2018年02月06日
おじいちゃんの「少年時代 」話をしよう
おじいちゃんの「少年時代 」の話をしよう
昭和24年2月11日生まれだから・・・
もうすぐ69歳だ、孫、6人。
ずっと「おじちゃん」を拒んできたH少年(笑)。
昭和30年代のことだ・・・・・
僕が物心ついての祭りというと、そこいら中の神社という神社の入り口にはアコーディオンやバイオリンを物悲しそうに奏でる白服の傷痍軍人の姿が必ずあった。もちろん兵隊帽子を深々と被り、色眼鏡に松葉杖、義足に片腕での演奏と、色々だった。
それをまるで無視するかのように、いや、無視するというよりは忌み嫌い蔑視するようにして聴き流し、見て見ぬフリをする父母のその時の何故かしかめた顔もその音とともに思い出される。
ほぼ同世代。戦前、戦中と南方、北支にお国のためと、家族の、国民のためと銃後の守りを信じた末の負傷復員兵。新生日本「万歳万歳」の出征も敗戦焦土に迎える同世代の目はこうも冷たいものだったのかと今にしてみると思えてならない。
そして、それはこの平成の世に上野公園、墨田公園のブルーテントの脇を見て見ぬフリをしながら通り去る僕らの顔を映しえに見るようで心地は悪い。
何れの時代それは「傷痍軍人」も、ブルーテントの「ホームレス」のみなさんも、その時代を括る風景としての「音」をそこに見る。時代に作られた耳に残る「音の風景」。
それは今にして作られたのではなく、おそらく「ホームレス」の人たちは僕等世代に違いない。
高度成長期、バブル経済―――
いや、それ以前の受験戦争、企業戦士といわれた競争社会を生き抜いてきた―――
それが僕ら世代の答えなんだろうか。
こんな答えを得るために僕等は生きてきたのだろうか。
「それで良かったんだろうか?」と、そんな気がしてならない。
月光仮面世代がこの国の中枢から去ろうとしている今、悪戯にどうしたことか余念がない政官財。かとおもえばニュースを騒がせるのは「子殺し、親殺し事件」や、得体の知れぬ「伝染病」やら、当時では想像することもなかったSNSとか言ったネットに絡む事件を報じる新聞、テレビの毎日。
情報過多なのだろうか。あの時代、知らされないことも随分とあったようにも思えるが、逆にそれが嘘のニュースを創作することもなかったような、あの時代は良心の時代だったのかもしれない。
言われる敗戦直後からの政治腐敗、汚職、疑獄。それらも単純明快でそこには幾分その「良心」の呵責が見て取れたような気がする。それはいつでもやり直しの利く「悪戯」のようなもので「嘘に嘘を重ねる」と言ったような慇懃なものではなかったような気がする。
今の平成のそれは、ひとつの嘘に幾重にも重ねに重ねてもなおボロボロとほころびの絶えない疑惑、事件。そこには聴く「音」は何もない。空耳か、耳鳴りか――――
記憶に留まる「音の風景」は何処を探しても見当たらない。そう感じるのは僕だけだろうか。
僕ら戦後世代には「夢」があった。
それは「戦争を知らない子どもたち」と歌われ、その意味では極めて「幸せな」な時代を過した世界でもまれな時代に生まれ育ったからではないだろうか。まあ、それにしても何もなかったせいなのかも知れない。
たしかに何もなかった(笑)。
テレビどころの話ではない。ラジオだって物心つくころでさえそう記憶はないし、オモチャや、ゲームがあるわけでもない。毎日は学校の校庭で、原っぱで、横丁で汗まみれ、泥まみれで仲間同士遊ぶしかなかった。
履物はズックなどは上等な物で、正月にやっと買ってもらえるくらいで、普段はゴム草履か下駄。靴下なんていう洒落た物はなく「足袋」それも幾重にも継ぎ当てをしたような代物で、真冬だって素足に草履、下駄なんていうのも珍しくはなかった。
真冬はしもやけ、アカギレ、青ん洟垂らしたり、ハタケにタムシなど等。着るものといえばお下がりのズボンに詰襟のツンツルテンのテッカテカで汚いの汚くないのと今時のパパやママが見たら目をむいてひっくり返ってしまうかも知れない。このところテレビで良く流してるお隣の「地上の楽園」の子ども達のよう。
それは今に言う、〈あの頃は良かった〉などといった代物ではない、それしかなかったのだ。
それは時代そのものが貧しく、それまでの軍国主義、富国強兵一辺倒時代から解放された親世代の安堵感のの中にも明日をも知れぬといった不安な毎日を暮らしながらも僕らの寝顔を見てその意味での平和を感じていたのではないだろうか。
