2010年06月20日
青年は荒野をめざした
青年は荒野をめざした
ぼくらにとって音楽とは何か? セックスとは? 人間とは? 放浪とは? 燃焼する人生を求め、トランペットひとつかかえて荒野をめざす青年ジュンの痛快無類のヨーロッパ冒険旅行!解・大木至
青年は荒野をめざす・・・・・
大西君
ふと・・・そんな時代を思い出して可笑しい・・・
大西君はたしか岡山出身の三年生だった――――――
「僕は新潟港からナホトカへ・・・
そしてハバロフスクからシベリア大陸を横断してモスクワへ・・・」。
そう言って大西君は大学ノートにきっちりとスケジュールを書いて「日記」の書き出しにしていた。
まさにそれは五木寛之の“青年は荒野をめざす”を熱っぽく僕に語ると大西君は、
“グイッ、グイッ”と飲みかけのコカコーラ・ホームサイズを瞬きしながら空けた。
「モスクワから先はどうするんだ」・・・
と、訊くと・・・・・
「取敢えずは“ヘルシンキ”までなんだ」
どうやらその先には道がないようだ・・・・・
「自分で道を創りながら・・・・・だから『夢』なんだよ」
と、一升瓶を枕に“ゴロン”と寝転ぶと見開いた“夢いっぱい”大学ノートで顔をふせながら言った・・・・・
大西君――――――
下宿には一升瓶がいつも2、3本ごろ寝しているのであった。
親からの仕送りもそのほとんどが「酒代」に化け、家庭教師のバイト、レストランのウエイターのバイト・・・・・
夢とは裏腹に、「夢」のための「資金繰り」には程遠いが、
そんな大西君には“現実”よりも“夢”という若さのほうが・・・・・
彼には漲っていた。
そんな大西君だたが4年生になると早々と就職活動、なんでも“近畿日本ツーリスト”に内定をもらっていた。
その後風の便りにはどうやら旅行会社で“荒野”をめざしているとか聞いた・・・・・
昭和44年。沖縄返還交渉が決まり、アポロの人類初の月面着陸。
東大闘争で大学側が警官隊を導入、警視庁が東大・安田講堂の封鎖を解除・・・・・安田講堂事件。
そんな当世、若者の熱情は“ガリポリ派”の学生運動家と “ノンポリ派”の体育会系、カタカナ文字文化系が、
所謂“団塊世代”善きにつけ、悪しきにつけ世相を賑わす・・・・・そんな時代だった。
その大西君が勉学に勤しんでいた大学。
田舎の学校ではあったが学生運動の「流行」はご多分に漏れず校門に「バリケード」を設えさせていた。
考えてみれば、有難いことかあり難くないことかはともかく、1年間というもの丸まる授業がなかったそんな時代。
どうやら、あの時代「二通り」の夢があったようだ・・・・・
荒野をめざす「青年の夢」と、日本を開放し米帝と戦い「インターナショナル」を実現する夢とが。
まあ、その“インターナショナル”の方は見せかけのそれはともかく“ガリガリ”の“ガリポリ”は地下に潜伏し、
『浅間山荘事件』や『赤軍リンチ事件』、『よど号ハイジャック事件』、『テルアビブ乱射事件』と、
それはそれとしてそっちの方は“夢”から逃れられずに今もいる。
一方、“ノンポリ”の大西君派・・・・・もちろんそこには僕も入るのだが、“夢と現実”の掛け持ち・・・・・
あの頃の夢を成就した者はまれではないだろうか(笑)。
“未だ掛け持ちの僕“
だから・・・・・それはそれでよかったのかも知れない。
どちらの夢も「流行り病」か「ハシカ」のようなもので、互い相容れぬもののようではあったが、
過ぎてみれば今時、安っぽい居酒屋での酒の肴にはどうも具合が良いようだ。
しかしそんな時、どうもその「インターナショナル野郎」のほうが、酒癖が悪いのが「糸、可笑しい」。
その“俺”はシベリアの荒野ではなく「音楽」と云う大海に帆を上げた。
残念ながら始末の悪い「羅針盤」しか仕度出来なかったせいか、
そう、・・・・・未だ、座礁に接ぐ座礁の航海真っ只中。
知った者に云わせれば・・・・・
「おまえのは、航海じゃあなくて『後悔』じゃあねえのか」と。
うまいことを言う。まさにその通り、“航海”じゃあなくて“後悔”、
ついでに言わせてもらえば懺悔の日々・・・・・
二十歳の日記は扉で終わったまま・・・
さて、何時からその先を書き綴ろうかと思案に耽る今日この頃。
それこそ・・・・・
「自分が終わってしまったら何にもならないから・・・・」
でもあったんですね、そんな時代が・・・・・・
荒野をめざす。
もしかしたら今もそうなのかも知れない。
青年は荒野をめざした
