2014年02月05日
昭和30年代、横丁の「朝餉・夕餉」風景
昭和30年代、
横丁の「朝餉・夕餉」

高崎市立東小学校4年3組、担任は新井先生。
昭和33年、あの時代は三食買出しだった。
僕の子どもの頃の話しだから、相当古い話しになる(笑)。
朝ごはんは、たいがい“卵かけご飯”か、納豆と佃煮に、それに・・・・・・
夏場なら「ナス、きゅうり」の糠漬け、
冬場なら「沢庵か白菜」の漬物が相場だった。
あの頃は、“納豆売り”のおばさんが卵も一緒に僕の横丁には売りにきた。
そのおばさん、卵は、僕の家からもかなり近かった養鶏場から毎朝生みたてのそれを仕入れて売り歩いていた。
納豆はなんでも自家製とか言っていたが、経木で三角に折られて包まれた納豆・・・・・・
「納豆ぅ、なっと、なっと~~~ぅ、タマゴっ」
と、そんな売り声だった。
おばさん、乳母車を改造した手押し車に段かさねにされた三角の納豆と、竹篭にいっぱいの真っ白いタマゴ・・・・・
母に言われて、眠い目をこすりながら滑りの悪い滑車の引き戸を下駄で蹴飛ばしながら、
「おばちゃん、納豆と卵ちょうだい」
僕がそういうと、おばさんはアルマイトの弁当箱にいっぱい詰まった“カラシ”を・・・・・
三角の納豆の経木ヒモを「ヒョイ」と解くとヘラのようなものですくい納豆の脇に載せる。
「のり、いっぱいかけとくからね」
そう言うとおばちゃんは、使い古したブリキの茶筒のふたを“パコッ”とあけると、
小器用に“サッサ、ササッ”と納豆にふりかけ・・・・・・
また、小なれた手つきで経木をたたむと、“クルッ”、“ギュッ”と縛り、
「ほらっ・・・・・」
と、僕がぶら下げている、ハギレで母が作った僕専用のお使い袋に卵と一緒に入れた。
あの時代、確か納豆も卵もそれぞれが“5円”ではなかっただろうか。
昭和32、3年の話しである。
それが僕の横丁の朝餉の光景だった。
それは納豆売りだけじゃあない・・・・・・
豆腐屋さんも「パ~プ~、パ~プ~」とハンドルのところと、荷台のところにコイル状のスプリングのついた、
豆腐屋のおじさん、いかにも、といった趣のその頑丈そうな自転車の荷台に、
ブリキの内張りの施しのある水の入った木箱に豆腐を詰め込んで僕の横丁を流していた。
一人っ子だった僕は小さい頃はよく母にくっついて夕餉の買出しに行った。
僕の横丁の商店街は、高砂町、九蔵町、そして八間道路と、それは僕の学校の近くにあって・・・・・・
まず、八百屋さん、魚屋さんと買い物をする。
もちろん冷蔵庫なんかあるわけがないのでその夕食に食べるだけの野菜と魚・・・・・・
母親の懐具合のいい時には“干物”に“佃煮”を買い置きする。
そういえば、“肉屋さん”は僕が中学に入る頃まで僕の横丁の商店街にはなかった。
もっとも野菜は母の実家(僕の)「碓氷郡豊岡(昭和30年高崎市に合併)」が農家だったので、
母の兄、おじちゃん(実父)が毎日のように野菜を市場へ荷出しのついでにいつも持ってきてくれた。
父は、いわゆる“ポッポ屋”で、3交代の昼夜勤で、僕との食事はあまりなかった。
いつも母と二人だけの朝、夕餉・・・・・・
父は静岡県沼津の育ちで魚には結構五月蝿かった。
そういえば“アジの干物”などが、父の実家からよく送られてきていた。
そんな父は相当の大酒のみで、酒が入るとじつにくどかった・・・・・・
「僕は絶対に酒は飲まないぞ!!」
と、子どもの頃は思っていたのだったが・・・・・・
今の僕。たぶん酒が入った時のその“くどさ”においては、父も閉口するのではないだろうかと思うと可笑しい。
父は落語家になりたくて沼津から東京に奉公を口実にに出たとか。
で、じつは、その奉公先が“酒屋”だって言うのも笑わせるが、その奉公先の近く・・・・・・
たしか根岸といったか、先々代の金馬師匠のところの通い弟子になったとかが自慢の父で、
酒が入ると、僕にその“落語”を、くどいくらい聞かせた。
戦争がはじまると父は、ポッポ屋だった兄の勧めでポッポ屋になった。
そのころ、すでに東京で所帯をもっていた母の姉のご亭主の引きで、上州女の母とお見合い・・・・・・
めでたく、華燭の典。その時の記念写真、たしか、そこは父の奉公先だった酒屋の二階。
昭和18年、父32歳、母22歳がかしこまっている。
その後、昭和20年3月の東京大空襲で焼け出され、母の母親の弟の世話で高崎に。
