2012年04月24日
高崎モノクローム
高崎モノクローム
毎日の病院通い・・・・・
これまでと全くちがった街の風景。
家から高崎問屋町駅まで徒歩10分。今までほとんど歩いたことがなかった。
「こんなところに駅つくりやがって」
そう思った、あの頃の自分が恥ずかしい・・・・・
確かに利用者は少ないが、その少ない利用者にとってはかけがえのないそこ。
クルマがなければ何一つ用を足せない「ぐんま」。
思いがけない「塞翁が馬」に、クルマをしばらく止めてみることにした。
問屋町駅から高崎駅まで3分の乗車、高崎駅から旧国立病院までは徒歩15分・・・・・
僕らが子供の頃とすっかり変わっちまった「街の風景」。
それは、やけに「モノクローム」な風景。
あの時代は「総天然色」だった街中。歩いて数分のところに数軒の映画館。
それが今はたったの一つもない(高崎映画祭でおなじみのそれはあるが)どことなくイデオローグで好きじゃない。
昔、あんなにあった喫茶店も、たったの一軒もない・・・・・
食堂もない、八百屋もない、魚屋もない、肉屋さんもない、な~んにもない。
人の住む気配の全くなくなっちまった街並み。確かにそこには高層マンションとやらがワレをと競ってはいるが、一体全体そこにはどんな人が生活しているのやら、想像すら起たない。
そんな街を歩く。やたらめったら広くなった道路、これは歩きづらい。
ここ高崎も「都市再開発」とやらで、喧しかったが、「再開発」が終わったら、そこからは「人」が消えていた。
まあ、戦後っ子のほとんどが還暦を過ぎていれば、時代は変容するだろう・・・・・
しかし、今日、現代は、「あの頃」とは違って、次に何が来るのかが全く想像できない。
それは、とりもなおさず「夢」がなくなっちまったっていうことではないだろうかと。
「スクラップ・アンド・ビルド」
そのつもりだったんだろうが、そこには「スクラップ」が健気にも散見する。
いや、その「スクラップ」こそがこの街の文化だったんじゃあないかと・・・・
僕らの世代の「VAN」も「JUN」もない、それどころか娘たちの「メルローズ」も「ビギ」もない。
そんな街中、病院までのすがら、行き交う人は数をかぞえるほど。
病院に到着する。
そこは旧大日本帝国第十五連隊の病棟、旧高崎国立病院。
僕の父、大正元年生まれ、53歳で逝ったところ・・・・・
そして、彼女の父も76歳で。
それが今ではそのほとんどがコンピュータ管理された、
「独立行政法人 国立病院機構 高崎総合医療センター」と改称された白い巨塔。
病院臭の感じさせないその雰囲気に戸惑う・・・・・
「また忘れたの??
メモ、ちゃんと書いてあげたのに・・・・
家の中、ちゃんと掃除してる???
冷蔵庫の中は?
明日はゴミの日よ!!」
まあ、体は不自由だが、その分、以前にも増して口が達者に(笑)。
一日に2回の「リハビリ」と歩行器を使ってのフロア周遊・・・・・
腰椎上部の椎間板3箇所を「人口椎間板移植」で身長が元に戻った。163センチ。
リウマチの本番は「膝関節損傷」。
再来週にはここは退院できるとかだが、5月29日には、今度は膝のそこの移植手術が待っている。
窓から見える浅間山の雪解けも早い・・・・・
榛名山も春を迎えて蒼く眩しい。
「きゅうりの塩もみ」が食べたいとか、今娘が作ってる。
あの頃、3歳だった娘が。
「パパ、明日から補習だからママのところいけないから、パパが持ってってね、きゅうりの塩もみ」
僕と二人だけの生活・・・・・
「パパ、ご飯炊いておいたから、魚も焼いといたから、食べたらちゃんと片付けておいてね」
この、5月12日で18歳になる娘、母のこの大事も「塞翁が馬」と見ているようだ。
ママが元気でいる頃は、朝寝坊で学校も遅刻の常習。それが朝6時には起きて朝シャン。
そして、朝食の用意。で、僕への小言もママそっくり(笑)。
今日、病院からの帰り道、思いがけない人に遭遇した。
それは、モノクローム、セピアに焼けた思い出の一葉の中の人に30年ぶり・・・・・
高崎モノクローム
毎日の病院通い・・・・・
これまでと全くちがった街の風景。
