2011年01月09日
昭和「青春の光と影」。
昭和「青春の光と影」。

亡くなってから1年以上経った今でも高い人気を誇る名優、レスリー・チャンが若かりし頃に名を馳せた貴重な青春映画。貧乏な母子家庭の長男であることを同級生に隠し続けてきたウィン。しかし、ある日働いている姿を友人のダニーに目撃されてしまう。
1968年
それは昭和45年秋・・・・・・
未だ明治大正の匂いを感じさせる古い高崎の駅舎で上野行きの片道切符を買った。
上りは決まって7番線か8番線、電気機関車の牽く客車。硬い座席に身を埋めるようにして発車のベルを待った。
僕には、取分けて故郷を離れるなどと云う感傷はなかった。
と云うのも、僕の生まれ育った関東平野の北端「高崎」から「上野」へは高崎線で距離にして100キロ圏。
電車でも鈍行で2時間の所だからだ。
既にSLの時代でこそないが「電気機関車」がうなりを上げて厳つく走っていた。
ただひとつの時間の終わり、そして新しい時間の始まりのような一抹の寂しさが過ぎっていたのはたしかだった。
その一抹は今までの喧騒が嘘のように消えた「青春」と云う時代の消え去った音。
21才、今ににして思えばそれが青春なんだろうが・・・・・
その当時は既にそれを捨て去っていたように思っていた・・・生意気にも。
大方の同級生はこの高崎と云うそこそこの地方都市で「サラリーマン生活」をしているか家業を継いでいた。
やはりその「ほんのり」としたそれでいて「とげとげしい」青春に区切りをつけ「地道」と云うのだろうか、
互いが覚めた言葉を投げあうように暮し始めていた・・・・・・
「もう、若くねえからな」と。
しかし、そんな時代にもやはり夫々の生き方と云うか人生の分岐点「標」が誰にもあった。
それも、まだ同級生などはストレートで大学へ行った連中でも3年、一浪でもしていれば2年だ。
そんな彼等はまだまだ青春真っ盛りで時はオイルショック、ニクソンショックとは云え高度成長の兆し。
学生運動も既に収束していたし、やはりひとつの時代の終わりを確実に告げていた。
時は恰も、「青年は荒野をめざす」・・・・・
五木寛之を貪り、小田実に傾き、横尾忠則に嵌り、「自由」の始まりの終わりの頃だったようだ。
ご多分に漏れず僕も多分そんな「欠片」の一人ではなかっただろうか。
あの、二十歳そこそこの時代の一年は一生かけても体験できないような事を瞬時の内にやってしまっていた。
やはりそれが「夢」の時代なのだろうかか・・・・・・それが。
現実と云う「地獄」の一歩手前で夫々が聞きかじり、受売りの中で大きな夢を語り合う。
喧々諤々、まるで自分だけを中心に世界が動いているような錯覚の中で好き勝手を云いながら(笑)。
結局は、こんな狭いこの国の中、僅か2%足らずの「青春」で世の中が動くはずも無いのにである。
そう。だが、だからこそそれが「夢」なのだ。「夢」を見たからこそ現実もほどほどに受け止められる。
それが「青春の時代」と云うものだろう。
「青春の光と影」。
そして十代。「夢」などと云う大それたものではないが・・・・・・
いやっ傍目には大それた大馬鹿者に映ったかも知れない(-_-;)
僕の中のロックミュージシャンの夢。
もちろん当時は「ロックミュージシャン」などとそんな洒落た言葉はなかったが。
ただの「エレキ小僧」だったのだ僕は。
世間では不良のなり損ない、鼻つまみ者。
15の時から大人に混ざっての「エレキバンド」。ダンスホールにパーティーに。
そうそうビアガーデンなんていうのもあった。
そして時はまさに空前の「エレキブーム」の到来。
街中が猫も杓子も「テケテケテケ―――」。
「アストロノウツ」の太陽の彼方、「ベンチャーズ」の急がば廻れ。テレビでは連日連夜「エレキ、エレキ」。
終いにはナショナル、ビクターまでが「エレキギター」を作り始めていた。
今では努々考えられない時代だ。
さしずめ「ゲームボーイ」をナショナルブランドで出すようなものだろう。
そして東京・・・・・
高崎から東京に出るには上野までは行かずに「赤羽」で降りる。
赤羽は当時は高崎線と東北本線。それに京浜東北線が高架を走っていた・・・たしか。
赤羽を降りるとさらに狭い高架通路を渡って木戸で改札を受けて「省線」のホームに出る。
僕等は何故かそれを「省線」と呼んでいた。赤羽と池袋を往復する赤茶けた電車の「赤羽線」。
窓も椅子も木製のやつでその車内は独特の油臭い匂いがしていた。
しかし僕にとっては、それこそが「東京」の入口、憧れの匂いだったのだった。
まさに今の始まりがそこにあった・・・・・・
昭和「青春の光と影」。

