2016年07月14日
高崎「キネマ横丁」が始まるよ。
高崎「キネマ横丁」が始まるよ。
横丁のシキタリ。
その昔、戦後昭和の横丁には「シキタリ」があった。
「弱い者いじめはしない」「長い物には巻かれろ」「人のものを欲しがるな」
まあ、そんなところだろうか。みんながっ貧乏だったし、今みたいに6人に一人が貧困なんっていう話じゃあない。
100人いたら100人が貧困だった。101人目からどういうわけかうまい汁を吸っていた奴はいたようだが・・・・・
そういえば、僕の横丁にもこんな趣の飲み屋が2軒あった。
「めがね」と「大塚」とか言った、いわゆる赤ちょうちんのそれだ。
その「めがね」はなんと、高崎保育所の入り口の脇に(笑)。
戦後も10年、15年の話である、その騒々しさといったらなかった。
とにかく高砂町と来たら水島鉄工所、小島鉄工所があって、その周りにはそんな鉄工所の下請け工場がいくつもあって・・・・・
まあ、朝鮮動乱の最中だったんだろうか、いわゆる朝鮮特需で日本中の工場という工場が騒がしかった。
そうした中、訳のわかんないオヤジ連中の酒の勢いでの喧嘩が毎晩。
あんな大人にはなるまいと思っていたが・・・・・
で、“地域社会”だなんていうと大袈裟だが・・・・・・
僕が子どもの頃のご近所、“横丁”にはその地域社会というか、“子ども社会”がはっきりとあった。
それは学校とは全く関係のない“子ども”だけの秩序というか“掟”というか・・・・・・
そういった不文律の約束された社会があった。
僕らのガキ大将は“としおちゃん”
米屋の次男坊でそのガキ大将のとしおちゃんでも頭の上がらないのが、
兄貴で、2つ年上の“ゆきおちゃん”。
で、そのとしおちゃんでもどうにも手におえなかったのがきかん坊で腕白の、
弟の“よしおちゃん”。
そして双子の妹もいた。
そんなガキ大将の“としおちゃん”を中心に7人ほどの悪ガキグループが、
僕の地域、横丁にはあった。
後々知るところだが・・・・・・
そのとしおちゃん学校では体格もそれほど勝れているわけではなくどうやら目立たない存在だったとか。
しかし地域、横丁でのとしおちゃんの存在はいわゆる“親分”である。
相撲は強い、喧嘩も他所の横丁の悪ガキとも突貫小僧よろしく先頭を切って戦った。
そんなとしおちゃんの子分、配下には僕をはじめに、“もっちゃん”ともっちゃんの弟の“ノリちゃん”。
で、もっちゃんちのお父さんとお母さんは満洲帰り・・・・・・・
その頃もっちゃんのお父さんは蒸発してしまっていて“母子家庭”だった。
そして最近訃報を聞いたがとても野球の上手な“しゅうちゃん”と弟の“てっちゃん”と“まさみちゃん”がいた。
お父さんは僕の親爺と同じポッポ屋で、なんでも組合活動に奔走していて、
その 横丁では“アカ”と評判だった。
それに、としおちゃんの家の前の鶏屋の“セーちゃん”と弟の“まもるちゃん”。
そうそう、そのとしおちゃんの兄貴分の鍛冶屋の“ひろしちゃん。
ひろしちゃんは横丁の”先代のガキ大将だった。
まだまだいた・・・・・・
高いところに登るのが大好きだった越沢の“じゅんちゃんとか、
山田の“マーちゃん”、”田端の“マーちゃん”、鈴木の“マーちゃん”、塚越の“マーちゃん”、尾崎の“マーちゃん”と、
とにかく“マーちゃん”だらけの横丁だった。
ミシン屋の“ひろしちゃん”、関根の“ケンチャン”、湯浅の“一郎ちゃん”夜泣きそばの“もりや”、額田の“たっちゃん”、
箪笥屋の“ひさおちゃん”、樋口の“ケンチャン”、長井の“あきらちゃん”、山盛の“としおちゃん”・・・・・
全部でほぼ同い年が20人からいたわけで、そんな具合だから、まず、学校の同級生と遊ぶことはなかった。
ビー球、メンコ、ベーゴマ、相撲、かくれんぼう・・・・・・・
とにかく遊ぶことには欠く事はなかった。
兄弟のいなかった僕だったが、学校でのつまらないことなんかはそんな横丁の喧騒に何もかも忘れ思い切り遊びまくった。
時には喧嘩をし、そんなときはそのガキ大将の“としおちゃん”が仲裁に、
そしてあるときはそんなとしおちゃんに食って掛かって殴られて・・・・・
たしかに学校ではイジメもあったし、喧嘩をしたりとか嫌なこともあった。
まあ、やはり学校というところはひとつの「比較社会」だった。
良くも悪くも、いわゆる“デキル”という部分での競争社会の側面・・・・・・・
