2023年03月05日

3月5日の記事

僕の細道「大類里街道」


昭和27年

僕が3歳の頃の話である。


それは八間道路を東に伸びた今では国道に出世したとかしないとかの、伊勢崎街道なんだろう。
その“大類里街道”は今はない。八間道路が盛んだったころまではそのひとつ辻、南にそれはあった。
その昔・・・・・その昔とはいっても、相当昔のことである。
NHK大河ドラマで言えば“風林火山”のころのチョイトあと。そんな時代の話だ。

高崎の古地図を見ると、その八間道路のところの、東二条通りと交差する辺りでその地図ではどんづまりになっている。
そこの交差点のすぐ西にある寺、“法輪寺”はもともとが箕輪の長野氏の下にあり、秀吉の時代の高崎築城のおりにそこ、箕輪から移築されたとか・・・・・・
16世紀半ばの話だから、相当に古い話といえば、古い話には違いない。
で、その「八間道路」だが、法輪寺山門の一角は現在でもその「八間道路」を含めて(多分寄贈)、いわゆる昔あったとされる大類里街道までが法輪寺の所有である。

何もそんな古い話をしようというのではないが、思いつくままに書くものだから、話がどこでどういう風に転がっていくか自分でもわからない・・・・・・
平成生まれの若い人はご存知ないかも知れないが、6その、国道に昇格したかも知れない伊勢崎街道の“大類里街道”・・・・・・

つい先だって、地域住民の宿願ともいうべき「開かずの踏み切り」が、地下トンネルになり「開いた」。
ぼくのいう、その大類里街道は、開かずの踏み切り以前の、まだ走る自動車もほとんどなく、もちろんそこには交通信号などもなかった時代の話だ。
その、開かずの踏み切り」のところには、上信越両毛線の踏切で、それこそ時間ともなれば行き交う電車の数は半端でなく、結果、「開かずの踏み切り」という名前になってしまったのだ。

で、その大類里街道だが
僕が3歳のころといえば、その踏切には、遮断機を上げ下げする鉄道員のオジサンがいて通行の整理をしていた。
そこばかりではない、ほとんどの踏み切りという踏切には、踏み切り番小屋があって、そこでオジサンが踏み切りの番をしていた。

その時代、その踏切から向こうには、今はパチンコ屋になっている古川鉱業、その対面は駐車場になっている高崎製紙工場・・・・・・・

そして、その東は「東三条通」になるのだが、そこから先には田んぼが見渡せたそんなのんびりしていた時代のことである。

実は僕の父は終戦直後まで勤めていた東京駅から戦災と言うこともあって母の実家・・・・・
当時は未だ“碓氷郡豊岡村字引間”だったがそここを頼りに、高崎新田町に転居。
そこから敗戦直後、転勤願いで父は“北高崎駅”に、そこで“ポッポ屋”の生涯を終えた。

大分大昔の話になるが3歳の頃の僕はどうやら、そんなポッポ屋の父を知ってか知らずか、
なにかとその“大類里街道”の踏切で汽車を眺めるのがこよなく好きだったとか・・・・・母が言っていた。

その豊岡村から祖父祖母が来ると必ずその“大類里街道”の踏切をねだったと言う。


「おまえはちょいと目を離すと踏切まで行って踏切番小屋でオジサンに抱っこされていたんだよ」

と、母がよく言っていた。

どうやら、当時父に非番の時など北高崎駅の渋川県道踏切小屋の中で抱っこされながらいつも汽車を眺めていたので、
そんなこともあってだろうかとにかく“汽車”を見るのが好きな子どもだったようである。

家は、東小学校のすぐ北側、日清製粉の正門脇路地の中ほどにあったのだが、
そこから東小の校庭を抜け、時には三輪者を駆って賛光ネオン、東京ガス、田島ガラスの前を抜けそこ踏切で汽車見物を楽しんでいたとかいないとか・・・・・

もちろん当時は自動車はほとんどなく、自転車引きのリヤカーか大八車。
多分未だ舗装はされてなかったのではないだろうか昭和28年の八間道路“大類里街道”・・・・・・・

そう、その大類里街道の先は子どもの頃の僕らには“未開の地”であった。
弓町の交差点、天田自転車店、関口新聞店の隣には“中央バス”の車庫と営業所があった。
そこからは“伊勢崎行き”のバスが出ていた・・・・・

子どもながらに「伊勢崎っていったいどんな所なんだろう・・・?」

って、いつも思っていた記憶がある。

小学校低学年の頃の僕らの探検地は“江木橋”界隈だった・・・・・
とにかくあの頃は“江木橋”まで行くと言うことは月面探検に行くほどの思いで、
少々大げさだが、死を覚悟するほどの思いで行ったものであった。

そうだ、何でもその辺りの“川”長野堰を大川といい『一貫掘り』とかいう場所があって、
そこへ泳ぎに行って水難にあった子どももいたので、親たちからはその『一貫掘り』には近づくなとよく言われていた。
でも台風の後の一貫掘り、怖いもの見たさに内緒で子どもたち同士よく行った・・・・・

ところでその“長野堰”は四、五世紀の古墳時代の稲作、水田の為の治水行政で整備されたとかされなかったとか。

その“大類里街道”は“いざ鎌倉!!”のそれにつながるとか・・・・・

そういえば、ここ西上州は古墳群がものすごい。
その数は、関西、畿内など問題じゃあないというではないか。

とにかく歴史は作られては壊され、時に捏造偽装・・・・・・・
つい最近知ったことなのだが、通町にある「大信寺」には徳川将軍の弟が高崎城に幽閉され、そこで自害させられたとかの、
将軍の弟、駿河大納言・・・・・
そんな御仁の廟が静かに眠っている。つまり水戸黄門さまの従兄弟の御墓である。

どうして、どうして、これで高崎も案外面白い・・・



まあ、和田氏300年、徳川300年、そして明治、大正、昭和、平成、令和はまだ200年に届かない。
しかし、最近その法輪寺界隈を通ってみたが、昭和の頃の道は跡形もなくなっている。区画整理とかで。
なんの都合で、どうしてそうなってしまったのか・・・・・・
そしてそうしなければならない理由がどこにあったのかどうしても知りたくなった。






Posted by 昭和24歳  at 15:03 │Comments(0)

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