亡くなってから1年以上経った今でも高い人気を誇る名優、レスリー・チャンが若かりし頃に名を馳せた貴重な青春映画。貧乏な母子家庭の長男であることを同級生に隠し続けてきたウィン。しかし、ある日働いている姿を友人のダニーに目撃されてしまう。
1968年
それは昭和45年秋・・・・・・
未だ明治大正の匂いを感じさせる古い高崎の駅舎で上野行きの片道切符を買った。
上りは決まって7番線か8番線、電気機関車の牽く客車。硬い座席に身を埋めるようにして発車のベルを待った。
僕には、取分けて故郷を離れるなどと云う感傷はなかった。
と云うのも、僕の生まれ育った関東平野の北端「高崎」から「上野」へは高崎線で距離にして100キロ圏。
電車でも鈍行で2時間の所だからだ。
既にSLの時代でこそないが「電気機関車」がうなりを上げて厳つく走っていた。
ただひとつの時間の終わり、そして新しい時間の始まりのような一抹の寂しさが過ぎっていたのはたしかだった。
その一抹は今までの喧騒が嘘のように消えた「青春」と云う時代の消え去った音。
21才、今ににして思えばそれが青春なんだろうが・・・・・
その当時は既にそれを捨て去っていたように思っていた・・・生意気にも。
大方の同級生はこの高崎と云うそこそこの地方都市で「サラリーマン生活」をしているか家業を継いでいた。
やはりその「ほんのり」としたそれでいて「とげとげしい」青春に区切りをつけ「地道」と云うのだろうか、
互いが覚めた言葉を投げあうように暮し始めていた・・・・・・
「もう、若くねえからな」と。
しかし、そんな時代にもやはり夫々の生き方と云うか人生の分岐点「標」が誰にもあった。
それも、まだ同級生などはストレートで大学へ行った連中でも3年、一浪でもしていれば2年だ。
そんな彼等はまだまだ青春真っ盛りで時はオイルショック、ニクソンショックとは云え高度成長の兆し。
学生運動も既に収束していたし、やはりひとつの時代の終わりを確実に告げていた。
時は恰も、「青年は荒野をめざす」・・・・・
五木寛之を貪り、小田実に傾き、横尾忠則に嵌り、「自由」の始まりの終わりの頃だったようだ。
ご多分に漏れず僕も多分そんな「欠片」の一人ではなかっただろうか。
あの、二十歳そこそこの時代の一年は一生かけても体験できないような事を瞬時の内にやってしまっていた。
やはりそれが「夢」の時代なのだろうかか・・・・・・それが。
現実と云う「地獄」の一歩手前で夫々が聞きかじり、受売りの中で大きな夢を語り合う。
喧々諤々、まるで自分だけを中心に世界が動いているような錯覚の中で好き勝手を云いながら(笑)。
結局は、こんな狭いこの国の中、僅か2%足らずの「青春」で世の中が動くはずも無いのにである。
そう。だが、だからこそそれが「夢」なのだ。「夢」を見たからこそ現実もほどほどに受け止められる。
それが「青春の時代」と云うものだろう。
「青春の光と影」。
そして十代。「夢」などと云う大それたものではないが・・・・・・
いやっ傍目には大それた大馬鹿者に映ったかも知れない(-_-;)
僕の中のロックミュージシャンの夢。
もちろん当時は「ロックミュージシャン」などとそんな洒落た言葉はなかったが。
ただの「エレキ小僧」だったのだ僕は。
世間では不良のなり損ない、鼻つまみ者。
15の時から大人に混ざっての「エレキバンド」。ダンスホールにパーティーに。
そうそうビアガーデンなんていうのもあった。
そして時はまさに空前の「エレキブーム」の到来。
街中が猫も杓子も「テケテケテケ―――」。
「アストロノウツ」の太陽の彼方、「ベンチャーズ」の急がば廻れ。テレビでは連日連夜「エレキ、エレキ」。
終いにはナショナル、ビクターまでが「エレキギター」を作り始めていた。
今では努々考えられない時代だ。
さしずめ「ゲームボーイ」をナショナルブランドで出すようなものだろう。
そして東京・・・・・
高崎から東京に出るには上野までは行かずに「赤羽」で降りる。
赤羽は当時は高崎線と東北本線。それに京浜東北線が高架を走っていた・・・たしか。
赤羽を降りるとさらに狭い高架通路を渡って木戸で改札を受けて「省線」のホームに出る。
僕等は何故かそれを「省線」と呼んでいた。赤羽と池袋を往復する赤茶けた電車の「赤羽線」。
窓も椅子も木製のやつでその車内は独特の油臭い匂いがしていた。
しかし僕にとっては、それこそが「東京」の入口、憧れの匂いだったのだった。
まさに今の始まりがそこにあった・・・・・・
昭和「青春の光と影」。
Posted by 昭和24歳
at 19:45
│Comments(1)
今でも鉄路の音が聞こえる家に住んでいます。