2011年02月03日
「シンクロニシティ」とか。
「シンクロニシティ」とか。
synchronicity

「シンクロニシティ」とは、体験者にとって重要な意味を持つ偶然の出来事であり、それによって一種の覚醒や悟りを得られる現象のこと。物質世界と精神世界との結び目であるこの奇跡の偶然から、人生の意味を知る。
僕が3歳の頃の話である。
昭和27年・・・・・
それはまだ八間道路から東に伸びた“大類里街道”は、
その上信越両毛線の踏切向こうには古川鉱業、高崎製紙工場の先には田んぼが見渡せた、
そんな頃、時代のことである。
実は僕の父は終戦直後まで勤めていた東京駅から戦災と言うこともあって母の実家、
当時は未だ“碓氷郡豊岡村字引間”だったがそここを頼りに、高崎新田町に転居。
そこから転勤願いで父は“北高崎駅”に、そこで“ポッポ屋”の生涯を終えた。
3歳の頃の僕はどうやら、そんなポッポ屋の父を知ってか知らずか、
なにかとその“大類里街道”の踏切で汽車を眺めるのがこよなく好きだったとか・・・・・
母が言っていた。
その豊岡村から祖父祖母が来ると必ずその“大類里街道”の踏切をねだったと言う。

<その頃の祖父と僕と従兄たち>
昔、母がよく言っていた・・・・・
「おまえはちょいと目を離すと踏切まで行って踏切番小屋でオジサンに抱っこされていたんだよ」
と・・・・・
どうやら、当時、父に非番の時など北高崎駅の渋川県道踏切小屋の中で抱っこされながら、
いつも汽車を眺めていたので、 そんなこともあってだろう。
家は、東小学校のすぐ北側、日清製粉の正門脇路地の中ほどにあったのだが、
そこから東小の校庭を抜け、時には三輪者を駆って賛光ネオン、東京ガス、田島ガラスの前を抜け、
そこ踏切で汽車見物を楽しんでいたとかいないとか・・・・・

<従兄のお下がりの三輪車と僕>
もちろん当時は自動車はほとんどなく、自転車か大八車・・・・・
多分未だ舗装はされてなかったのではないだろうか昭和28年の八間道路“大類里街道”。
そう、その大類里街道の先は子どもの頃の僕らには“未開の地”であった。
弓町の交差点、天田自転車店、関口新聞店の隣には“中央バス”の車庫と営業所があった。
そこからは“伊勢崎行き”のバスが出ていた。
そのころ、子どもながらに・・・・・・
「伊勢崎って、どんな所なんだろう ???」
って、いつも思っていた記憶がある。
小学校低学年の頃の僕らの探検地は“江木橋”界隈だった・・・・・
とにかくあの頃は“江木橋”まで行くと言うことは月面探索に行くほどの思いで、
死を覚悟するほどの思いで行ったものであった。
そうだ、何でもその辺りの“川”長野堰を『一貫掘り』とかいい泳ぎに行って水難にあった子どももいたので、
親たちからはその『一貫掘り』には近づくなとよく言われていた。
でも台風の後の一貫掘り、怖いもの見たさに内緒で子どもたち同士よく行った・・・・・
ところでその“長野堰”は四、五世紀の古墳時代の稲作、水田の為の治水行政で整備されたとかされなかったとか。
で、その“大類里街道”は“いざ鎌倉!!”のそれにつながるとか。
そして半世紀以上・・・・・
いわゆる“祖父”となっちまった僕は1歳半になる次女の息子を連れ近くの踏切に“汽車”を見に行った。
もちろん今は“汽車”なんて走ってはいない。
時には前橋始発の“湘南ライナー”とかの2階建て車輛が行き交う。
“汽車”なんて言おうものなら末娘には、
「それってなに?」
と言われる始末(-_-;)
しかし月に一度くらい・・・・・
・・・・・というか、元旦には必ずここを“汽車”が記念走行をする。
子どもらはそれを“汽車”とは言わない。
それは“SL”と言うんだそうだ。
「なんでも英語で言えばいいつうもんじゃあない」
と僕が言うと、
「“SL”って英語なの?」
「なんだ、そんなことも知らねえで“SL”って言ってるのか・・・・・
“SL”ってぇのはな、“steam locomotive”って言って蒸気機関車って言う意味なんだ」
そう僕が知ったかぶりをすると娘は・・・・・・
「へぇ~」
と、言うだけであった。
未だあまり言葉の喋れない息子は行き交う電車を見ては「バイバイ」とだけ言って手を振っている。
それにしても味も素っ気もない時代になってしまったもんだ・・・・・
“電車”、電気機関車でもないそれは幼児には表現すべく擬態音がない。
「ほら・・・・・“ポッポ”だぞ、“ポッポ”・・・・・」
きっと僕の祖父はその頃の僕にそう言って・・・・・・
もくもくと煙を吹き上げ、シュッシュと蒸気を吐きながら疾走する“汽車”を指差したに違いない。
そこ、60年近い歳月、くり返される時間に。
「シンクロニシティ」とか。
synchronicity
synchronicity

