2012年02月21日
【雲助バンド】40年ぶりの再会!!
【雲助バンド】
40年ぶりの再会!!

懐かしいメンバーが40年ぶりに全員そろった。
リーダーの鈴木キサブローさん、マネージャーの松村さん、ボーカルの志保君、
ベースの丸山さん、ドラムのオトヤ、ギターのおスエちゃん・・・・・
そして、オトヤの後釜の僕。いつの間にかみんな、昔の顔になっていた。
雲助バンド(上)
お末ちゃんが池袋西口に高崎時代からの彼女、「スミちゃん」と同棲を始めたのはその三ヶ月ほど前のことだった。
池袋駅、その西口から山手通りの方に一キロほどのところだっただろうか、「東京トヨペット」池袋営業所の前の路地を入った、所謂「1DK」と言うやつかだっただろうか。
僕の一人暮らしとは違って「お末ちゃんとスミちゃん」、その愛の巣は青春の物語がぷんぷんしていた。
何の事はない、高崎を出る時既に二人は硬い契りを交わしていたのだった・・・・・
スミちゃんは高校を卒業するとデザインスクールへ入学するために東京へ行くことになっていたらしい。
その時分、流行はじめの「専門学校」へ通う為の上京であったが上手く示し合わせての、
お末ちゃんはミュージシャン、ギタリスト修行の「東京生活」を決めていたようであった。
まさに「神田川」・・・かぐや姫じゃあないが忘れられない一生のアルバムの一ページではなかっただろうか。
と言うのも、今、二人は共に、五〇と五四。そして一姫二太郎の幸せな家庭を築いている。
「専門学校」と云えば、あの時代「セツ・モードセミナー」とか「千代田デザイナー学院」、
そして「東京デザイナー学院」とか、全国から「夢見る若造」が集るようにして、東京へ、東京へと来ていた。
なんのことはない、僕もその「若造」の内の一人だった・・・・・
バンドブーム「GSブーム」も去りロックシーンとしてはハードロック系フォーク系が入り乱れていた頃で、
その頃高崎の時代から目覚め始めていた「ブルース」の、ミュージシャン修行のつもりで一人、東京に出てきた。
その頃のミュージックシーンといえば、なぜかその黒人音楽の「ブルース」が静かなブームを呼び始めていた。
と言うのも、ヴェンチャーズ、ビートルズ、グループサウンズときた僕らの時代・・・・・
それも、アメリカのロックの祭典「ウッドストック」を契機に、ジミー・ヘンドリンクスとか、ザ・バンドとか、
そしてオールマンブラザースとかのように次第次第に「ブルース」にシフトして行った。
もっとも高崎にいた頃から、ジョン・メイ・オール、マウンテン、そしてブリティッシュロックからブルースに変っていった、
エリック・クラプトン、ジェフ・ベックそれらをコピーして自己陶酔の世界に嵌っていたのだった。
「ナベさん・・・これ聴かなくちゃ、これ」
そう言ってお末ちゃん、御茶ノ水のディスクユニオンとかで買い集めた「マディー・ウオーターズ」、「BBキング」、
そしてさらに渋めの「T・ボーン」とかを、何度も何度も僕に聴かせた。
当時は既にダンスホールも下火になっていて、僕らがいつも出演していた「みゆきダンスホール」もその頃は客もまばらだった。もっとも、ブルースじゃあ踊れない、「R&B」じゃあないし(笑)。
「堀さん・・・もっと踊れる曲やってくんなくちゃあ」
ダンスホール「みゆき」のママもその時代の移ろいを感じながらバンマスの「堀さん」こと、
お末ちゃんの兄貴のベーシスト、清美ちゃんにこぼすように言うのだった。
お末ちゃんは先に東京でバンド活動をしていた「オトヤ」と「南阿佐ヶ谷ブルースバンド」のベーシスト「丸山さん」、
そして彼、丸山さんが連れてきた、「キサブローさん」に・・・・・・
「なぎら健壱と缶けり仲間」と云うばんどに参加していた「志保くん」、そんなメンバーで「雲助バンド」と云う、
それはそれは変な名前のブルースバンドを組んで、新宿、荻窪、高円寺など、中央線沿線でライブ活動をしていて、
新宿ロフト、マガジン1/2、西荻窪のロフトとかでブルースをやっていた。
「マガジン1/2」ではブルースバンドとしては当時新進気鋭の「ウエストロードブルースバンド」との対バンもこなしていた。
「ウエストロードブルースバンド」
それは、今ではその筋では多くのファンを持つ、国内トップブルースギタリストの「塩次伸次」さん、
そしてボーカルの「ホトケ」さん、ついでと云っては失礼だが山岸さんは当時未だ学生で店の中を飛び回っていた。
それになんと云っても光っていたのがリズム隊の松本さんと小堀さん・・・・・・
それにブルースハープの第一人者妹尾さんといった豪華メンバーだった。
雲助バンドは新宿の「御苑スタジオ」で練習をしていた。リーダーはギターボーカルのキサブロー。
