2014年01月03日
キネヅカ倶楽部“JJ & BB cafe”(´∀`)
キネヅカ倶楽部
“JJ & BB cafe”(´∀`)

様々な方から励ましのメールを頂いて、
感謝感激しているところです。
また、“JJ & BB cafe”オープンの時には・・・・・・
多くの“キネヅカさん”のご光来にも、
なんのおもてなしもできずに申し訳ない限りですm(_ _)m
そして改めて心より感謝申し上げる次第です。
団塊生きき現役
高崎のNPO中高年の交流拠点
そんな見出しで・・・・・・
平成26年元旦の上毛新聞【社会】(26)に!!
高崎に中高年向け喫茶サロン
高齢化が進む高崎市の旧市街地ににぎわいを取り戻そうと、NPO法人キネヅカ倶楽部(町田貞行理事長)が昨年12月、同市九蔵町に中高年向け喫茶サロン「JJ&BBcafe」を開業した。どこか懐かしい雰囲気の店構えで、中高年が気軽に立ち寄れる交流スペースを提供。ライブハウスの機能も備え、ジャズやフォーク、ポップスなど音楽の発信拠点にする。
店は中高年が青春時代を過ごしたころの喫茶店をイメージし、町田理事長の自宅車庫を改装。テーブルや椅子はあえて低いものを配置し、時間を気にせずくつろいでもらえる雰囲気にした。メニューはコーヒー、紅茶をはじめ、モーニングセット、ナポリタン、カレーなど〝定番〟ぞろいだ。
喫茶サロンは午前7時~午後11時。年始は5日まで休み。問い合わせは事務局
<引用:上毛新聞 更新日時:2014年1月1日(水) AM 07:00>
ソース:http://www.jomo-news.co.jp/ns/2513884982905293/news.html
>中高年が気軽に立ち寄れる交流スペースを提供。
「団塊世代」。気づいたら“アラカン”も過ぎて・・・・・
しんがりの「団塊」諸先輩は間もなく古希に。
そんな僕らが10代、20代の頃の高崎は正しく“街”そのものが百花繚乱していた。
その時代背景としては「70年安保」を直前に世の中は騒然としていたが、
その世相そのものは高度経済成長の真っ只中で「昭和元禄」といわれた時代。
「昭和元禄」。言わずもがな、わが郷土の誉れ「福田赳夫元首相」は当時(昭和39年)自民党政調会長、
翌年(昭和40年)佐藤政権下で大蔵大臣に就任した、ちょうどその頃の“造語”。
因みに、僕の「昭和24歳」も実は福田赳夫元首相、その総理大臣就任時御年“71歳”であったため、
高齢を心配する各界に向けて「私は明治38歳」といって、若さを演出した・・・・・
そんな、「昭和元禄」にはこの高崎の街には「藤五百貨店」が開店して僕も初めて「エレベーター」に乗せてもらった、
とにかく、街中が躍動していた、そんな時代、世相だった「団塊」が成人式の時代。
当時の高崎の街中は「犬もお歩けば棒」、そんな状態で高崎駅前から、本町三丁目辺りまで「喫茶店」ができていた。
当時は「ライブハウス」という概念はなかったが、高崎駅前路地裏のジャズ喫茶“モーニン”、
そして、連雀町交差点近くの「喫茶ローマ」では週末になると高経のジャズ研とかフォーククラブがライブを。
もっとも、当時の僕らはといえば「エレキ」=「不良」という代名詞の中、喫茶店というよりは、
駅近くにあった砂賀町の「社交」というダンスホール。そこでは未だミュージックシーンの歴史としては・・・・・
“ビートルズ”は存在していなかった。プレスリーを代表とする「ロカビリー時代」で、
ようやく聴こえてきたのがあの「エレキサウンド」の“ベンチャーズ”とか“アストロノーツ”。
僕らはもっぱら、そんな「ロカビリー」を、そのダンスホール「社交」と中銀にあった「みゆき」で「不良」だった(笑)。
それは、いわゆる「モンキーダンス」「ゴーゴー」とか言われた代物で、それまでの「ロカビリー」にな洗練された、
「インストルメンツ」で、「ロカビリー」はダサイ。といった感じで夢中になって「ベンチャーズ」をコピーし始めた。