「シンクロニシティ」とは、体験者にとって重要な意味を持つ偶然の出来事であり、それによって一種の覚醒や悟りを得られる現象のこと。物質世界と精神世界との結び目であるこの奇跡の偶然から、人生の意味を知る。
僕が3歳の頃の話である。
昭和27年・・・・・
それはまだ八間道路から東に伸びた“大類里街道”は、
その上信越両毛線の踏切向こうには古川鉱業、高崎製紙工場の先には田んぼが見渡せた、
そんな頃、時代のことである。
実は僕の父は終戦直後まで勤めていた東京駅から戦災と言うこともあって母の実家、
当時は未だ“碓氷郡豊岡村字引間”だったがそここを頼りに、高崎新田町に転居。
そこから転勤願いで父は“北高崎駅”に、そこで“ポッポ屋”の生涯を終えた。
3歳の頃の僕はどうやら、そんなポッポ屋の父を知ってか知らずか、
なにかとその“大類里街道”の踏切で汽車を眺めるのがこよなく好きだったとか・・・・・
母が言っていた。
その豊岡村から祖父祖母が来ると必ずその“大類里街道”の踏切をねだったと言う。

<その頃の祖父と僕と従兄たち>
昔、母がよく言っていた・・・・・
「おまえはちょいと目を離すと踏切まで行って踏切番小屋でオジサンに抱っこされていたんだよ」
と・・・・・
どうやら、当時、父に非番の時など北高崎駅の渋川県道踏切小屋の中で抱っこされながら、
いつも汽車を眺めていたので、 そんなこともあってだろう。
家は、東小学校のすぐ北側、日清製粉の正門脇路地の中ほどにあったのだが、
そこから東小の校庭を抜け、時には三輪者を駆って賛光ネオン、東京ガス、田島ガラスの前を抜け、
そこ踏切で汽車見物を楽しんでいたとかいないとか・・・・・

