2018年02月11日
【高崎紀行】柳川町滅ノミ中熊とその界隈
【高崎紀行】柳川町滅ノミ中熊とその界隈
↑ココも「絶ノミ」なんだが・・・
常連さん、僕も含めて高齢化です。
そう――――
そんな店はなにも小奇麗である必要はない。
できれば、灯りは「松下式」二股ソケットの紐付き・・・・・
2段切替スイッチあたりが隙間風に触られていると嬉しい。
それに少しひしゃげたアルマイトの灰皿、
そして、漆の箸も使い古しの年季の入った塗りのやつ。
更に欲を言えば零れ張りのある格子の障子窓。
そこには雨露を忍んだ幾重もの染みでもあれば肴には困らない。
そして、開け閉めに一工夫させられる滑車の引戸・・・・・・・
もちろん取っ手の所は庶民の血と汗と涙が染み付いて黒光りしているそれ。
そこには、時期でも良ければ開け放たれた障子、格子の隙間から知った顔がちらほら。
それでもどう云うわけかそれなりに気を遣いながら、
開けかけた暖簾を避けて具合のいい席を選る。
「ここが空いてるよ」
と、常連だろう何気に気安いのはいつものこと。
そう云った店は団体で来る客はそうはいない・・・・・
大概が一人か二人と決まっている。
それでも3人寄らずとも、そこそこに仕上がってくると、
そこは酒場、つまらない揉め事を肴に客同士が結構賑やかになる。
当然、贅沢なブランデーやウイスキーなどは無い・・・・・
精々が「角」かトリスのポケットではないだろうか。
そんな店の中、口角に泡を飛ばした五月蝿さが日々の溜飲を下げている。
蝿取り紙に吸い付かれた蝿が裸電球にに透けてジタバタしている。
贅沢だろうか、そうかもしれない。
否、たしかにそれは贅沢というものである。
本当に贅沢であった。
昭和を離れて二〇と余年、もうそこにはその店はない
「中熊」。
僕らは、「チュークマ」と呼んでいた・・・・・・
高崎の夜の政官財界奥座敷として名を馳せていた「宇喜代」の路地を挟んで、
その辻向かいに「中熊」はあった。
「宇喜代」がお偉方の奥座敷なら、「中熊」は労働者の隠れ家。
それにしてもあの時代は棲み分けの良い時代ではあった。
「中熊」は亭主は厨房で肴を、おかみさんはカウンターで鍋守。
何と言っても、一番のウリ「モツ煮込」。
それは相当に年季の入った仕込であることはその味が証明している。
器は瀬戸物、箸はけして割箸などではない。ご案内のように上物ではないにしろ、
その漆塗り箸の持て成しのぶっちょうさが嬉しい。
それに、季節物の「漬物」と来た日には、「中熊」これが絶品である!!
当然、夏場には茄子と胡瓜、カブ、の糠漬けだ。そして冬場は白菜漬けが・・・・・・
申し訳ないが、これにその「煮込み」があれば、「宇喜代」とて敵うまい。
とは言うものの吾輩、「宇喜代」とやらに上がれるほどの身分でない、
よってそれは只の僻みじゃあないかと言われてしまえばそれまでだが。
何しろ、「宇喜代」とやらでいったいどんなものを飲ませて食わせてくれるのかは、
想像もしたことが無いし、できないのだから(笑)。
そこでの酒の銘柄は憶えていない。
と云ううよりそこは「中熊」で、「チュークマ」と呼ぶくらいだから、
呑むのは焼酎、ご存知「ウメ割」である。これがまた矢鱈と逸品である。
分厚い傷だらけのカットグラス、っていうか、そんな気取った物ではないそれは「コップ」。
皿受けに零れても尚、並々と注いでくれる・・・・・・
中学で習った・・・?
