2011年07月21日

群馬音楽センター、50周年を春秋する。

群馬音楽センター、
開館50周年を春秋する。


群馬音楽センター、50周年を春秋する。

<昭和44年“ザ・プラネッツ”リサイタル>

ボーカルがTさん、今でも、もてなし広場の“人情市”で歌ってます。

あっ、ドラムが昭和24歳でした。

それにしてもいたずらに春秋を重ねてしまった・・・・・

半世紀の群馬音楽センターと、昭和24歳。


【コラム】三山春秋

▼富岡賢治高崎市長は今月上旬、「音楽センターは当面は保存」と明言した。JR高崎駅近くの中央体育館周辺が有力な建設候補地となっている新しい音楽ホールの完成後は、公会堂のような運用になりそうだ

▼富岡市長は「音楽センターが世界遺産のように未来永劫(えいごう)、アンタッチャブルな建築物かどうかは疑問」と付け加えた。将来的にはあらためて存廃について広く議論が必要ということだろう

▼「絶対に残すべきだ」-。音楽センターの敷地にある「昭和三十六年ときの高崎市民之(これ)を建つ」の碑に刻まれた当時の市民の思いを知る人が言った。「目に見える建物が残ってこそ伝えられるものがある」という人も多い

<抜粋引用:2011年7月18日(月) 上毛新聞ニュース>
ソース:http://www.raijin.com/news/d/2011/07/18/column.htm

それは僕が中学一年のとき・・・・・・

その7月18日が“開館”だったから、工事はほぼ竣工していた。

それでも、その群馬音楽センターの前庭には建設のために掘られた残土の山や、

巨大な建設機械が散乱するようにしてあった。

次第にその奇抜な「近代建造物」が姿を表し、当時はまだ十五連隊兵舎跡の校舎・・・・・・

高崎市立第二中学校とは、ある意味、絶妙なコントラストを見せていた。

まあ、それは僕の青春そのものといってもいい。

エレキにしびれ、明け暮れた15の時は、その音楽センターで、催事後の掃除のアルバイト。

当時で、一回“100円”だったか、一部、二部とやると200円・・・・・・

鈴木さんという管理人のオジサンから、それをいただくのがとても嬉しかった。

まあ、100円、200円といっても昭和40年前後の話で、たしか屋台ラーメン、夜鳴きが40円”、“50円”。

それが一週間に一、二度、必ずあったので、それでたしか初めて買ったエレキが75000円。

八間道路にあった「三和」?」、「丸和?」とか言った百貨店だった・・・・・・

実は、嘉多町にあったサカイレコード、そこに並んでた“グヤトーン”の18000円が欲しかったのだが、

音楽センターの掃除のアルバイトでは月に1000円ほどだったので、

75000円のノーブランドでもけっこう難儀した(笑)。

っていうか、当時は、エレキギター、ナショナル、今のパナソニックとか、ビクター製とかのも。

まあ、そんなエレキ、飛ぶように売れた時代、後々、僕がこの業界に入って知ったことだが、

松本のエレキギターメーカー、連日連夜、徹夜での作業だったとか。

もちろん、当初は、アメリカ向け輸出の“エレキ”だったわけだが、日本国内でも火がついてしまった。

今でも語り草だが、「ボーナスがテーブルの上に立った」、そんなわけで松本はエレキ成り金が・・・・・・

で、余談だけど、日本っていうのはその意味ですごいです。

まあ、“三種の神器”じゃあないけど、そもそもアメリカの下請け、輸出専門だったんだけど、

それで、国内市場を作っちゃう、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、そして自動車。

つまり、国内市場もアメリカの半分とはいえ、それはちょうどいい塩梅で、新市場投資しても回収ができる。

エレキもそうで、実は“エレキ”松本周辺の「家具職人」の内職だった・・・・・・

まあ、家具とはいっても、それも輸出用、もちろんアメリカで、そんな時下火になりかけていた“ミシン”、

そんなミシンの卓、それが用途部材としてその寸法から“エレキ”バッチリ。

で、大量の木材が名古屋港や、浜松港にアメリカから陸揚げ、それが製品になって輸出の嵐。

ちなみに、先の“グヤトーン”だが、コレは「家具屋職人」をもじって「具屋+音」、それが、

“グヤトーン”

その意味で、群馬音楽センターは「音楽の街たかさき」というよりも・・・・・・

その「高度経済成長」、この高崎市の繁栄の象徴、いわゆるモニュメントではないだろうか。


>「音楽センターが世界遺産のように未来永劫(えいごう)、アンタッチャブルな建築物かどうかは疑問」


バカを言うなである・・・・・・・

あなたのような中央での官僚生活を半世紀近く過ごした人にはわかるまい。

もちろん音楽センターが「世界遺産」などとは妄言する訳もない。

>「目に見える建物が残ってこそ伝えられるものがある」

御意である。

再開発の名のもとに街はズタズタ、ボロボロ・・・・・・

それは「市民遺産」だ。

少なくともそれがただ単なる商業感覚、算盤勘定だけだったらあの時代、

高崎市民、「音楽センター建設」はなかっただろう、着工が昭和34年だから、戦後未だ14年。

つまり、それは戦争に悲嘆した高崎市民の「復興の象徴」でもあったのではないか。

まあ、前橋市の「群馬会館」の例にもあるように遺すべき市民遺産。

群馬音楽センター、
開館50周年を春秋する。





Posted by 昭和24歳  at 18:16 │Comments(0)

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