2018年11月15日

嗚呼、華やかりし日々「県都前橋」

嗚呼、華やかりし日々「県都前橋」
嗚呼、華やかりし日々「県都前橋」
自転車がいっぱいだけど・・・
つまり、自転車で来れる距離感に住宅です。


中心街再開発「待った」市に協議の場 要望 前橋商工会議所
 群馬県前橋市中心市街地の再開発計画で、前橋商工会議所の曽我孝之会頭は13日、経済界や街づくり関係者らとの協議の場を設け、再開発の方向性を改めて検討するよう求める要望書を、山本龍市長に提出した。8日に始まった委託事業者の公募についても「時期尚早」として抜本的な見直しを求めた。山本市長は協議の場を設ける方針を伝えた。

 地元経済界が再開発の手法を巡り、待ったをかけた形だ。市は地権者として参画する準備組合の事務局を務めており、曽我会頭が市役所を訪れ、山本市長に要望書を手渡した。

<引用:2018/11/14 上毛新聞>
https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/politics/92385

>8日に始まった委託事業者の公募についても「時期尚早」として抜本的な見直しを求めた。

「委託業者」ってどうなんだろ、って話です。
高崎もアレだけど、街中の再開発って地権者がアレで身動き取れないんじゃあないの。
地上げの時代じゃあないし、右肩下がりだし、とくに地方都市の場合。


昭和40年代、前橋は芸術の街、文化情報の発信地だった。

県庁とともに日銀を始め国の出先機関が集積し、高度経済成長相まって空襲で焼け野原となった街は生まれ変わった。

そう、昭和39年に高崎の藤五デパートができた頃「前三百貨店」が開業。

藤五と前三だが、さすが県都前橋県庁からその前三あたりまでは国の出先機関の官舎だろうか、そうした層からして前三は豪華に見えた。

昭和42年、僕らはエレキバンドで前橋に進出した。とは言っても高崎のバンドは野暮ったかった(笑)。

あそこは千代田町だろうか、たしかアカギ信用金庫だったかの3階に「アカギ会館」という、今で言えば「ライブハウス」・・・・・

ステージがあって、客席が50席ほどだったろうか、それまでのエレキバンドといえば相場が湿気ったダンスホールだったから演奏にも気合が入った。

ま、前橋は高崎と比べたら大都会で高崎から来たバンドはかなり田舎臭かったようだった。

もちろん、そうした音楽文化の中心は前橋、伊勢崎、桐生といったところが先行していて僕ら高崎のカッペバンドは大いに衝撃を受けた。

ファッションもそうで、当時流行りだった「JUN」とか「VAN」は前橋中央駅界隈で盛っていた専門店で買っていた。

初めてGパンを買ったのも中央駅近くのジーンズショップだった。高崎にはそんな気の効いた専門店はなかった。

とにかく当時の前橋の街並みはお洒落だった。駅前のからの並木通り、県庁前通り、そして上電中央駅周辺と・・・・・

そう言えば、街中の「マック」も「ケンタッキー」も「モス」も前橋が最初だった。

あれは昭和47年ころだったろうか友人が県庁前通りに「表参道」という珈琲&ピザショップをオープンした。

まさにそこ、県庁前通り、官庁街は「表参道」の趣だった。

嗚呼、華やかりし日々「県都前橋」




Posted by 昭和24歳  at 04:36 │Comments(0)

※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

< 2024年04月 >
S M T W T F S
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
過去記事

QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 125人
プロフィール
昭和24歳
昭和24歳
オーナーへメッセージ

削除
嗚呼、華やかりし日々「県都前橋」
    コメント(0)