小学校だったかのそれ、「表面張力」に嬉々としながら、
まず、両手を膝の上に置き徐を装いグラスに口づけ、「チューッ」っとイクッ、それが作法だ。
まさに、「チュークマ」。
途中、溢れ零れた皿受けの「ウメ割」を・・・・・
まるで子どもの頃に駄菓子屋で「さぐり」に中った時のような気分でコップに戻す。
<少し増えている・・・>
裸電球に透かして量を確かめ「ニンマリ」。
「チュ―クマ」のもうひとつの売りは「濁り酒」だろう。
誰とはなしに酒飲みが度胸試しのつもりでそれを覚える。
変な話、胃カメラの時の「バリュウム」のような感じが最初の憶えである。
慣れて来ると確かに美味いに違いは無いが兎に角、足腰に来るのが騒ぎである。
僕は2杯目は遠慮する事にしていた。
そんな「チュークマ」のそれは、昭和45年。
僕が当時隆盛の「キャバレー」でドラムを叩いていた・・・・・
そんな時代の話である。
実は先日、飯塚の「ヤオコー」で、その「チュークマ」の息子さんとばったり。
僕より一学年下で高崎二中で、たしか柔道部。お勤めは役所だったと記憶するが確証はない。
昔の面影は十分たたえておられた。
「宇喜代」はビューホテルとなり、「チュークマ」は飲み屋のテナントビルに。
行き交う人も車も少ない、隔世の感ありの柳通り。そういえばラーメンの「ささき」は本物の「支那そば」で、「滅メシ」。
二代目、それとも三代目?大将、高崎二中で同級生、柔道部でしたね、当時はいかにもという趣の佐々木君だったけど・・・・・
店を閉める頃にはあれほどの巨漢だったのにツイッギーでした。
ラーメン屋の「珍満」も「一ノ倉」(?)も閉まっちゃって、唯一、その路地を入ったところに「華」というカラオケスナックは「絶ノミ」。
昔あったところから移転して狭い店になっちゃったけど、なんてったって「ぬか漬け「ナス・胡瓜」が絶品。
そして、昔ながらといえば「富士久」も絶メシ」どころか「滅メシ」(^_^;)。
そうそう、らっちゃん、大蓮も「滅メシ」んなっちゃたけど富士久」のギョーザ、タンメン、焼きそばは絶品だった。
ま、高崎の中華三大焼きそばといえば、「らっちゃん・大蓮・富士久」でした。
しかしねぇ、すっかり変わってしまった「柳川町」の夜。
そういえば「柳川町ブルース」「柳川町艶歌」というご当地ソングがあった。
たしか、流しの「ゆきちゃん」だったか「じゅんちゃん」だったか?
残念ながら、ご両人とも鬼籍に。
流しといえば、なんたって外せないのが「たまちゃん」。なにせ元祖弾き語り。
ギターに隠れちゃいそうな小さな体でした、たまちゃん。
最後に見たのは成田町界隈で、柳川町から柳川町らしさが消えそうな頃でした、昭和の終わり。
その「たまちゃん」、今はどちらかの施設で余生をとかを風の便りに、齢、オクターブエフ十くらいかと。。
【高崎紀行】柳川町滅ノミ中熊とその界隈
↑ココも「絶ノミ」なんだが・・・
常連さん、僕も含めて高齢化です。
そう――――
そんな店はなにも小奇麗である必要はない。
できれば、灯りは「松下式」二股ソケットの紐付き・・・・・
2段切替スイッチあたりが隙間風に触られていると嬉しい。
それに少しひしゃげたアルマイトの灰皿、
そして、漆の箸も使い古しの年季の入った塗りのやつ。
更に欲を言えば零れ張りのある格子の障子窓。
そこには雨露を忍んだ幾重もの染みでもあれば肴には困らない。
そして、開け閉めに一工夫させられる滑車の引戸・・・・・・・
もちろん取っ手の所は庶民の血と汗と涙が染み付いて黒光りしているそれ。
そこには、時期でも良ければ開け放たれた障子、格子の隙間から知った顔がちらほら。
それでもどう云うわけかそれなりに気を遣いながら、
開けかけた暖簾を避けて具合のいい席を選る。
「ここが空いてるよ」
と、常連だろう何気に気安いのはいつものこと。
そう云った店は団体で来る客はそうはいない・・・・・
大概が一人か二人と決まっている。
それでも3人寄らずとも、そこそこに仕上がってくると、
そこは酒場、つまらない揉め事を肴に客同士が結構賑やかになる。
当然、贅沢なブランデーやウイスキーなどは無い・・・・・
精々が「角」かトリスのポケットではないだろうか。
そんな店の中、口角に泡を飛ばした五月蝿さが日々の溜飲を下げている。
蝿取り紙に吸い付かれた蝿が裸電球にに透けてジタバタしている。
贅沢だろうか、そうかもしれない。
否、たしかにそれは贅沢というものである。
本当に贅沢であった。
昭和を離れて二〇と余年、もうそこにはその店はない
「中熊」。
僕らは、「チュークマ」と呼んでいた・・・・・・
高崎の夜の政官財界奥座敷として名を馳せていた「宇喜代」の路地を挟んで、
その辻向かいに「中熊」はあった。
「宇喜代」がお偉方の奥座敷なら、「中熊」は労働者の隠れ家。
それにしてもあの時代は棲み分けの良い時代ではあった。
「中熊」は亭主は厨房で肴を、おかみさんはカウンターで鍋守。
何と言っても、一番のウリ「モツ煮込」。
それは相当に年季の入った仕込であることはその味が証明している。
器は瀬戸物、箸はけして割箸などではない。ご案内のように上物ではないにしろ、
その漆塗り箸の持て成しのぶっちょうさが嬉しい。
それに、季節物の「漬物」と来た日には、「中熊」これが絶品である!!