もっともそうだ、今現在でも、言われる「団塊世代」を大きく20年生まれから30年生まれ頃までとし、
その人口構成から見たら、おおよそ“1000万人”のマーケットが存在(顕在)している。
その意味からすれば「寂れ行く旧市街地」、これはけして高崎市だけの問題ではなく、全国の地方都市・・・・・
そこから、その“1000万人”を構成するマーケットが時代から無視され無視され続けてきた結果ではないか。
たしかに、ティーンエイジャー市場は言われる「カワイイ」での評価はあるが、
その市場規模は極めて小さく、ただ、リサイクルを待つのみではないのか、いわゆる「アキバ現象」もそれだ。
翻って「団塊世代」がこの街中にそのコンシュマーとして出かけてもそこに「団塊」を消費者とする市場が見えない。
そこで言えるのは、市場の創造は、その人生の中で一番パッションのある時代・・・・・
子育て世代が子供のために消費する経済、そしてその子供たちが10代、20代となって、自由意志で消費する経済。
僕らもそうだった。昭和50年に結婚して3人の子供を育てて、そこでの消費、経済規模がこの国のGDPを創造してきた。
そして、僕ら「団塊」のそれは終わった・・・・・・
そこで、気づいたとき、僕ら「団塊」が嬉々とする「マーケット」のほとんどが消滅していた。
ふと思うと、僕ら「団塊世代」は自分たちがコンシュマーでありながら、20代の頃には「サプライヤー」になっていた。
つまり、「僕ら」が欲しいものは「僕ら自身」が作ってきた。
それは、ファッションであり、車であり、雑誌であり、そして音楽であり・・・・・
結局、リタイアさせられてしまった「団塊世代」には、団塊の僕らのニーズが分かっていながらも、
その供給市場からスポイルされ、せっかく1000万人からの市場規模がありながら「デスマーケット」になってしまっている。
市場では喧伝されているが「持つ」市場から「借りる」市場へ。つまり、「TSUTAYA現象」とでも言うのか。
「ソフト」を「持つ」のではなく「借りる」、利用するだけ。
それは、ある意味「文化」を形として残さず、「使い捨て」される・・・・・
そこでは、かつて「団塊世代」の時代ならその「ソフト」が、今、アルバムなら3000円くらいするんだろうか?
それを、みんなが競って買い求めた、そしてそれを「持つ」ことにステータスを感じていた。
僕の友人でも数百枚と昔のLPアルバムを所蔵する。これは、それを1000万人のマーケットとしてとらえたとき、
巨大な「マーケット」がそこに、その時代にあったということだろう。
しかし、それはある日突然にそうした市場が消滅したわけではなく、僕ら「団塊世代」も仕事に夢中になった時代、
そして、子育てに一生懸命になった時代。そんな時代には自分たちへの「市場」は忘れていた・・・・・
ということがあった、という現実を忘れてはならない。
それは時代なのかもしれないが、ぼくの「エレキづくり」という仕事も次第にその「市場」からの退場を宣告された。
たしかに、今の「借りる」という概念も、実に合理的だし、無駄のないマーケットの想像だと思う。
しかし、そのことは経済規模としての「メガマーケット」を、極めて小さなものにしてしまっている。
「TSUTAYA」で一曲100円、ダウンロード。僕らはその一曲のために3000円のアルバムを買った・・・・・・
そしてその中から、その一曲以外のフェヴァリットを探すのも楽しみだった。
そんな僕ら「団塊世代」も、市場から消えるだけではなく、この世からも確実に長くてあと20年で消える。
この、1000万人の「消費者」が次第次第に消える。去年も僕の同世代、
ともに音楽をライフワークとしてきた友人二人を亡くした、そんな彼らも「持つ」人だった。
まさかの「死」ではあったが、考えてみれば65歳の先輩と、62歳の後輩、それは自然の中の一つの現象ではと。