そして戦後、食料のほとんどが配給で、米は「米穀通帳」がなければ買えなかった、そんな時代。
今日の“食糧危機”がどうのこうのとか、“食料自給率”がどうしたとか・・・・・・
まるで、その時代から比べたら笑い話(笑)。
そして高度経済成長、食料も自前で、生活用品もほとんど自前でやってきた昭和30年、40年代。
それがいつからこんなことになってしまったのか、してしまったのか・・・・・
今日、「食料自給率」のそれは原材料どころかスーパーの店頭の「食品」のほとんどが輸入。
『農薬入り餃子』に『BSE牛肉』
鶏肉、豚肉、えび、カニ、加工魚、等々、ほとんどが輸入ではないか。
そして、マスメディアもつるんで怒りの矛先を“輸出国”に向けるが、それはお門違いではないのか。
これは、国の政策の結果なのだ。僕らが、国民が選んだ政治の結果なのだ。
それらの、『農林水産業』がその、食糧生産が立ち行かないように立法し、行政し、
商社の、商社による、商社のための行政の結果ではないのか。
つまり、今、食料の自給率を高めたら、困るのは、政治とつるんだ「商社」・・・・・
エネルギーもそう、石油、原子力に変わる代替エネルギーが完成したら困るのは「商社」。
今、それらの『食品』は“商品相場化”されている。冷凍食品などはその典型で、
商品相場『博打』のタマにされ、実物の数倍が相場取引されている。
アメリカのサブプライムをいうどころではない。
低所得者のローンを“証券化”するなどという、経済ではない、博打の世界は以ての外なんだが・・・・・・
しかし、この国では政府が食糧危機を作り出し、その食糧危機を『商品相場化』している。
弱小農業は後継者もなく、減反補助金も半減され、酪農の餌も「相場」に翻弄される。
見えてきたのは、「商社」の「営農」という国策。果たしてどこまでそれが立ち行くか?
「儲ける農業」は当然、遺伝子操作されるだろうし・・・・・・
まあ、「三食買い出し」だったあの時代は、庶民、大衆で街が賑わった。
昭和30年代、
横丁の「朝餉・夕餉」
横丁の「朝餉・夕餉」

高崎市立東小学校4年3組、担任は新井先生。
昭和33年、あの時代は三食買出しだった。
僕の子どもの頃の話しだから、相当古い話しになる(笑)。
朝ごはんは、たいがい“卵かけご飯”か、納豆と佃煮に、それに・・・・・・
夏場なら「ナス、きゅうり」の糠漬け、
冬場なら「沢庵か白菜」の漬物が相場だった。
あの頃は、“納豆売り”のおばさんが卵も一緒に僕の横丁には売りにきた。
そのおばさん、卵は、僕の家からもかなり近かった養鶏場から毎朝生みたてのそれを仕入れて売り歩いていた。
納豆はなんでも自家製とか言っていたが、経木で三角に折られて包まれた納豆・・・・・・
「納豆ぅ、なっと、なっと~~~ぅ、タマゴっ」
と、そんな売り声だった。
おばさん、乳母車を改造した手押し車に段かさねにされた三角の納豆と、竹篭にいっぱいの真っ白いタマゴ・・・・・
母に言われて、眠い目をこすりながら滑りの悪い滑車の引き戸を下駄で蹴飛ばしながら、
「おばちゃん、納豆と卵ちょうだい」
僕がそういうと、おばさんはアルマイトの弁当箱にいっぱい詰まった“カラシ”を・・・・・
三角の納豆の経木ヒモを「ヒョイ」と解くとヘラのようなものですくい納豆の脇に載せる。
「のり、いっぱいかけとくからね」
そう言うとおばちゃんは、使い古したブリキの茶筒のふたを“パコッ”とあけると、
小器用に“サッサ、ササッ”と納豆にふりかけ・・・・・・
また、小なれた手つきで経木をたたむと、“クルッ”、“ギュッ”と縛り、
「ほらっ・・・・・」
と、僕がぶら下げている、ハギレで母が作った僕専用のお使い袋に卵と一緒に入れた。
あの時代、確か納豆も卵もそれぞれが“5円”ではなかっただろうか。
昭和32、3年の話しである。
それが僕の横丁の朝餉の光景だった。
それは納豆売りだけじゃあない・・・・・・
豆腐屋さんも「パ~プ~、パ~プ~」とハンドルのところと、荷台のところにコイル状のスプリングのついた、
豆腐屋のおじさん、いかにも、といった趣のその頑丈そうな自転車の荷台に、
ブリキの内張りの施しのある水の入った木箱に豆腐を詰め込んで僕の横丁を流していた。
一人っ子だった僕は小さい頃はよく母にくっついて夕餉の買出しに行った。