それでもそんな一人一人の同級生が家に帰れば夫々に“横丁”があった。
不文律の“子ども”の“子ども”による“子どもの”ための地域社会が厳然と存在していた。
今はそんな横丁がない。
子ども社会がない。
大人になるための準備のための社会がない・・・・・・
過日、『昭和35年度卒業高崎市立東小学校第5回同窓会』があった。
「これだけ人数がいても俺たちの中から市議、県議とかって誰もいねぇねぁ」
誰かがそんなことを言い出した・・・・・
よく見ると同窓会の面々、いずれも違わぬ横丁の悪ガキの趣(笑)。
もちろんそうでないそれなりの良家の子女もいないわけではなかったが・・・・・・
子ども社会という貴重な体験をしてきた戦後っ子。
どうやら、生きるうえでの知恵が自然にはぐくまれてきたようだ。
そしてそれはけして後付けの悪知恵ではない。
「だって、おめぇ、選挙に出てペコペコ頭下げて、作り笑いして、
皆さんのために頑張りますとか、腹にもないことを言って・・・・・そんなことできるわけねえだろぅ?」
そう言われてみると政治の社会は“学校”のようなもの・・・・・・
競走社会、ある種それは戦場だ。
けして横丁ではない。
さっきまで 参議院選挙とか喧しかったけど・・・・・
学校だけで、成績の優劣だけで、点数だけで“情”を一切排除した社会育ちの、
ソンな面々が「国民のため」とかであるから片腹痛い。
まあ、今日では、学校での部活がその横丁の役割を果たしてきている・・・・・・
部活を通して先輩後輩、そんな社会で生きる術を知る。
まさか、政治に部活があるわけじゃあないどろうが、いや、あるかも知れない「裏国対」とか「お座敷政治」でのガキ大将とか(笑)。
健全な子ども社会が将来の明るい社会づくりに・・・・・・
まあ、健全とは言ってもいろんな意味でのそれだが、 少子化の昨今、学業の競争社会でははたしてこの国は立ち上がれるのか。
鳩山さんも横丁は知りませんね・・・・・・
僕より2級上、弟は同い年。死んじゃったけど。金がいくらあっても死ぬ時は死ぬんだね。
もっとも音羽の御殿に横丁なんぞあろうはずもないだろうが(笑)。
高崎「キネマ横丁」が始まるよ。
横丁のシキタリ。
その昔、戦後昭和の横丁には「シキタリ」があった。
「弱い者いじめはしない」「長い物には巻かれろ」「人のものを欲しがるな」
まあ、そんなところだろうか。みんながっ貧乏だったし、今みたいに6人に一人が貧困なんっていう話じゃあない。
100人いたら100人が貧困だった。101人目からどういうわけかうまい汁を吸っていた奴はいたようだが・・・・・
そういえば、僕の横丁にもこんな趣の飲み屋が2軒あった。
「めがね」と「大塚」とか言った、いわゆる赤ちょうちんのそれだ。
その「めがね」はなんと、高崎保育所の入り口の脇に(笑)。
戦後も10年、15年の話である、その騒々しさといったらなかった。
とにかく高砂町と来たら水島鉄工所、小島鉄工所があって、その周りにはそんな鉄工所の下請け工場がいくつもあって・・・・・
まあ、朝鮮動乱の最中だったんだろうか、いわゆる朝鮮特需で日本中の工場という工場が騒がしかった。
そうした中、訳のわかんないオヤジ連中の酒の勢いでの喧嘩が毎晩。
あんな大人にはなるまいと思っていたが・・・・・
で、“地域社会”だなんていうと大袈裟だが・・・・・・
僕が子どもの頃のご近所、“横丁”にはその地域社会というか、“子ども社会”がはっきりとあった。
それは学校とは全く関係のない“子ども”だけの秩序というか“掟”というか・・・・・・
そういった不文律の約束された社会があった。
僕らのガキ大将は“としおちゃん”
米屋の次男坊でそのガキ大将のとしおちゃんでも頭の上がらないのが、
兄貴で、2つ年上の“ゆきおちゃん”。
で、そのとしおちゃんでもどうにも手におえなかったのがきかん坊で腕白の、
弟の“よしおちゃん”。
そして双子の妹もいた。
そんなガキ大将の“としおちゃん”を中心に7人ほどの悪ガキグループが、
僕の地域、横丁にはあった。
後々知るところだが・・・・・・
そのとしおちゃん学校では体格もそれほど勝れているわけではなくどうやら目立たない存在だったとか。
しかし地域、横丁でのとしおちゃんの存在はいわゆる“親分”である。
相撲は強い、喧嘩も他所の横丁の悪ガキとも突貫小僧よろしく先頭を切って戦った。