そんな、先輩後輩の突然の死で、多くの古い友人とも再会を果たした・・・・・・
そしてそれを機に、再び「音楽活動」を胎動させた。まさに「胎動」だった。
当然、僕もわからない、それが、その「死」がいつ来るのかは。しかし近い将来必ずそれは来る。
しかし、この戦後の日本に生まれ、文化、その一つの価値観を共有し、一つの時代を共に過ごした「団塊」たち。
その意味では、子どもたちは独立し家族を持ち、僕らはそんな子どもたちとは人生の中の「別れ」を見る。
振り返れば、僕らはまた、あの10代、20代の頃のような「自分」の時代が還ってきた。
自分たちのことは自分たちで「創る」しかない。
というよりは躍動する現役世代には、僕ら団塊世代のニーズは見えないし、探れない。
そしたら、自分たちで、それを作るしかない。還ってきた時代の中に。
「団塊世代」。それは「不思議な国のアリス」なのかも知れない。夢の世界の住人だった。
自分が夢をみていたことに気づいたアリスは、姉に自分の冒険を語って聞かせたあとで走り去ってゆく。一人残った姉はアリスの将来に思いを馳せる。
<出典:ja.wikipedia.org>
皆さん、どうぞ“JJ & BB cafe”へお出かけください。
古き友人との待ち合わせに、語らいに。
そして、あなたの「昔取ったキネヅカ」をご披露ください・・・・・
ギターを弾くもよし、歌うもよし。
そして、「団塊の主張」も、ご遠慮なくどうぞ!!
なお、近日中にはキネヅカ「べーごま大合戦!!」も企画してます。
もちろん、ライブは随時。
そして「歌のお姉さん?」をお招きしての「歌声喫茶」も!!
それでは、ご拝読ありがとうございました。
キネヅカ倶楽部
“JJ & BB cafe”(´∀`)
“JJ & BB cafe”(´∀`)

様々な方から励ましのメールを頂いて、
感謝感激しているところです。
また、“JJ & BB cafe”オープンの時には・・・・・・
多くの“キネヅカさん”のご光来にも、
なんのおもてなしもできずに申し訳ない限りですm(_ _)m
そして改めて心より感謝申し上げる次第です。
団塊生きき現役
高崎のNPO中高年の交流拠点
そんな見出しで・・・・・・
平成26年元旦の上毛新聞【社会】(26)に!!
高崎に中高年向け喫茶サロン
高齢化が進む高崎市の旧市街地ににぎわいを取り戻そうと、NPO法人キネヅカ倶楽部(町田貞行理事長)が昨年12月、同市九蔵町に中高年向け喫茶サロン「JJ&BBcafe」を開業した。どこか懐かしい雰囲気の店構えで、中高年が気軽に立ち寄れる交流スペースを提供。ライブハウスの機能も備え、ジャズやフォーク、ポップスなど音楽の発信拠点にする。
店は中高年が青春時代を過ごしたころの喫茶店をイメージし、町田理事長の自宅車庫を改装。テーブルや椅子はあえて低いものを配置し、時間を気にせずくつろいでもらえる雰囲気にした。メニューはコーヒー、紅茶をはじめ、モーニングセット、ナポリタン、カレーなど〝定番〟ぞろいだ。
喫茶サロンは午前7時~午後11時。年始は5日まで休み。問い合わせは事務局
<引用:上毛新聞 更新日時:2014年1月1日(水) AM 07:00>
ソース:http://www.jomo-news.co.jp/ns/2513884982905293/news.html
>中高年が気軽に立ち寄れる交流スペースを提供。
「団塊世代」。気づいたら“アラカン”も過ぎて・・・・・
しんがりの「団塊」諸先輩は間もなく古希に。
そんな僕らが10代、20代の頃の高崎は正しく“街”そのものが百花繚乱していた。
その時代背景としては「70年安保」を直前に世の中は騒然としていたが、
その世相そのものは高度経済成長の真っ只中で「昭和元禄」といわれた時代。
「昭和元禄」。言わずもがな、わが郷土の誉れ「福田赳夫元首相」は当時(昭和39年)自民党政調会長、
翌年(昭和40年)佐藤政権下で大蔵大臣に就任した、ちょうどその頃の“造語”。