<従兄のお下がりの三輪車と僕>
もちろん当時は自動車はほとんどなく、自転車か大八車・・・・・
多分未だ舗装はされてなかったのではないだろうか昭和28年の八間道路“大類里街道”。
そう、その大類里街道の先は子どもの頃の僕らには“未開の地”であった。
弓町の交差点、天田自転車店、関口新聞店の隣には“中央バス”の車庫と営業所があった。
そこからは“伊勢崎行き”のバスが出ていた。
そのころ、子どもながらに・・・・・・
「伊勢崎って、どんな所なんだろう ???」
って、いつも思っていた記憶がある。
小学校低学年の頃の僕らの探検地は“江木橋”界隈だった・・・・・
とにかくあの頃は“江木橋”まで行くと言うことは月面探索に行くほどの思いで、
死を覚悟するほどの思いで行ったものであった。
そうだ、何でもその辺りの“川”長野堰を『一貫掘り』とかいい泳ぎに行って水難にあった子どももいたので、
親たちからはその『一貫掘り』には近づくなとよく言われていた。
でも台風の後の一貫掘り、怖いもの見たさに内緒で子どもたち同士よく行った・・・・・
ところでその“長野堰”は四、五世紀の古墳時代の稲作、水田の為の治水行政で整備されたとかされなかったとか。
で、その“大類里街道”は“いざ鎌倉!!”のそれにつながるとか。
そして半世紀以上・・・・・
いわゆる“祖父”となっちまった僕は1歳半になる次女の息子を連れ近くの踏切に“汽車”を見に行った。
もちろん今は“汽車”なんて走ってはいない。
時には前橋始発の“湘南ライナー”とかの2階建て車輛が行き交う。
“汽車”なんて言おうものなら末娘には、
「それってなに?」
と言われる始末(-_-;)
しかし月に一度くらい・・・・・
・・・・・というか、元旦には必ずここを“汽車”が記念走行をする。
子どもらはそれを“汽車”とは言わない。
それは“SL”と言うんだそうだ。
「なんでも英語で言えばいいつうもんじゃあない」
と僕が言うと、
「“SL”って英語なの?」
「なんだ、そんなことも知らねえで“SL”って言ってるのか・・・・・
“SL”ってぇのはな、“steam locomotive”って言って蒸気機関車って言う意味なんだ」
そう僕が知ったかぶりをすると娘は・・・・・・
「へぇ~」
と、言うだけであった。
未だあまり言葉の喋れない息子は行き交う電車を見ては「バイバイ」とだけ言って手を振っている。
それにしても味も素っ気もない時代になってしまったもんだ・・・・・
“電車”、電気機関車でもないそれは幼児には表現すべく擬態音がない。
「ほら・・・・・“ポッポ”だぞ、“ポッポ”・・・・・」
きっと僕の祖父はその頃の僕にそう言って・・・・・・
もくもくと煙を吹き上げ、シュッシュと蒸気を吐きながら疾走する“汽車”を指差したに違いない。
そこ、60年近い歳月、くり返される時間に。
「シンクロニシティ」とか。
synchronicity
Posted by 昭和24歳
at 20:34
│Comments(4)
横川駅や操車場、機関区はまさに男の仕事場という印象でしたね。ターンテーブルに入るSLのずっしりと黒い存在感は圧倒的だった。
軽井沢・長野方面は電車で。かえって高崎行きはD51に載ったのでした。
父が高崎管理局に転勤となり、倉賀野に引っ越しましたが、やはり駅に近い官舎住まい。機関車の汽笛や黒煙はいつも身近にありました。
僕はスピリチュアル系は、本来ど~でもよい派ですけど。
ジョン・レノンの殺された日に京葉高速で事故に巻き込まれていたとか。
祖母の死の7日前に何故か自転車で会いに行き、小遣いもらいました。それでレコード屋に行って「母と子の絆by P.サイモン」と「ウィズ アウト ユーbyニルソン」のEPを買いました。でまた祖母の所に戻って、ステレオ借りていっしょに聴いたのでした。
翌週は榛名山での高原学校。帰ってきたら教頭先生に呼び出され、「おばあさんが亡くなった。すぐ家に」と。
榛名で僕は祖母への土産を買っていました。
2041年、それまで3X年続いた二大政党は転覆します
「起て!!飢えたる者よ!!-」っていっても、もはや赤色はないな。
日本にはイスラム法はないしね。
相撲界なんて封建社会は株式会社化しちゃえや。これだけ国際化(外人力士の)してるんだから全日本プロ・スモウだって善哉。あっプロレス方面を買収ホールディングスとか(^-^)ノ~~
っうか逆に「グラップラー刃牙」みたいに地下闘技場でパンクラチオンやっちまえ(`へ´)
アワワ崩壊してます…天福ぷくぷく