「雲助バンド」はキサブロー作詞作曲の日本語オリジナルのブルースしかやらなかった。
「参っちゃうんだよな、日本語でブルースだよ」
と、お末ちゃん。お末ちゃんは高崎にいる頃からジョンメイオール、ピーターグリーン、マディーウォーター、
そんな、ディープなブルースに嵌っていたから今一、その「日本語オリジナルブルース」に乗り切れない様子だった。
お末ちゃんはグレコのレスポールモデル、キサブローさんは確か「SG」。
本物のギブソンだったかグレコだったかは記憶は定かでは無いが。
ボーカルの志保君は何でも北陸の方の出身でヒョロットした、コミカルな未だ少年ぽさの残る愉快な奴だった。
なんでも「商船高校」、船乗りの学校を出ていたと云うが「海の男」の匂いは感じさせなかった。
ただ、声は「海」で鍛えたかのようなハスキーでブルースにはうってつけの声をしていた。
ひょうきんで「MC」もかなりいけていて、後で気がついたのだが「なぎらけん壱と缶けり仲間」だったのも頷けた。
丸山さんは、東武東上線の上板橋に住んでいた・・・・・
何度か訪ねた事があるが今風に云えば、フリーター兼バンドマンでどことなく人の良さそうな都会っ子風、そんな趣。
丸山さんは赤穂浪士討入りのようなヘアースタイルで、たしかホンモンの「フェンダープレシジョンベースを弾いていた。
当時は「南阿佐ヶ谷ブルースバンド」のベーシストとして中央線沿線では幅を利かせていたようだ。
荻窪、新宿の「ロフト」、「マガジン」と丸山さんの関係のブッキングだったとか。
キサブローさんは青森、弘前の出身。歌舞伎町のコマ劇場裏のレコーディングスタジオでバイトをしていた。
同郷の彼女と同棲していた。彼女は何でもコマ劇場の裏手の「ミルクスタンド」でバイトをしていて・・・・・・
僕もお末ちゃんも何度か牛乳などをそこで飲んだ事がある。とても愛想のいい「りんごちゃん」だったかな。
で、僕なんだが、何かの都合でオトヤが高崎に帰ってしまったので・・・・・
当時はまだ渋谷「ジャンジャン」でしごかれていた僕だったがその「雲助バンド」を手伝う事になった。
【雲助バンド】
40年ぶりの再会!!
40年ぶりの再会!!

懐かしいメンバーが40年ぶりに全員そろった。
リーダーの鈴木キサブローさん、マネージャーの松村さん、ボーカルの志保君、
ベースの丸山さん、ドラムのオトヤ、ギターのおスエちゃん・・・・・
そして、オトヤの後釜の僕。いつの間にかみんな、昔の顔になっていた。
雲助バンド(上)
お末ちゃんが池袋西口に高崎時代からの彼女、「スミちゃん」と同棲を始めたのはその三ヶ月ほど前のことだった。
池袋駅、その西口から山手通りの方に一キロほどのところだっただろうか、「東京トヨペット」池袋営業所の前の路地を入った、所謂「1DK」と言うやつかだっただろうか。
僕の一人暮らしとは違って「お末ちゃんとスミちゃん」、その愛の巣は青春の物語がぷんぷんしていた。
何の事はない、高崎を出る時既に二人は硬い契りを交わしていたのだった・・・・・
スミちゃんは高校を卒業するとデザインスクールへ入学するために東京へ行くことになっていたらしい。
その時分、流行はじめの「専門学校」へ通う為の上京であったが上手く示し合わせての、
お末ちゃんはミュージシャン、ギタリスト修行の「東京生活」を決めていたようであった。
まさに「神田川」・・・かぐや姫じゃあないが忘れられない一生のアルバムの一ページではなかっただろうか。
と言うのも、今、二人は共に、五〇と五四。そして一姫二太郎の幸せな家庭を築いている。
「専門学校」と云えば、あの時代「セツ・モードセミナー」とか「千代田デザイナー学院」、
そして「東京デザイナー学院」とか、全国から「夢見る若造」が集るようにして、東京へ、東京へと来ていた。
なんのことはない、僕もその「若造」の内の一人だった・・・・・
バンドブーム「GSブーム」も去りロックシーンとしてはハードロック系フォーク系が入り乱れていた頃で、
その頃高崎の時代から目覚め始めていた「ブルース」の、ミュージシャン修行のつもりで一人、東京に出てきた。
その頃のミュージックシーンといえば、なぜかその黒人音楽の「ブルース」が静かなブームを呼び始めていた。
と言うのも、ヴェンチャーズ、ビートルズ、グループサウンズときた僕らの時代・・・・・
それも、アメリカのロックの祭典「ウッドストック」を契機に、ジミー・ヘンドリンクスとか、ザ・バンドとか、
そしてオールマンブラザースとかのように次第次第に「ブルース」にシフトして行った。
もっとも高崎にいた頃から、ジョン・メイ・オール、マウンテン、そしてブリティッシュロックからブルースに変っていった、
