2015年05月20日
団塊「日本昔ばなし」
団塊「日本昔ばなし」
サンフランシスコ講和条約発効により「戦後復興事業」という巨大な公共事業がスタートした。
その中心が「首都高速道路」「環七」「地下鉄」「第一京浜」「東名高速道路」そして「東海道新幹線」建設。
講和条約発効により、全面返還された「羽田空港」、それを「東京国際空港」にするための埋め立てと大規模工事。
当然、「人手不足」ですから、それは僕らが二十歳頃の比ではなかったようだったらしい。
まあ、当時の川崎はそんな出稼ぎ、雑多雑種の若者の坩堝(るつぼ)だった。それは東海道線国鉄川崎駅というより「京浜急行」つまり東京都大田区から横浜までの港湾沿い集積された「公共事業」に群がった人たち・・・・・
京急川崎には徒歩5分に「川崎競輪場(通産省)」「川崎競馬場(農水省)」。で、大田区に入れば京急沿い「大井競馬場」「平和島競艇(運輸省)」が。
まあ、日本全国から一旗揚げようっていう若者が押し寄せたわけです。で、仕事はいくらでもあった、そんな時代でしたから、まあ、日雇いです。一日働いて、一日博打。まあ勝てば、二日でも三日でも博打(笑)。
で、当時は覚せい剤「ヒロポン」は読売新聞でも広告宣伝してましたから、なんでも寝ずに仕事して倍稼いで博打だったとか。
今年で84歳になるピアノの大先輩、二十歳の岡山から東京でのミュージシャンを目指して夜行列車に乗ったそうです。
何を勘違いしたか朝方、国鉄「川崎駅」で降りちゃって、そしたら早速何人もの「口入れ」人足集めが改札口に押し寄せ、引っ張りだこだったとか。
で、まあ、日雇いだったけど「顎足枕付」で一日700円。なにせ当時の大卒初任給が1万2千円くらいのそんな時代でしたから、一ヶ月まるまる働いたら2万1千円が、まるまる。
で、普通の出稼ぎの人たちは、博打、公営ギャンブルにハマっちゃうわけです。だって「ヒロポン」薬局で普通に売ってた時代でしたから、まあ、「リゲイン」でした。
そんなわけで、その先輩ピアニスト、22歳の頃だったんでしょうか絢爛豪華な「キャバレー」の門を叩いたそうです。「川崎」の。
まあ、とにかく昭和30年ころって言ったらそこいら中にキャバレーがあって何処の店もバンドが入っていましたね。あと、ダンスホールも。
先輩、川崎を東京と間違えて、川崎のキャバレーで仕事をするうちに、まあ、「若者」でしたからスカウトされて先輩、川崎を東京と間違えて、川崎のキャバレーで仕事をするうちに、まあ、「若者」でしたからスカウトされて赤羽のキャバレーへ。
で、その赤羽なんだけどベトナム戦争が終わるまで「米軍基地(十条キャンプ)」があったそうで、その赤羽のキャバレーもGIブルースだったとか。
まあ、僕ら「団塊世代」よりふた世代上でしょうか、昭和一桁世代。軍国少年でしたから。
で、振り返ってみると僕も、ローカルな高崎というところで、グループサウンズ先輩とやってて、短かったけど青春しましたね。
グヤトーンの「全国エレキ合戦」と絡ませてだけど、群馬音楽センターで二度のリサイタル(笑)。
で、22の時に「おらさ東京へ行くだ」で、片道470円の切符を買って東京へ。
なぜか、「上野」じゃあなかった。僕の場合は赤羽で降りて「赤羽線」で池袋へ、そこから新宿へ。
最初は、友達のところに転がり込んで、時期にアレです・・・・・・
時代は高度経済成長中盤だったでしょうか、新宿西口公園のところはまだ「淀橋浄水場」だったのでは?
