2013年02月14日
グアム島通り魔殺人事件!!
グアム島通り魔殺人事件!!

<グアム無差別殺傷>51歳男性も死亡 日本人犠牲者3人に
米領グアム島の繁華街タモン地区で12日夜に起きた無差別殺傷事件で、新たに日本人男性1人が14日午前に死亡したことがグアムの在ハガッニャ総領事館への取材で分かった。領事館によると、男性は横田仁志(ひとし)さん(51)。亡くなった上原和子さん(81)と杉山利恵さん(28)=いずれも栃木市=らのグループとは別に現地を訪れていた。
<抜粋引用:毎日新聞 2月14日(木)12時59分配信>
ソース:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130214-00000047-mai-soci
それにしても悲惨な事故です。
タモン地区ですか・・・・・
僕が初めてグアムに行ったのは1974年。
三度行ったが、いずれも滞在はタモンの「リーフホテル」。
まっ、そこにかなり近いところなんだが・・・・・
1974年、あの頃は道も舗装されてなくて、
信号がひとつもないとか言ってたな、ホテルの人。
で、当時の観光名所は「横井庄一さん」が隠れていたという穴ぐら。

発見されたのが1972年1月。ってぇことは・・・・・
28年間もそこに潜んでたってぇんだからすごいよねぇ(゚o゚;;
まっ、今じゃ忘れられた存在かもしれませんね。
で、ツアーバスで連れてがれるかも(笑)。
そんなわけで、1974年11月・・・・・
未だ独身の頃だったが所謂「ヒッピー」というのが流行っていた頃のことだ。
既にベトナム戦争は終わり、学生運動も拍子抜けした頃のことで、
その矛先は「成田闘争」へと向かっていた、そんな時代。
「グァムで商売になるぜ」
と、バンド仲間の米国籍の奴が言った・・・・・
要するに、グァム島に日本の「ヒッピー商品」を卸すのだという。
実はその頃は70年代も半ば、ロックもだいぶ下火になっちゃって、
僕らは拠点を恵比寿と軽井沢に移し、
軽井沢のバーゲン屋で一年を暮らそうなんていういい加減な若造だった。
若造とはいっても既に24歳になっていて、それでも虚勢を張るわけでもなく・・・・・・
実は、いっぱしのつもりでいた。今思うとお恥ずかしいが。
あの時代、軽井沢でひとシーズン2、3坪の店を借りて家賃40万くらいだっただろうか。
とにかく極楽トンボの青春、最後の時代だった。
12月、浅草橋、横山町で子供だましのアクセサリーを50万ほど仕入れてグァム島に持込んだ。
それをグァム島の商店にセールスして歩くのだ・・・・・
グァム島にはなぜか、インド人の商店主が一番多かった。
その次が、華僑、そして韓国人。
で、グァム島には周りの島々からクリスマスの頃ともなるとその商店主が仕入れにくるのだそうだ。
持込んだ商品は二日ばっかりで全て売れた。
聞けば、インド人は無茶苦茶商売上手だという・・・・・
そう言えば、香港でもインド人の商店主は多かった。
まあ、インド人とはいっても、あの手の顔は僕なんかはみんなインド人に見えてしまうから、
それが正真正銘のインド人であるかどうかは定かではない。
で、11月末、雨季にさしかかったグァム島は雨ばかり・・・・・
それも日本でいえば台風のような雨。スコールとか。
それに海にはナマコの大群で、とてもじゃあないが遊ぶどこではなかった。
テレビで見てびっくり、その頃はリーフホテルの前の道を隔てたところは原っぱ。
そういえば一軒、怪しげなポルノショップがあったっけ(笑)。
もっとも34年前の話だし(^^ゞ
しかしアレです、人間いつどんな不幸が襲いかかるかわかりませんね。
ほんとは分かってるのかもしれないけど・・・・・・
81歳と28歳の母娘、娘さんは子どもをかばって犠牲になっちゃったとか。
まあ、日本で普通に暮らしてたっていつなんどきってぇ時代ですから、
ほどほどの「万事塞翁が馬」でしょうか。
グアム島通り魔殺人事件!!