そんなとしおちゃんの子分、配下には僕をはじめに、“もっちゃん”ともっちゃんの弟の“ノリちゃん”。
で、もっちゃんちのお父さんとお母さんは満洲帰り・・・・・・・
その頃もっちゃんのお父さんは蒸発してしまっていて“母子家庭”だった。
そして最近訃報を聞いたがとても野球の上手な“しゅうちゃん”と弟の“てっちゃん”と“まさみちゃん”がいた。
お父さんは僕の親爺と同じポッポ屋で、なんでも組合活動に奔走していて、
その 横丁では“アカ”と評判だった。
それに、としおちゃんの家の前の鶏屋の“セーちゃん”と弟の“まもるちゃん”。
そうそう、そのとしおちゃんの兄貴分の鍛冶屋の“ひろしちゃん。
ひろしちゃんは横丁の”先代のガキ大将だった。
まだまだいた・・・・・・
高いところに登るのが大好きだった越沢の“じゅんちゃんとか、
山田の“マーちゃん”、”田端の“マーちゃん”、鈴木の“マーちゃん”、塚越の“マーちゃん”、尾崎の“マーちゃん”と、
とにかく“マーちゃん”だらけの横丁だった。
ミシン屋の“ひろしちゃん”、関根の“ケンチャン”、湯浅の“一郎ちゃん”夜泣きそばの“もりや”、額田の“たっちゃん”、
箪笥屋の“ひさおちゃん”、樋口の“ケンチャン”、長井の“あきらちゃん”、山盛の“としおちゃん”・・・・・
全部でほぼ同い年が20人からいたわけで、そんな具合だから、まず、学校の同級生と遊ぶことはなかった。
ビー球、メンコ、ベーゴマ、相撲、かくれんぼう・・・・・・・
とにかく遊ぶことには欠く事はなかった。
兄弟のいなかった僕だったが、学校でのつまらないことなんかはそんな横丁の喧騒に何もかも忘れ思い切り遊びまくった。
時には喧嘩をし、そんなときはそのガキ大将の“としおちゃん”が仲裁に、
そしてあるときはそんなとしおちゃんに食って掛かって殴られて・・・・・
たしかに学校ではイジメもあったし、喧嘩をしたりとか嫌なこともあった。
まあ、やはり学校というところはひとつの「比較社会」だった。
良くも悪くも、いわゆる“デキル”という部分での競争社会の側面・・・・・・・
それでもそんな一人一人の同級生が家に帰れば夫々に“横丁”があった。
不文律の“子ども”の“子ども”による“子どもの”ための地域社会が厳然と存在していた。
今はそんな横丁がない。
子ども社会がない。
大人になるための準備のための社会がない・・・・・・
過日、『昭和35年度卒業高崎市立東小学校第5回同窓会』があった。
「これだけ人数がいても俺たちの中から市議、県議とかって誰もいねぇねぁ」
誰かがそんなことを言い出した・・・・・
よく見ると同窓会の面々、いずれも違わぬ横丁の悪ガキの趣(笑)。
もちろんそうでないそれなりの良家の子女もいないわけではなかったが・・・・・・
子ども社会という貴重な体験をしてきた戦後っ子。
どうやら、生きるうえでの知恵が自然にはぐくまれてきたようだ。
そしてそれはけして後付けの悪知恵ではない。
「だって、おめぇ、選挙に出てペコペコ頭下げて、作り笑いして、
皆さんのために頑張りますとか、腹にもないことを言って・・・・・そんなことできるわけねえだろぅ?」
そう言われてみると政治の社会は“学校”のようなもの・・・・・・
競走社会、ある種それは戦場だ。
けして横丁ではない。
さっきまで 参議院選挙とか喧しかったけど・・・・・
学校だけで、成績の優劣だけで、点数だけで“情”を一切排除した社会育ちの、
ソンな面々が「国民のため」とかであるから片腹痛い。
まあ、今日では、学校での部活がその横丁の役割を果たしてきている・・・・・・
部活を通して先輩後輩、そんな社会で生きる術を知る。
まさか、政治に部活があるわけじゃあないどろうが、いや、あるかも知れない「裏国対」とか「お座敷政治」でのガキ大将とか(笑)。
健全な子ども社会が将来の明るい社会づくりに・・・・・・
まあ、健全とは言ってもいろんな意味でのそれだが、 少子化の昨今、学業の競争社会でははたしてこの国は立ち上がれるのか。
鳩山さんも横丁は知りませんね・・・・・・
僕より2級上、弟は同い年。死んじゃったけど。金がいくらあっても死ぬ時は死ぬんだね。
もっとも音羽の御殿に横丁なんぞあろうはずもないだろうが(笑)。
高崎「キネマ横丁」が始まるよ。
Posted by 昭和24歳
at 21:11
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