で、ちょうど「京王プラザホテル」がオープンした頃です。
セツ・モードセミナーに通っていた同級生の話で、高田馬場公園か新宿駅南口に並ぶと、いいバイトになるとかで・・・・・
高田馬場公園は「地下鉄の深夜工事」、新宿駅南口は「川崎臨海工業地帯」のビン工場でのビンの清掃、深夜。
まあ、「地下鉄工事」はキツそうだなぁ、っていうことで「川崎臨海工業地帯」へ。夜食付きで1600円くらいだったと記憶。
で、そんなのを3ヶ月くらい続けて、いくらかお金ができたので西武新宿線「新井薬師前」徒歩5分のところにアパートを友達とシェア。
4畳半一間、水道ガスコンロ付き、トイレは共同、陽は一切当たらなかったけどたしか、7,000円。
新井薬師前駅の構内にあった「焼きそば」美味かったなぁ、という忘れられない記憶が。
で、そこからが僕の「エレキ一代記」人生の始まりでした。
ところで、川崎の一件じゃあないけど、被害者の皆さん「団塊世代」です。
49の簡易宿泊所立ち入り検査へ 火災受け川崎市消防局
日本経済新聞 2015/5/19 13:26
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG19H1V_Z10C15A5CC0000/
なんか、ここに来て悲しい現実を突きつけられた感じですね。
俺たちの世代、なんでこんなことになってしまったのか・・・・・
そう感じさせられる、同世代はここ、高崎にもいます。
高崎まで来ると「簡易宿泊施設」で「生活保護」って流石にないですけど。
結婚してない、離婚して家族がいない、もちろんも親もいない、兄弟も高齢者ですから疎遠。
昔みたいに、知った飲み屋で「飲み仲間」っていうのも、今は年を取って一人欠け、二人欠け、っていうか、その飲み屋すらない、亭主が高齢化でとっくの昔に店仕舞い。
先日も二つ上のバンドの先輩と話をしていて、昔の知った連中の話になって・・・・・
「な~んだ、みんな死んじゃったんか」
30代の頃、夜の繁華街を肩で風切って歩いてた親分87歳「Sさんくらいだね、引退したけど生きてるの」。
あとの組幹部の人も50代でだいたい死んでいる。「C型肝炎」からガンですね。
まあ、全身、手首、足首まで「唐栗紋々」ですから皮膚呼吸できませんし、注射針の回し射ちでしょうか、感染、ほとんどがそれで寿命縮めてます。
同級生、66歳。大きな農家の長男、兼業で大企業工場に就職、定年。両親は数年前に他界。
大きな屋敷に一人ぼっち。昔は休みって言ったらパチンコかゴルフか飲み屋でドンチャン騒ぎ。
さそっても「面倒くせぇ」で、なかなか出てこない。
全くの無趣味。
「パソコン」、全くわからない。
「バンド」、それこそ分からない。
しかしねぇ、川崎の一件だけど生活保護費、住宅扶助で7万円から8万円。で、その他の生活費全て扶助しているわけだから、それだったら公営アパートにでもして、行政で借り上げてもっとまともな施設にしたらと思うが。
だいいち、そんな住環境の悪さだったら、健康に悪いし、医療費増大にもつながる。
で、まともな住環境に住んでもらって、体の動く人は、行政関連の仕事、介護職だってなんだって臨時公務員として役所から派遣する。
もちろんそういう人たちの健康管理もする。
まあ、公共サービスです「介護」。そこが人手不足なら、そうすることが一番じゃない。
そうするほうが安上がりだろうと思うんだが・・・・・
そうすると、行政、なんか不都合でもあるんでしょうか。
生活保護ピンハネビジネス業界から面倒なことが(´Д`;)
団塊「日本昔ばなし」
サンフランシスコ講和条約発効により「戦後復興事業」という巨大な公共事業がスタートした。
その中心が「首都高速道路」「環七」「地下鉄」「第一京浜」「東名高速道路」そして「東海道新幹線」建設。
講和条約発効により、全面返還された「羽田空港」、それを「東京国際空港」にするための埋め立てと大規模工事。
当然、「人手不足」ですから、それは僕らが二十歳頃の比ではなかったようだったらしい。
まあ、当時の川崎はそんな出稼ぎ、雑多雑種の若者の坩堝(るつぼ)だった。それは東海道線国鉄川崎駅というより「京浜急行」つまり東京都大田区から横浜までの港湾沿い集積された「公共事業」に群がった人たち・・・・・
京急川崎には徒歩5分に「川崎競輪場(通産省)」「川崎競馬場(農水省)」。で、大田区に入れば京急沿い「大井競馬場」「平和島競艇(運輸省)」が。
まあ、日本全国から一旗揚げようっていう若者が押し寄せたわけです。で、仕事はいくらでもあった、そんな時代でしたから、まあ、日雇いです。一日働いて、一日博打。まあ勝てば、二日でも三日でも博打(笑)。
で、当時は覚せい剤「ヒロポン」は読売新聞でも広告宣伝してましたから、なんでも寝ずに仕事して倍稼いで博打だったとか。
今年で84歳になるピアノの大先輩、二十歳の岡山から東京でのミュージシャンを目指して夜行列車に乗ったそうです。
何を勘違いしたか朝方、国鉄「川崎駅」で降りちゃって、そしたら早速何人もの「口入れ」人足集めが改札口に押し寄せ、引っ張りだこだったとか。
で、まあ、日雇いだったけど「顎足枕付」で一日700円。なにせ当時の大卒初任給が1万2千円くらいのそんな時代でしたから、一ヶ月まるまる働いたら2万1千円が、まるまる。
で、普通の出稼ぎの人たちは、博打、公営ギャンブルにハマっちゃうわけです。だって「ヒロポン」薬局で普通に売ってた時代でしたから、まあ、「リゲイン」でした。
そんなわけで、その先輩ピアニスト、22歳の頃だったんでしょうか絢爛豪華な「キャバレー」の門を叩いたそうです。「川崎」の。
まあ、とにかく昭和30年ころって言ったらそこいら中にキャバレーがあって何処の店もバンドが入っていましたね。あと、ダンスホールも。
先輩、川崎を東京と間違えて、川崎のキャバレーで仕事をするうちに、まあ、「若者」でしたからスカウトされて先輩、川崎を東京と間違えて、川崎のキャバレーで仕事をするうちに、まあ、「若者」でしたからスカウトされて赤羽のキャバレーへ。
で、その赤羽なんだけどベトナム戦争が終わるまで「米軍基地(十条キャンプ)」があったそうで、その赤羽のキャバレーもGIブルースだったとか。
まあ、僕ら「団塊世代」よりふた世代上でしょうか、昭和一桁世代。軍国少年でしたから。
で、振り返ってみると僕も、ローカルな高崎というところで、グループサウンズ先輩とやってて、短かったけど青春しましたね。
グヤトーンの「全国エレキ合戦」と絡ませてだけど、群馬音楽センターで二度のリサイタル(笑)。
で、22の時に「おらさ東京へ行くだ」で、片道470円の切符を買って東京へ。
なぜか、「上野」じゃあなかった。僕の場合は赤羽で降りて「赤羽線」で池袋へ、そこから新宿へ。
最初は、友達のところに転がり込んで、時期にアレです・・・・・・
時代は高度経済成長中盤だったでしょうか、新宿西口公園のところはまだ「淀橋浄水場」だったのでは?