<グアム無差別殺傷>51歳男性も死亡 日本人犠牲者3人に
米領グアム島の繁華街タモン地区で12日夜に起きた無差別殺傷事件で、新たに日本人男性1人が14日午前に死亡したことがグアムの在ハガッニャ総領事館への取材で分かった。領事館によると、男性は横田仁志(ひとし)さん(51)。亡くなった上原和子さん(81)と杉山利恵さん(28)=いずれも栃木市=らのグループとは別に現地を訪れていた。
<抜粋引用:毎日新聞 2月14日(木)12時59分配信>
ソース:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130214-00000047-mai-soci
それにしても悲惨な事故です。
タモン地区ですか・・・・・
僕が初めてグアムに行ったのは1974年。
三度行ったが、いずれも滞在はタモンの「リーフホテル」。
まっ、そこにかなり近いところなんだが・・・・・
1974年、あの頃は道も舗装されてなくて、
信号がひとつもないとか言ってたな、ホテルの人。
で、当時の観光名所は「横井庄一さん」が隠れていたという穴ぐら。

発見されたのが1972年1月。ってぇことは・・・・・
28年間もそこに潜んでたってぇんだからすごいよねぇ(゚o゚;;
まっ、今じゃ忘れられた存在かもしれませんね。
で、ツアーバスで連れてがれるかも(笑)。
そんなわけで、1974年11月・・・・・
未だ独身の頃だったが所謂「ヒッピー」というのが流行っていた頃のことだ。
既にベトナム戦争は終わり、学生運動も拍子抜けした頃のことで、
その矛先は「成田闘争」へと向かっていた、そんな時代。
「グァムで商売になるぜ」
と、バンド仲間の米国籍の奴が言った・・・・・
要するに、グァム島に日本の「ヒッピー商品」を卸すのだという。
実はその頃は70年代も半ば、ロックもだいぶ下火になっちゃって、
僕らは拠点を恵比寿と軽井沢に移し、
軽井沢のバーゲン屋で一年を暮らそうなんていういい加減な若造だった。
若造とはいっても既に24歳になっていて、それでも虚勢を張るわけでもなく・・・・・・
実は、いっぱしのつもりでいた。今思うとお恥ずかしいが。
あの時代、軽井沢でひとシーズン2、3坪の店を借りて家賃40万くらいだっただろうか。
とにかく極楽トンボの青春、最後の時代だった。
12月、浅草橋、横山町で子供だましのアクセサリーを50万ほど仕入れてグァム島に持込んだ。
それをグァム島の商店にセールスして歩くのだ・・・・・
グァム島にはなぜか、インド人の商店主が一番多かった。
その次が、華僑、そして韓国人。
で、グァム島には周りの島々からクリスマスの頃ともなるとその商店主が仕入れにくるのだそうだ。
持込んだ商品は二日ばっかりで全て売れた。
聞けば、インド人は無茶苦茶商売上手だという・・・・・
そう言えば、香港でもインド人の商店主は多かった。
まあ、インド人とはいっても、あの手の顔は僕なんかはみんなインド人に見えてしまうから、
それが正真正銘のインド人であるかどうかは定かではない。
で、11月末、雨季にさしかかったグァム島は雨ばかり・・・・・
それも日本でいえば台風のような雨。スコールとか。
それに海にはナマコの大群で、とてもじゃあないが遊ぶどこではなかった。
テレビで見てびっくり、その頃はリーフホテルの前の道を隔てたところは原っぱ。
そういえば一軒、怪しげなポルノショップがあったっけ(笑)。
もっとも34年前の話だし(^^ゞ
しかしアレです、人間いつどんな不幸が襲いかかるかわかりませんね。
ほんとは分かってるのかもしれないけど・・・・・・
81歳と28歳の母娘、娘さんは子どもをかばって犠牲になっちゃったとか。
まあ、日本で普通に暮らしてたっていつなんどきってぇ時代ですから、
ほどほどの「万事塞翁が馬」でしょうか。
グアム島通り魔殺人事件!!
Posted by 昭和24歳
at 18:05
│Comments(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。