2011年05月10日

「復興の中のニッポン」。

「復興の中のニッポン」。

「復興の中のニッポン」。

人生の深みと温かさが、心をゆるがす感動の物語。 かつて、ひとりの娼婦がいた。彼女の名前は"ハマのメリー"







あれは昭和30年頃だったろうか・・・・・

母に連れられて渋谷の伯母の家に行った時の話。

新宿駅からの京王線、「京王帝都鉄道」はまだ路面を走っていた。

今では超高層ビルの林立する副都心だが、あの頃は「淀橋浄水場」を囲むようにして・・・・・

「バラック」が土手にへばりついていた。

初台の駅を降りて甲州街道をまたぐ。

「水道道路」に向かって細い路地を行くとそこには無数の「バラック」が。

伯母の家はその「水道道路」を少し入った数分の所。

戦後復興で、タイル職人だった伯父は何人もの職人を使い進駐軍キャンプ・・・・・・・

横田とか福生の米軍住宅のタイル工事とかで滅法景気が良かった。

小学生だった僕は夏休みになるとそんな伯父の後について「アメリカ」を見るのが楽しみだった。

風呂場、いや、バスルームとか言ったんだろうか天井までがタイル張りで、

とにかく面白いと思ったのが、風呂と座式トイレがおんなじ部屋にあったこと。

「風呂桶と便所が一緒だなんて、アメリカ人って変だなぁ」

って、思わずにはいられなかった。

その昭和30年チョイといえば、それは東京大空襲の戦災で焼出され・・・未だ10年余。

今言われる「勝組」、「負け組」が可笑しいが・・・・・・

その時がまさに「それ」、勝組、負け組が背中合せに生きていた。

まあ、さしずめ、どんな理由かは知らなかったが、伯父はその羽振りからいって勝ち組。

しかし、僕の知ってる限り、当時、僕の父をはじめ、ほとんどが「負け組」。

父なんかは復員兵で、ポッポ屋で、年端もいかないMPに毎日どやされていたとか。

昔、母が話してくれた、新宿、水道道路・・・・・・

父も母も戦時中はそこに暮していたと言う。

子どものいなかった父母は、空襲の最中、防空壕には入らずに、炎火をくぐるようにして逃げ惑ったとか。

何のことはない、防空壕に逃込んだ人たちはみんな蒸し焼きにされてしまったと・・・・・

つまり、米軍の空襲から逃れるために、子どもを守るために防空壕に我先にと入った親子は不運にも。

つまり、人生って分からない。

防空壕に入れて、「ラッキー」と思っていたら、蒸し殺しされてしまって、

子どもがいないからと、防空壕を遠慮して生き延びることができた。

「人生って分からない」。

そして、そんなこんなの毎日、からがらに、母は実家、高崎まで逃げてこれたと言っていた。

父はその当時、東京駅に勤務していて、そのこともあってか、幸運にも母は汽車には乗れたらしい。

で、その水道道路の「バラック」だが、それは東京オリンピックまでには・・・・・・

そう、それは、まるで何事もなかったように記録から消された。

その水道道路の土手にへばりつくようにしてバラックに暮らしていた子ども達。

母も伯母も僕がそこに近寄ることを許さなかった。

かき消された記録・・・・・

でも、僕の記憶には今も鮮明にその光景は残っている。

そして、伯母も、伯父も、父も母も・・・・・もう、いない。

あの時のあの光景・・・・・

あの時代の言葉を借りれば「神」も「仏」もない。

幸いに僕はその記録がかき消された跡を生きている。

あの時の僕と同じくらいの年の子ども達は今・・・何処にいるのだろうか。

どこでどうしてるだろうか、初老を迎えながら・・・・・・

暗闇の地べたにへたりついていた、オジサン、オバサンたちのその後は。

記録とともに消されてしまったのか・・・・・


「復興の中のニッポン」。

新宿淀橋浄水場、現在のの新宿副都心です。その向こうに水道道路がつながる・・・・・・


それとも、記憶の中のまま何処かで暮しているのだろうか。

「戦災孤児狩り」、「パンパン狩り」。

狩られた少年少女たち、お姉さん、お兄さんたち。

いったい何処へ行ってしまったんだろう。

阪神淡路大震災のときもそうだったが、それ以上の甚大な被害の東日本・・・・・・

50余年の時を経てテレビに映し出される被災地の被災された人たちのその姿。

一応に、「頑張れ東北」をいうが、もしかしたらもうすぐみんな、そのことを忘れてしまうのかもしれない。

そして、取り返しのつかない原発事故が起きてしまった今・・・・・・・

空気は、なぜか忘却を急いでいるかのように思えて仕方がない。

そんなことでいいのだろうかと、自問するが、悲しいかな答えが見つからないのは何故。

そして、浜岡原発停止とかだが、「経済」、そこには「福島」の教訓は懸念もない。

そしてそのことの記録は消されては塗り、塗っては消すを繰返すばかり。

でも、記憶は絶対に消すことは出来ない。

今、時代を違えて「水道道路」が東京の彼方此方に見える・・・・・・

「直ちに」とか「冷静に」とか、何万弁と虚言、妄言、そして強弁を繰返す為政者。

どうしようもねえな・・・・・

60年と生きてきて、つくづくそう思う。

何がどう変わっていくんだろうか、偽装されるかの事象の中に。

「復興の中のニッポン」。




Posted by 昭和24歳  at 18:51 │Comments(0)

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