で、ちょうど「京王プラザホテル」がオープンした頃です。
セツ・モードセミナーに通っていた同級生の話で、高田馬場公園か新宿駅南口に並ぶと、いいバイトになるとかで・・・・・
高田馬場公園は「地下鉄の深夜工事」、新宿駅南口は「川崎臨海工業地帯」のビン工場でのビンの清掃、深夜。
まあ、「地下鉄工事」はキツそうだなぁ、っていうことで「川崎臨海工業地帯」へ。夜食付きで1600円くらいだったと記憶。
で、そんなのを3ヶ月くらい続けて、いくらかお金ができたので西武新宿線「新井薬師前」徒歩5分のところにアパートを友達とシェア。
4畳半一間、水道ガスコンロ付き、トイレは共同、陽は一切当たらなかったけどたしか、7,000円。
新井薬師前駅の構内にあった「焼きそば」美味かったなぁ、という忘れられない記憶が。
で、そこからが僕の「エレキ一代記」人生の始まりでした。
ところで、川崎の一件じゃあないけど、被害者の皆さん「団塊世代」です。
49の簡易宿泊所立ち入り検査へ 火災受け川崎市消防局
日本経済新聞 2015/5/19 13:26
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG19H1V_Z10C15A5CC0000/
なんか、ここに来て悲しい現実を突きつけられた感じですね。
俺たちの世代、なんでこんなことになってしまったのか・・・・・
そう感じさせられる、同世代はここ、高崎にもいます。
高崎まで来ると「簡易宿泊施設」で「生活保護」って流石にないですけど。
結婚してない、離婚して家族がいない、もちろんも親もいない、兄弟も高齢者ですから疎遠。
昔みたいに、知った飲み屋で「飲み仲間」っていうのも、今は年を取って一人欠け、二人欠け、っていうか、その飲み屋すらない、亭主が高齢化でとっくの昔に店仕舞い。
先日も二つ上のバンドの先輩と話をしていて、昔の知った連中の話になって・・・・・
「な~んだ、みんな死んじゃったんか」
30代の頃、夜の繁華街を肩で風切って歩いてた親分87歳「Sさんくらいだね、引退したけど生きてるの」。
あとの組幹部の人も50代でだいたい死んでいる。「C型肝炎」からガンですね。
まあ、全身、手首、足首まで「唐栗紋々」ですから皮膚呼吸できませんし、注射針の回し射ちでしょうか、感染、ほとんどがそれで寿命縮めてます。
同級生、66歳。大きな農家の長男、兼業で大企業工場に就職、定年。両親は数年前に他界。
大きな屋敷に一人ぼっち。昔は休みって言ったらパチンコかゴルフか飲み屋でドンチャン騒ぎ。
さそっても「面倒くせぇ」で、なかなか出てこない。
全くの無趣味。
「パソコン」、全くわからない。
「バンド」、それこそ分からない。
しかしねぇ、川崎の一件だけど生活保護費、住宅扶助で7万円から8万円。で、その他の生活費全て扶助しているわけだから、それだったら公営アパートにでもして、行政で借り上げてもっとまともな施設にしたらと思うが。
だいいち、そんな住環境の悪さだったら、健康に悪いし、医療費増大にもつながる。
で、まともな住環境に住んでもらって、体の動く人は、行政関連の仕事、介護職だってなんだって臨時公務員として役所から派遣する。
もちろんそういう人たちの健康管理もする。
まあ、公共サービスです「介護」。そこが人手不足なら、そうすることが一番じゃない。
そうするほうが安上がりだろうと思うんだが・・・・・
そうすると、行政、なんか不都合でもあるんでしょうか。
生活保護ピンハネビジネス業界から面倒なことが(´Д`;)
団塊「日本昔ばなし」
Posted by 昭和24歳
at 11:10
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