エリック・クラプトン、ジェフ・ベックそれらをコピーして自己陶酔の世界に嵌っていたのだった。
「ナベさん・・・これ聴かなくちゃ、これ」
そう言ってお末ちゃん、御茶ノ水のディスクユニオンとかで買い集めた「マディー・ウオーターズ」、「BBキング」、
そしてさらに渋めの「T・ボーン」とかを、何度も何度も僕に聴かせた。
当時は既にダンスホールも下火になっていて、僕らがいつも出演していた「みゆきダンスホール」もその頃は客もまばらだった。もっとも、ブルースじゃあ踊れない、「R&B」じゃあないし(笑)。
「堀さん・・・もっと踊れる曲やってくんなくちゃあ」
ダンスホール「みゆき」のママもその時代の移ろいを感じながらバンマスの「堀さん」こと、
お末ちゃんの兄貴のベーシスト、清美ちゃんにこぼすように言うのだった。
お末ちゃんは先に東京でバンド活動をしていた「オトヤ」と「南阿佐ヶ谷ブルースバンド」のベーシスト「丸山さん」、
そして彼、丸山さんが連れてきた、「キサブローさん」に・・・・・・
「なぎら健壱と缶けり仲間」と云うばんどに参加していた「志保くん」、そんなメンバーで「雲助バンド」と云う、
それはそれは変な名前のブルースバンドを組んで、新宿、荻窪、高円寺など、中央線沿線でライブ活動をしていて、
新宿ロフト、マガジン1/2、西荻窪のロフトとかでブルースをやっていた。
「マガジン1/2」ではブルースバンドとしては当時新進気鋭の「ウエストロードブルースバンド」との対バンもこなしていた。
「ウエストロードブルースバンド」
それは、今ではその筋では多くのファンを持つ、国内トップブルースギタリストの「塩次伸次」さん、
そしてボーカルの「ホトケ」さん、ついでと云っては失礼だが山岸さんは当時未だ学生で店の中を飛び回っていた。
それになんと云っても光っていたのがリズム隊の松本さんと小堀さん・・・・・・
それにブルースハープの第一人者妹尾さんといった豪華メンバーだった。
雲助バンドは新宿の「御苑スタジオ」で練習をしていた。リーダーはギターボーカルのキサブロー。
「雲助バンド」はキサブロー作詞作曲の日本語オリジナルのブルースしかやらなかった。
「参っちゃうんだよな、日本語でブルースだよ」
と、お末ちゃん。お末ちゃんは高崎にいる頃からジョンメイオール、ピーターグリーン、マディーウォーター、
そんな、ディープなブルースに嵌っていたから今一、その「日本語オリジナルブルース」に乗り切れない様子だった。
お末ちゃんはグレコのレスポールモデル、キサブローさんは確か「SG」。
本物のギブソンだったかグレコだったかは記憶は定かでは無いが。
ボーカルの志保君は何でも北陸の方の出身でヒョロットした、コミカルな未だ少年ぽさの残る愉快な奴だった。
なんでも「商船高校」、船乗りの学校を出ていたと云うが「海の男」の匂いは感じさせなかった。
ただ、声は「海」で鍛えたかのようなハスキーでブルースにはうってつけの声をしていた。
ひょうきんで「MC」もかなりいけていて、後で気がついたのだが「なぎらけん壱と缶けり仲間」だったのも頷けた。
丸山さんは、東武東上線の上板橋に住んでいた・・・・・
何度か訪ねた事があるが今風に云えば、フリーター兼バンドマンでどことなく人の良さそうな都会っ子風、そんな趣。
丸山さんは赤穂浪士討入りのようなヘアースタイルで、たしかホンモンの「フェンダープレシジョンベースを弾いていた。
当時は「南阿佐ヶ谷ブルースバンド」のベーシストとして中央線沿線では幅を利かせていたようだ。
荻窪、新宿の「ロフト」、「マガジン」と丸山さんの関係のブッキングだったとか。
キサブローさんは青森、弘前の出身。歌舞伎町のコマ劇場裏のレコーディングスタジオでバイトをしていた。
同郷の彼女と同棲していた。彼女は何でもコマ劇場の裏手の「ミルクスタンド」でバイトをしていて・・・・・・
僕もお末ちゃんも何度か牛乳などをそこで飲んだ事がある。とても愛想のいい「りんごちゃん」だったかな。
で、僕なんだが、何かの都合でオトヤが高崎に帰ってしまったので・・・・・
当時はまだ渋谷「ジャンジャン」でしごかれていた僕だったがその「雲助バンド」を手伝う事になった。
【雲助バンド】
40年ぶりの再会!!
Posted by 昭和24歳
at 11:21
│Comments(1)
今は、「青い森のナリコ」となって、ネットに生きてます。
先ほど、キサブローから電話があったよ。
そんで、検索したらここにたどり着きました。
みんなお元気そうで何よりです。
来週、40年ぶりに音合わせするみたいですね。
思いっきり楽しんでください。