因みに、僕の「昭和24歳」も実は福田赳夫元首相、その総理大臣就任時御年“71歳”であったため、
高齢を心配する各界に向けて「私は明治38歳」といって、若さを演出した・・・・・
そんな、「昭和元禄」にはこの高崎の街には「藤五百貨店」が開店して僕も初めて「エレベーター」に乗せてもらった、
とにかく、街中が躍動していた、そんな時代、世相だった「団塊」が成人式の時代。
当時の高崎の街中は「犬もお歩けば棒」、そんな状態で高崎駅前から、本町三丁目辺りまで「喫茶店」ができていた。
当時は「ライブハウス」という概念はなかったが、高崎駅前路地裏のジャズ喫茶“モーニン”、
そして、連雀町交差点近くの「喫茶ローマ」では週末になると高経のジャズ研とかフォーククラブがライブを。
もっとも、当時の僕らはといえば「エレキ」=「不良」という代名詞の中、喫茶店というよりは、
駅近くにあった砂賀町の「社交」というダンスホール。そこでは未だミュージックシーンの歴史としては・・・・・
“ビートルズ”は存在していなかった。プレスリーを代表とする「ロカビリー時代」で、
ようやく聴こえてきたのがあの「エレキサウンド」の“ベンチャーズ”とか“アストロノーツ”。
僕らはもっぱら、そんな「ロカビリー」を、そのダンスホール「社交」と中銀にあった「みゆき」で「不良」だった(笑)。
それは、いわゆる「モンキーダンス」「ゴーゴー」とか言われた代物で、それまでの「ロカビリー」にな洗練された、
「インストルメンツ」で、「ロカビリー」はダサイ。といった感じで夢中になって「ベンチャーズ」をコピーし始めた。
もっともそうだ、今現在でも、言われる「団塊世代」を大きく20年生まれから30年生まれ頃までとし、
その人口構成から見たら、おおよそ“1000万人”のマーケットが存在(顕在)している。
その意味からすれば「寂れ行く旧市街地」、これはけして高崎市だけの問題ではなく、全国の地方都市・・・・・
そこから、その“1000万人”を構成するマーケットが時代から無視され無視され続けてきた結果ではないか。
たしかに、ティーンエイジャー市場は言われる「カワイイ」での評価はあるが、
その市場規模は極めて小さく、ただ、リサイクルを待つのみではないのか、いわゆる「アキバ現象」もそれだ。
翻って「団塊世代」がこの街中にそのコンシュマーとして出かけてもそこに「団塊」を消費者とする市場が見えない。
そこで言えるのは、市場の創造は、その人生の中で一番パッションのある時代・・・・・
子育て世代が子供のために消費する経済、そしてその子供たちが10代、20代となって、自由意志で消費する経済。
僕らもそうだった。昭和50年に結婚して3人の子供を育てて、そこでの消費、経済規模がこの国のGDPを創造してきた。
そして、僕ら「団塊」のそれは終わった・・・・・・
そこで、気づいたとき、僕ら「団塊」が嬉々とする「マーケット」のほとんどが消滅していた。
ふと思うと、僕ら「団塊世代」は自分たちがコンシュマーでありながら、20代の頃には「サプライヤー」になっていた。
つまり、「僕ら」が欲しいものは「僕ら自身」が作ってきた。
それは、ファッションであり、車であり、雑誌であり、そして音楽であり・・・・・
結局、リタイアさせられてしまった「団塊世代」には、団塊の僕らのニーズが分かっていながらも、
その供給市場からスポイルされ、せっかく1000万人からの市場規模がありながら「デスマーケット」になってしまっている。
市場では喧伝されているが「持つ」市場から「借りる」市場へ。つまり、「TSUTAYA現象」とでも言うのか。
「ソフト」を「持つ」のではなく「借りる」、利用するだけ。
それは、ある意味「文化」を形として残さず、「使い捨て」される・・・・・
そこでは、かつて「団塊世代」の時代ならその「ソフト」が、今、アルバムなら3000円くらいするんだろうか?