僕の横丁の商店街は、高砂町、九蔵町、そして八間道路と、それは僕の学校の近くにあって・・・・・・
まず、八百屋さん、魚屋さんと買い物をする。
もちろん冷蔵庫なんかあるわけがないのでその夕食に食べるだけの野菜と魚・・・・・・
母親の懐具合のいい時には“干物”に“佃煮”を買い置きする。
そういえば、“肉屋さん”は僕が中学に入る頃まで僕の横丁の商店街にはなかった。
もっとも野菜は母の実家(僕の)「碓氷郡豊岡(昭和30年高崎市に合併)」が農家だったので、
母の兄、おじちゃん(実父)が毎日のように野菜を市場へ荷出しのついでにいつも持ってきてくれた。
父は、いわゆる“ポッポ屋”で、3交代の昼夜勤で、僕との食事はあまりなかった。
いつも母と二人だけの朝、夕餉・・・・・・
父は静岡県沼津の育ちで魚には結構五月蝿かった。
そういえば“アジの干物”などが、父の実家からよく送られてきていた。
そんな父は相当の大酒のみで、酒が入るとじつにくどかった・・・・・・
「僕は絶対に酒は飲まないぞ!!」
と、子どもの頃は思っていたのだったが・・・・・・
今の僕。たぶん酒が入った時のその“くどさ”においては、父も閉口するのではないだろうかと思うと可笑しい。
父は落語家になりたくて沼津から東京に奉公を口実にに出たとか。
で、じつは、その奉公先が“酒屋”だって言うのも笑わせるが、その奉公先の近く・・・・・・
たしか根岸といったか、先々代の金馬師匠のところの通い弟子になったとかが自慢の父で、
酒が入ると、僕にその“落語”を、くどいくらい聞かせた。
戦争がはじまると父は、ポッポ屋だった兄の勧めでポッポ屋になった。
そのころ、すでに東京で所帯をもっていた母の姉のご亭主の引きで、上州女の母とお見合い・・・・・・
めでたく、華燭の典。その時の記念写真、たしか、そこは父の奉公先だった酒屋の二階。
昭和18年、父32歳、母22歳がかしこまっている。
その後、昭和20年3月の東京大空襲で焼け出され、母の母親の弟の世話で高崎に。
そして戦後、食料のほとんどが配給で、米は「米穀通帳」がなければ買えなかった、そんな時代。
今日の“食糧危機”がどうのこうのとか、“食料自給率”がどうしたとか・・・・・・
まるで、その時代から比べたら笑い話(笑)。
そして高度経済成長、食料も自前で、生活用品もほとんど自前でやってきた昭和30年、40年代。
それがいつからこんなことになってしまったのか、してしまったのか・・・・・
今日、「食料自給率」のそれは原材料どころかスーパーの店頭の「食品」のほとんどが輸入。
『農薬入り餃子』に『BSE牛肉』
鶏肉、豚肉、えび、カニ、加工魚、等々、ほとんどが輸入ではないか。
そして、マスメディアもつるんで怒りの矛先を“輸出国”に向けるが、それはお門違いではないのか。
これは、国の政策の結果なのだ。僕らが、国民が選んだ政治の結果なのだ。
それらの、『農林水産業』がその、食糧生産が立ち行かないように立法し、行政し、
商社の、商社による、商社のための行政の結果ではないのか。
つまり、今、食料の自給率を高めたら、困るのは、政治とつるんだ「商社」・・・・・
エネルギーもそう、石油、原子力に変わる代替エネルギーが完成したら困るのは「商社」。
今、それらの『食品』は“商品相場化”されている。冷凍食品などはその典型で、
商品相場『博打』のタマにされ、実物の数倍が相場取引されている。
アメリカのサブプライムをいうどころではない。
低所得者のローンを“証券化”するなどという、経済ではない、博打の世界は以ての外なんだが・・・・・・
しかし、この国では政府が食糧危機を作り出し、その食糧危機を『商品相場化』している。
弱小農業は後継者もなく、減反補助金も半減され、酪農の餌も「相場」に翻弄される。
見えてきたのは、「商社」の「営農」という国策。果たしてどこまでそれが立ち行くか?
「儲ける農業」は当然、遺伝子操作されるだろうし・・・・・・
まあ、「三食買い出し」だったあの時代は、庶民、大衆で街が賑わった。
昭和30年代、
横丁の「朝餉・夕餉」
タグ :昭和、横丁、納豆、食料、政治
Posted by 昭和24歳
at 15:48
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