しかし僕等、子ども達には「夢」があった。とてつもなくデッカイ夢をもてた。
それは敗戦による自由解放、民主主義のお陰なのだろうか。おそらく物不足の中にもその時代、初めて手にした自由。大人たちは雑誌を読み漁り、僕等子どもたちは次々と発刊される「少年王、冒険王、漫画王、少年画報」、 そしてそれらに連載される月光仮面、赤胴鈴の助、はては二一世紀の現代を予測する鉄腕アトム、正義、正義、正義のオンパレード。
やがて、ラジオ、映画へと、そして、それは白黒テレビの西部劇に、アメリカ製のホームドラマに、そして洋楽のヒットパレードに夢中になる頃になると夢は外国へ行くこと、自動車を乗り回すこと、自分のなりたいものになると言う将来未来を描くこと。
しかしそれはけして手の届くことのない叶うことのない「夢また夢」の毎日だった。それでも僕等は夢を追いかけて、求め続けた。
はたしてそれが今はあるだろうか。僕らが夢にと描いていたことが今ではそれがいとも簡単に「手品」のように叶ってしまう。
しかし、その「夢」は掴むのではなく買う「夢」。じっくりと時間をかけて、心から願ってのそれではない「お金で買う夢」。自分で想像した夢ではなく誰かが拵えた売り物の夢。
僕の言う夢とは今の小学生が見るような夢ではない。女の子なら看護婦さんになりたいとか、ケーキ屋さんになりたいとか。男の子ならパイロットとか野球選手、サッカーの選手とかのことではない。
やはりそれは一五、六で見る夢。それは「自分」を探しの夢。
まさかそんな僕自身、その時には自分が69歳になるなどとは「努々」思いもしなかったがその一五、六で見た夢。
ドラムを叩いて、エレキを弾いての生活、それを今日していると言うことは、くどいようだが「場末の楽士」であろうとも満悦至極とふり返る。
僕には平成の「音の風景」はない。あるのは戦後のセピアカラーに染められた昭和の「音の風景」。
目を閉じた時の、その音の風景――――
それはまるで少年だったあの頃、押入れの中で見た「幻灯写真」のように、僕に話しかけてくれる。
おじいちゃんの「少年時代 」話をしよう
昭和24年2月11日生まれだから・・・
もうすぐ69歳だ、孫、6人。
ずっと「おじちゃん」を拒んできたH少年(笑)。
昭和30年代のことだ・・・・・
僕が物心ついての祭りというと、そこいら中の神社という神社の入り口にはアコーディオンやバイオリンを物悲しそうに奏でる白服の傷痍軍人の姿が必ずあった。もちろん兵隊帽子を深々と被り、色眼鏡に松葉杖、義足に片腕での演奏と、色々だった。
それをまるで無視するかのように、いや、無視するというよりは忌み嫌い蔑視するようにして聴き流し、見て見ぬフリをする父母のその時の何故かしかめた顔もその音とともに思い出される。
ほぼ同世代。戦前、戦中と南方、北支にお国のためと、家族の、国民のためと銃後の守りを信じた末の負傷復員兵。新生日本「万歳万歳」の出征も敗戦焦土に迎える同世代の目はこうも冷たいものだったのかと今にしてみると思えてならない。
そして、それはこの平成の世に上野公園、墨田公園のブルーテントの脇を見て見ぬフリをしながら通り去る僕らの顔を映しえに見るようで心地は悪い。
何れの時代それは「傷痍軍人」も、ブルーテントの「ホームレス」のみなさんも、その時代を括る風景としての「音」をそこに見る。時代に作られた耳に残る「音の風景」。
それは今にして作られたのではなく、おそらく「ホームレス」の人たちは僕等世代に違いない。
高度成長期、バブル経済―――
いや、それ以前の受験戦争、企業戦士といわれた競争社会を生き抜いてきた―――
それが僕ら世代の答えなんだろうか。
こんな答えを得るために僕等は生きてきたのだろうか。
「それで良かったんだろうか?」と、そんな気がしてならない。
月光仮面世代がこの国の中枢から去ろうとしている今、悪戯にどうしたことか余念がない政官財。かとおもえばニュースを騒がせるのは「子殺し、親殺し事件」や、得体の知れぬ「伝染病」やら、当時では想像することもなかったSNSとか言ったネットに絡む事件を報じる新聞、テレビの毎日。
情報過多なのだろうか。あの時代、知らされないことも随分とあったようにも思えるが、逆にそれが嘘のニュースを創作することもなかったような、あの時代は良心の時代だったのかもしれない。