家から高崎問屋町駅まで徒歩10分。今までほとんど歩いたことがなかった。
「こんなところに駅つくりやがって」
そう思った、あの頃の自分が恥ずかしい・・・・・
確かに利用者は少ないが、その少ない利用者にとってはかけがえのないそこ。
クルマがなければ何一つ用を足せない「ぐんま」。
思いがけない「塞翁が馬」に、クルマをしばらく止めてみることにした。
問屋町駅から高崎駅まで3分の乗車、高崎駅から旧国立病院までは徒歩15分・・・・・
僕らが子供の頃とすっかり変わっちまった「街の風景」。
それは、やけに「モノクローム」な風景。
あの時代は「総天然色」だった街中。歩いて数分のところに数軒の映画館。
それが今はたったの一つもない(高崎映画祭でおなじみのそれはあるが)どことなくイデオローグで好きじゃない。
昔、あんなにあった喫茶店も、たったの一軒もない・・・・・
食堂もない、八百屋もない、魚屋もない、肉屋さんもない、な~んにもない。
人の住む気配の全くなくなっちまった街並み。確かにそこには高層マンションとやらがワレをと競ってはいるが、一体全体そこにはどんな人が生活しているのやら、想像すら起たない。
そんな街を歩く。やたらめったら広くなった道路、これは歩きづらい。
ここ高崎も「都市再開発」とやらで、喧しかったが、「再開発」が終わったら、そこからは「人」が消えていた。
まあ、戦後っ子のほとんどが還暦を過ぎていれば、時代は変容するだろう・・・・・
しかし、今日、現代は、「あの頃」とは違って、次に何が来るのかが全く想像できない。
それは、とりもなおさず「夢」がなくなっちまったっていうことではないだろうかと。
「スクラップ・アンド・ビルド」
そのつもりだったんだろうが、そこには「スクラップ」が健気にも散見する。
いや、その「スクラップ」こそがこの街の文化だったんじゃあないかと・・・・
僕らの世代の「VAN」も「JUN」もない、それどころか娘たちの「メルローズ」も「ビギ」もない。
そんな街中、病院までのすがら、行き交う人は数をかぞえるほど。
病院に到着する。
そこは旧大日本帝国第十五連隊の病棟、旧高崎国立病院。
僕の父、大正元年生まれ、53歳で逝ったところ・・・・・
そして、彼女の父も76歳で。
それが今ではそのほとんどがコンピュータ管理された、
「独立行政法人 国立病院機構 高崎総合医療センター」と改称された白い巨塔。
病院臭の感じさせないその雰囲気に戸惑う・・・・・
「また忘れたの??
メモ、ちゃんと書いてあげたのに・・・・
家の中、ちゃんと掃除してる???
冷蔵庫の中は?
明日はゴミの日よ!!」
まあ、体は不自由だが、その分、以前にも増して口が達者に(笑)。
一日に2回の「リハビリ」と歩行器を使ってのフロア周遊・・・・・
腰椎上部の椎間板3箇所を「人口椎間板移植」で身長が元に戻った。163センチ。
リウマチの本番は「膝関節損傷」。
再来週にはここは退院できるとかだが、5月29日には、今度は膝のそこの移植手術が待っている。
窓から見える浅間山の雪解けも早い・・・・・
榛名山も春を迎えて蒼く眩しい。
「きゅうりの塩もみ」が食べたいとか、今娘が作ってる。
あの頃、3歳だった娘が。
「パパ、明日から補習だからママのところいけないから、パパが持ってってね、きゅうりの塩もみ」
僕と二人だけの生活・・・・・
「パパ、ご飯炊いておいたから、魚も焼いといたから、食べたらちゃんと片付けておいてね」
この、5月12日で18歳になる娘、母のこの大事も「塞翁が馬」と見ているようだ。
ママが元気でいる頃は、朝寝坊で学校も遅刻の常習。それが朝6時には起きて朝シャン。
そして、朝食の用意。で、僕への小言もママそっくり(笑)。
今日、病院からの帰り道、思いがけない人に遭遇した。
それは、モノクローム、セピアに焼けた思い出の一葉の中の人に30年ぶり・・・・・
高崎モノクローム
Posted by 昭和24歳
at 19:58
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