それを、みんなが競って買い求めた、そしてそれを「持つ」ことにステータスを感じていた。
僕の友人でも数百枚と昔のLPアルバムを所蔵する。これは、それを1000万人のマーケットとしてとらえたとき、
巨大な「マーケット」がそこに、その時代にあったということだろう。
しかし、それはある日突然にそうした市場が消滅したわけではなく、僕ら「団塊世代」も仕事に夢中になった時代、
そして、子育てに一生懸命になった時代。そんな時代には自分たちへの「市場」は忘れていた・・・・・
ということがあった、という現実を忘れてはならない。
それは時代なのかもしれないが、ぼくの「エレキづくり」という仕事も次第にその「市場」からの退場を宣告された。
たしかに、今の「借りる」という概念も、実に合理的だし、無駄のないマーケットの想像だと思う。
しかし、そのことは経済規模としての「メガマーケット」を、極めて小さなものにしてしまっている。
「TSUTAYA」で一曲100円、ダウンロード。僕らはその一曲のために3000円のアルバムを買った・・・・・・
そしてその中から、その一曲以外のフェヴァリットを探すのも楽しみだった。
そんな僕ら「団塊世代」も、市場から消えるだけではなく、この世からも確実に長くてあと20年で消える。
この、1000万人の「消費者」が次第次第に消える。去年も僕の同世代、
ともに音楽をライフワークとしてきた友人二人を亡くした、そんな彼らも「持つ」人だった。
まさかの「死」ではあったが、考えてみれば65歳の先輩と、62歳の後輩、それは自然の中の一つの現象ではと。
そんな、先輩後輩の突然の死で、多くの古い友人とも再会を果たした・・・・・・
そしてそれを機に、再び「音楽活動」を胎動させた。まさに「胎動」だった。
当然、僕もわからない、それが、その「死」がいつ来るのかは。しかし近い将来必ずそれは来る。
しかし、この戦後の日本に生まれ、文化、その一つの価値観を共有し、一つの時代を共に過ごした「団塊」たち。
その意味では、子どもたちは独立し家族を持ち、僕らはそんな子どもたちとは人生の中の「別れ」を見る。
振り返れば、僕らはまた、あの10代、20代の頃のような「自分」の時代が還ってきた。
自分たちのことは自分たちで「創る」しかない。
というよりは躍動する現役世代には、僕ら団塊世代のニーズは見えないし、探れない。
そしたら、自分たちで、それを作るしかない。還ってきた時代の中に。
「団塊世代」。それは「不思議な国のアリス」なのかも知れない。夢の世界の住人だった。
自分が夢をみていたことに気づいたアリスは、姉に自分の冒険を語って聞かせたあとで走り去ってゆく。一人残った姉はアリスの将来に思いを馳せる。
<出典:ja.wikipedia.org>
皆さん、どうぞ“JJ & BB cafe”へお出かけください。
古き友人との待ち合わせに、語らいに。
そして、あなたの「昔取ったキネヅカ」をご披露ください・・・・・
ギターを弾くもよし、歌うもよし。
そして、「団塊の主張」も、ご遠慮なくどうぞ!!
なお、近日中にはキネヅカ「べーごま大合戦!!」も企画してます。
もちろん、ライブは随時。
そして「歌のお姉さん?」をお招きしての「歌声喫茶」も!!
それでは、ご拝読ありがとうございました。
キネヅカ倶楽部
“JJ & BB cafe”(´∀`)
Posted by 昭和24歳
at 19:14
│Comments(2)
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今度はJJ & BB cafeにもお邪魔させていただきます。
いま思うと、「風」の看板、譲ってもらっておけばよかったなー。