2020年01月18日

幻の絶メシ“らっちゃん”

幻の絶メシ“らっちゃん”
幻の絶メシ“らっちゃん”
「らっちゃん知ってるかい?」

もう20年にもなるでしょうか...

アレは、まだ飯塚に「とりせん」があった頃のお話です。 「らっちゃん」のご亭主と女将さんとで連れ立ってお買い物の御様子、散見されました。 その後、飯塚「とりせん」もお終いになり、「らっちゃん」もいつの間にか閉店のお運びでした。
いわゆる、高崎のB級ミシュラン五つ星とでも言うんでしょうか、紛れも無い昭和の味でした。

中銀のらっちゃんです。

まあ、僕が古希ですからおそらくご亭主、喜寿・米寿はとにもかくにも確か、お店のカウンターに座らせてもらった折のお話の中ではご亭主、長嶋茂雄とかと同年代だったとか。確か明治大学卒だとかのお噂が。

で、その「らっちゃん」に限らず、中銀通りさっぱりで、ご案内の通りです。
観音屋の和菓子屋さんはご健在なんでしょうか、木屋新履物屋さんもありました、自転車屋さんも.で、その「らちゃん」は当初はご亭主の御尊父様ご経営の「浅間カメラ」と間口を分けての営業でした。僕が高崎市立第二中学校への通学路としていた時のお話です。
僕がその「らっちゃん」に寄らせてもらったのは昭和47年前後の頃でした。
まあ、流れ流れての「バンドマン」ていうか、「夢破れて山河あり」でしょうか、時代は高度経済成長期末でそれはそれは、華やかりし時代でもあったわけです。そうそう、連合赤軍の「浅間山荘事件」。そんな時代でした。

丁度、そのころ僕が、「バンドマン」としてお世話になっていた「キャバレー・ニュージャパン」のおネエさんたちとか厨房さんが夜食というか、小腹の足しに出前をお願いしていたのが「らっちゃん」でした。
まあ、僕らバンドマンが休憩時間というと「店」のすぐ前の八百屋さんで休憩することになっていました。
で、僕らは時間があれば「らっちゃん」まで赴いておったのですが、時間がないときは八百屋のおばちゃんにお願いして「らっちゃん」の「餃子ライス」とか「焼きそばライス」を出前してもらっていました。ソレがそもそもの僕の「らっちゃん」の始まりでした。
それから、高崎を出たり戻ったり、で、結婚して嫁さんも子どもたちもすっかり「らっちゃんファン」で、保育園の行事の後とか、東小学校の運動会のあととかはいつも「らっちゃん」が定番でした。
で、平成6年生まれの末娘も「らっちゃん」の餃子か食べたいと今でも時々言ってます(笑)。

今でも食べたい、食べたくなるもの...

それが「らっちゃんの餃子」、「らっちゃんの焼きそば」です。
コレは舌したが味を憶えてるんでしょうか、今でも無性に食べたくなってしまいます。
まあ、その「焼きそば」ですけど平麺のもっちり感もさることながら「シャキシャキ感」のもやし、キャベツ等々の仕上がり具合。薄めの醤油仕立てですけど僕の場合は、その焼きそばにラー油をたっぷりかけ、ウースターソースをチャプチャプにしていただく。それが僕の「らっちゃん焼きそば」の流儀でした(笑)。

で、今でも食べたい、食べたくなるもの...

まあ、今では唯一それができるのが「成吉思汗」の「ラーメン」ですね。
しかし、二度と叶わぬ「マイ・フェヴァリット・テイスト」があります。それは同じ「ラーメン」つながりのアレです

末広町の「大連」の「湯麺」と「焼きそば」です。ここの「焼きそば」はご案内の「らっちゃん」と似て非なるモノ。
やはり、焼きそばにする麺は「平麺」で、多分「湯麺」用を仕込んだものと思われ、その風味、趣は似て非なるモノで美味でした。
その「大連」、名物マスターというか小柄も極めて小柄で、長くアゴヒゲを蓄えたそのマスターも...

「もう閉めるよ。コレじゃあ商売にも何もなりゃあしない」

つまり、街中の人口減と、極めつけの交通取り締まりで路駐の一斉検挙だとか。
そりゃあそうです。末広町、椿町、山田町、高砂町、九蔵町あたりからこれまでの住人のほとんどが消えてしまったのですから。
まあ、僕もそんなうちの一人なんですけど、一人たって、つまり一家族です。7人がいっぺんにそこからいなくなっちゃったわけですから商売にはなりません。

で、ついでと言っちゃあ失礼ですけど「焼きそば」っていえば、「オリタ」の焼きそばでしょうか。コレといったモノがないのが取り柄の「オリタの焼きそば」でした。
そしてどうしてももう一度味わってみたい焼きそばは東小学校の正門前にいつも決まって屋台で商っていた「焼きそば」。
手のひらに載るほどのヘギに盛られ青のりをまぶし、付け合わせには刻み生姜の、一食、アレは確か「5円」の焼きそば。昭和34、5年のお話です。

そうそう、「焼きそば」っていえば浅草銀座線の地下食堂街の「ソース焼きそば」は今でもあるんでしょうか?
アソコは東武伊勢崎線の始発駅でもあるわけですから、もしかして「太田の焼きそば」でしょうか。
なぜか、トコロテンとか味噌おでんも一緒に品書きされていたような。
東龍も閉めちゃったし、もりや食堂も...

ま、それが本当の「絶メシ」なんでしょうね。



Posted by 昭和24歳  at 00:59 │Comments(3)

この記事へのコメント
らっちゃんも中央軒もありませんが、けん太付近の夜の客引きおじさんは30年前と同じ人がいました!
Posted by なかの at 2020年01月18日 22:32
先日もライブの後の打ち上げで平均年齢71才、らっちゃん、中央軒の話で盛りあがりました。そうそう富士久の餃子もね…
Posted by 昭和24歳昭和24歳 at 2020年01月30日 10:02
先日もライブの後の打ち上げで平均年齢71才、らっちゃん、中央軒の話で盛りあがりました。そうそう富士久の餃子もね…
Posted by 昭和24歳昭和24歳 at 2020年01月30日 10:03
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