの店なんだろう・・・・・・
「うそーーー、支社長、まさかーーーー、エーーーーッ、信じられない!!」
「いや、ホントなんだ・・・・・どうしょうもない悪ガキだったんだ僕は」
夜の蝶も、ビシッと決め込んだ、しかも、それも名の知れた化粧品会社の支社長のその姿からは想像できないようで笑がなかなかおさまらなかった。
よしおちゃん、支社長、でもその昔話にまんざらでもないような趣でその笑いの中に心地よさそうにおさまっていた。
「オイッ、明日“千人隠れ”行かねえか!!」
ガキ大将、隊長のとしおちゃんが言いだした・・・・・・
まあ、隊長の命令なようなもんだ、もちろんみんな一つ返事で「行くべ、行くべ」と話はすぐについた。
「持って行くもんは握り飯と小刀だ。かあちゃんには護国神社へでも遊びに行ってくるって言っておけ」
当時、護国神社には多分奉納相撲かなんかのためだろうか土俵があって、ときどき横町の悪ガキ連れ立ってその護国神社で相撲大会をしたり・・・・・
そう、そんなときはいつも“小刀”を持って持ち寄った竹ひごで「杉鉄砲」作りをした。
今でこそ「スギ花粉症」とかで騒がれてるけどあの時代はあの辺り一面の杉林もぐりこんで「杉の芽」なんだろうか・・・・・・
やはりその一帯に自生するシノ竹を切り取って作った杉鉄砲で「飛ばしっこ」をした。
そうそう、たしかローマオリンピックが終わった年だったろうか、体操の小野の金メダルとかマラソンのアベベ・・・・・
当然、次回の東京オリンピックもあって僕ら、子どもにも否応なしにその「オリンピックムード」は高まっていて何かにつけて「オリンピックごっこ」みたいな遊びに興じていた思い出がある。
その護国神社の遊び場でも相撲が飽きると、幅跳びとかハイジャンプだとか、いわゆる競技というか、勝負に日の暮れるのも忘れて遊んだ・・・・・
ところで、今度はその護国神社ではなく、目的地は「千人隠れ」だ。
実は、わが横町の“探検隊”はその「千人隠れ」は未踏の冒険の地だった・・・・・
噂によると鬱蒼とする森の中昼夜も暗いヘビやトカゲは当たり前で、なにが出てくるかわからない未開の大陸。しかも「化石」が出ると言う。
ぼっとかしたら「恐竜でも出てきたらどうすんべ」なんて本気で心配したりしていた。
ホント、大袈裟でなくだ・・・・・・
「危ないとこに行くんじゃあないよ!!」
そんなかあちゃんのいつもの小言に「アカンベー」をしながら集合場所の東小の裏門に・・・・・・
いよいよ、としおちゃんを先頭に7人ほどが連れ立って横町を出発だ!!
九蔵町の電車通り、商工会議所の脇を抜けて嘉多町の交番を高崎神社へ・・・・・
高崎神社は、今回の探検の安全祈願だ。
高崎神社裏のくねくねした細い坂道を下りきると中央小の正門に出た。そこから土手、国道を超え川越だ・・・・・・
そう、あの時代は「和田橋」はない。川向うへ行くには君が代橋か聖石橋まで行かなければならない。
中央小の少し先の土手、国道を下りるとまあ時期ならそんなに水かさはなく結構浅瀬になっているそこいら・・・・・・
もう少し下るとちょうど高崎公園下辺りは「貸ボート場」になっていた、小さい頃姉の彼氏とボート遊びをした覚えがある。
ちょうどその辺りは烏川と碓氷川の合流地点で、碓井川川にかかっている橋が「八千代橋」で、通称「高崎〇番地」・・・・・・
あの頃は、ホームレスと言うのではなくその橋の下とか河原に掘立小屋を作って訳ありのそんな人たちが生活していた。
さっ、「川越」だ・・・・・・
隊長のとしおちゃんがまず先陣を切って安全を確かめるように渡りだす・・・・・・
後編につづく。
Posted by 昭和24歳
at 21:16
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