ぼくらにとって音楽とは何か? セックスとは? 人間とは? 放浪とは? 燃焼する人生を求め、トランペットひとつかかえて荒野をめざす青年ジュンの痛快無類のヨーロッパ冒険旅行!解・大木至
青年は荒野をめざす・・・・・
大西君
ふと・・・そんな時代を思い出して可笑しい・・・
大西君はたしか岡山出身の三年生だった――――――
「僕は新潟港からナホトカへ・・・
そしてハバロフスクからシベリア大陸を横断してモスクワへ・・・」。
そう言って大西君は大学ノートにきっちりとスケジュールを書いて「日記」の書き出しにしていた。
まさにそれは五木寛之の“青年は荒野をめざす”を熱っぽく僕に語ると大西君は、
“グイッ、グイッ”と飲みかけのコカコーラ・ホームサイズを瞬きしながら空けた。
「モスクワから先はどうするんだ」・・・
と、訊くと・・・・・
「取敢えずは“ヘルシンキ”までなんだ」
どうやらその先には道がないようだ・・・・・
「自分で道を創りながら・・・・・だから『夢』なんだよ」
と、一升瓶を枕に“ゴロン”と寝転ぶと見開いた“夢いっぱい”大学ノートで顔をふせながら言った・・・・・
大西君――――――
下宿には一升瓶がいつも2、3本ごろ寝しているのであった。
親からの仕送りもそのほとんどが「酒代」に化け、家庭教師のバイト、レストランのウエイターのバイト・・・・・
夢とは裏腹に、「夢」のための「資金繰り」には程遠いが、
そんな大西君には“現実”よりも“夢”という若さのほうが・・・・・
彼には漲っていた。
そんな大西君だたが4年生になると早々と就職活動、なんでも“近畿日本ツーリスト”に内定をもらっていた。
その後風の便りにはどうやら旅行会社で“荒野”をめざしているとか聞いた・・・・・
昭和44年。沖縄返還交渉が決まり、アポロの人類初の月面着陸。
東大闘争で大学側が警官隊を導入、警視庁が東大・安田講堂の封鎖を解除・・・・・安田講堂事件。
そんな当世、若者の熱情は“ガリポリ派”の学生運動家と “ノンポリ派”の体育会系、カタカナ文字文化系が、
所謂“団塊世代”善きにつけ、悪しきにつけ世相を賑わす・・・・・そんな時代だった。
その大西君が勉学に勤しんでいた大学。
田舎の学校ではあったが学生運動の「流行」はご多分に漏れず校門に「バリケード」を設えさせていた。
考えてみれば、有難いことかあり難くないことかはともかく、1年間というもの丸まる授業がなかったそんな時代。
どうやら、あの時代「二通り」の夢があったようだ・・・・・
荒野をめざす「青年の夢」と、日本を開放し米帝と戦い「インターナショナル」を実現する夢とが。
まあ、その“インターナショナル”の方は見せかけのそれはともかく“ガリガリ”の“ガリポリ”は地下に潜伏し、
『浅間山荘事件』や『赤軍リンチ事件』、『よど号ハイジャック事件』、『テルアビブ乱射事件』と、
それはそれとしてそっちの方は“夢”から逃れられずに今もいる。
一方、“ノンポリ”の大西君派・・・・・もちろんそこには僕も入るのだが、“夢と現実”の掛け持ち・・・・・
あの頃の夢を成就した者はまれではないだろうか(笑)。
“未だ掛け持ちの僕“
だから・・・・・それはそれでよかったのかも知れない。
どちらの夢も「流行り病」か「ハシカ」のようなもので、互い相容れぬもののようではあったが、
過ぎてみれば今時、安っぽい居酒屋での酒の肴にはどうも具合が良いようだ。
しかしそんな時、どうもその「インターナショナル野郎」のほうが、酒癖が悪いのが「糸、可笑しい」。
その“俺”はシベリアの荒野ではなく「音楽」と云う大海に帆を上げた。
残念ながら始末の悪い「羅針盤」しか仕度出来なかったせいか、
そう、・・・・・未だ、座礁に接ぐ座礁の航海真っ只中。
知った者に云わせれば・・・・・
「おまえのは、航海じゃあなくて『後悔』じゃあねえのか」と。
うまいことを言う。まさにその通り、“航海”じゃあなくて“後悔”、
ついでに言わせてもらえば懺悔の日々・・・・・
二十歳の日記は扉で終わったまま・・・
さて、何時からその先を書き綴ろうかと思案に耽る今日この頃。
それこそ・・・・・
「自分が終わってしまったら何にもならないから・・・・」
でもあったんですね、そんな時代が・・・・・・
荒野をめざす。
もしかしたら今もそうなのかも知れない。
青年は荒野をめざした
Posted by 昭和24歳
at 18:34
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