当然、夏場には茄子と胡瓜、カブ、の糠漬けだ。そして冬場は白菜漬けが・・・・・・
申し訳ないが、これにその「煮込み」があれば、「宇喜代」とて敵うまい。
とは言うものの吾輩、「宇喜代」とやらに上がれるほどの身分でない、
よってそれは只の僻みじゃあないかと言われてしまえばそれまでだが。
何しろ、「宇喜代」とやらでいったいどんなものを飲ませて食わせてくれるのかは、
想像もしたことが無いし、できないのだから(笑)。
そこでの酒の銘柄は憶えていない。
と云ううよりそこは「中熊」で、「チュークマ」と呼ぶくらいだから、
呑むのは焼酎、ご存知「ウメ割」である。これがまた矢鱈と逸品である。
分厚い傷だらけのカットグラス、っていうか、そんな気取った物ではないそれは「コップ」。
皿受けに零れても尚、並々と注いでくれる・・・・・・
中学で習った・・・?
小学校だったかのそれ、「表面張力」に嬉々としながら、
まず、両手を膝の上に置き徐を装いグラスに口づけ、「チューッ」っとイクッ、それが作法だ。
まさに、「チュークマ」。
途中、溢れ零れた皿受けの「ウメ割」を・・・・・
まるで子どもの頃に駄菓子屋で「さぐり」に中った時のような気分でコップに戻す。
<少し増えている・・・>
裸電球に透かして量を確かめ「ニンマリ」。
「チュ―クマ」のもうひとつの売りは「濁り酒」だろう。
誰とはなしに酒飲みが度胸試しのつもりでそれを覚える。
変な話、胃カメラの時の「バリュウム」のような感じが最初の憶えである。
慣れて来ると確かに美味いに違いは無いが兎に角、足腰に来るのが騒ぎである。
僕は2杯目は遠慮する事にしていた。
そんな「チュークマ」のそれは、昭和45年。
僕が当時隆盛の「キャバレー」でドラムを叩いていた・・・・・
そんな時代の話である。
実は先日、飯塚の「ヤオコー」で、その「チュークマ」の息子さんとばったり。
僕より一学年下で高崎二中で、たしか柔道部。お勤めは役所だったと記憶するが確証はない。
昔の面影は十分たたえておられた。
「宇喜代」はビューホテルとなり、「チュークマ」は飲み屋のテナントビルに。
行き交う人も車も少ない、隔世の感ありの柳通り。そういえばラーメンの「ささき」は本物の「支那そば」で、「滅メシ」。
二代目、それとも三代目?大将、高崎二中で同級生、柔道部でしたね、当時はいかにもという趣の佐々木君だったけど・・・・・
店を閉める頃にはあれほどの巨漢だったのにツイッギーでした。
ラーメン屋の「珍満」も「一ノ倉」(?)も閉まっちゃって、唯一、その路地を入ったところに「華」というカラオケスナックは「絶ノミ」。
昔あったところから移転して狭い店になっちゃったけど、なんてったって「ぬか漬け「ナス・胡瓜」が絶品。
そして、昔ながらといえば「富士久」も絶メシ」どころか「滅メシ」(^_^;)。
そうそう、らっちゃん、大蓮も「滅メシ」んなっちゃたけど富士久」のギョーザ、タンメン、焼きそばは絶品だった。
ま、高崎の中華三大焼きそばといえば、「らっちゃん・大蓮・富士久」でした。
しかしねぇ、すっかり変わってしまった「柳川町」の夜。
そういえば「柳川町ブルース」「柳川町艶歌」というご当地ソングがあった。
たしか、流しの「ゆきちゃん」だったか「じゅんちゃん」だったか?
残念ながら、ご両人とも鬼籍に。
流しといえば、なんたって外せないのが「たまちゃん」。なにせ元祖弾き語り。
ギターに隠れちゃいそうな小さな体でした、たまちゃん。
最後に見たのは成田町界隈で、柳川町から柳川町らしさが消えそうな頃でした、昭和の終わり。
その「たまちゃん」、今はどちらかの施設で余生をとかを風の便りに、齢、オクターブエフ十くらいかと。。
【高崎紀行】柳川町滅ノミ中熊とその界隈
Posted by 昭和24歳
at 09:33
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