言われる敗戦直後からの政治腐敗、汚職、疑獄。それらも単純明快でそこには幾分その「良心」の呵責が見て取れたような気がする。それはいつでもやり直しの利く「悪戯」のようなもので「嘘に嘘を重ねる」と言ったような慇懃なものではなかったような気がする。
今の平成のそれは、ひとつの嘘に幾重にも重ねに重ねてもなおボロボロとほころびの絶えない疑惑、事件。そこには聴く「音」は何もない。空耳か、耳鳴りか――――
記憶に留まる「音の風景」は何処を探しても見当たらない。そう感じるのは僕だけだろうか。
僕ら戦後世代には「夢」があった。
それは「戦争を知らない子どもたち」と歌われ、その意味では極めて「幸せな」な時代を過した世界でもまれな時代に生まれ育ったからではないだろうか。まあ、それにしても何もなかったせいなのかも知れない。
たしかに何もなかった(笑)。
テレビどころの話ではない。ラジオだって物心つくころでさえそう記憶はないし、オモチャや、ゲームがあるわけでもない。毎日は学校の校庭で、原っぱで、横丁で汗まみれ、泥まみれで仲間同士遊ぶしかなかった。
履物はズックなどは上等な物で、正月にやっと買ってもらえるくらいで、普段はゴム草履か下駄。靴下なんていう洒落た物はなく「足袋」それも幾重にも継ぎ当てをしたような代物で、真冬だって素足に草履、下駄なんていうのも珍しくはなかった。
真冬はしもやけ、アカギレ、青ん洟垂らしたり、ハタケにタムシなど等。着るものといえばお下がりのズボンに詰襟のツンツルテンのテッカテカで汚いの汚くないのと今時のパパやママが見たら目をむいてひっくり返ってしまうかも知れない。このところテレビで良く流してるお隣の「地上の楽園」の子ども達のよう。
それは今に言う、〈あの頃は良かった〉などといった代物ではない、それしかなかったのだ。
それは時代そのものが貧しく、それまでの軍国主義、富国強兵一辺倒時代から解放された親世代の安堵感のの中にも明日をも知れぬといった不安な毎日を暮らしながらも僕らの寝顔を見てその意味での平和を感じていたのではないだろうか。
しかし僕等、子ども達には「夢」があった。とてつもなくデッカイ夢をもてた。
それは敗戦による自由解放、民主主義のお陰なのだろうか。おそらく物不足の中にもその時代、初めて手にした自由。大人たちは雑誌を読み漁り、僕等子どもたちは次々と発刊される「少年王、冒険王、漫画王、少年画報」、 そしてそれらに連載される月光仮面、赤胴鈴の助、はては二一世紀の現代を予測する鉄腕アトム、正義、正義、正義のオンパレード。
やがて、ラジオ、映画へと、そして、それは白黒テレビの西部劇に、アメリカ製のホームドラマに、そして洋楽のヒットパレードに夢中になる頃になると夢は外国へ行くこと、自動車を乗り回すこと、自分のなりたいものになると言う将来未来を描くこと。
しかしそれはけして手の届くことのない叶うことのない「夢また夢」の毎日だった。それでも僕等は夢を追いかけて、求め続けた。
はたしてそれが今はあるだろうか。僕らが夢にと描いていたことが今ではそれがいとも簡単に「手品」のように叶ってしまう。
しかし、その「夢」は掴むのではなく買う「夢」。じっくりと時間をかけて、心から願ってのそれではない「お金で買う夢」。自分で想像した夢ではなく誰かが拵えた売り物の夢。
僕の言う夢とは今の小学生が見るような夢ではない。女の子なら看護婦さんになりたいとか、ケーキ屋さんになりたいとか。男の子ならパイロットとか野球選手、サッカーの選手とかのことではない。
やはりそれは一五、六で見る夢。それは「自分」を探しの夢。
まさかそんな僕自身、その時には自分が69歳になるなどとは「努々」思いもしなかったがその一五、六で見た夢。
ドラムを叩いて、エレキを弾いての生活、それを今日していると言うことは、くどいようだが「場末の楽士」であろうとも満悦至極とふり返る。
僕には平成の「音の風景」はない。あるのは戦後のセピアカラーに染められた昭和の「音の風景」。
目を閉じた時の、その音の風景――――
それはまるで少年だったあの頃、押入れの中で見た「幻灯写真」のように、僕に話しかけてくれる。
おじいちゃんの「少年時代 」話をしよう
Posted by 昭和24歳
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